7話: ポケットの中の手紙
土曜日の午後。
空はからりと晴れて、湿気ひとつない風がベランダのカーテンを揺らしていた。
洗い立てのシーツを干しながら、私はぼんやりと空を見上げていた。
ポケットの中のスマホが小さく震えたのは、そのときだった。
《来週、少しだけ仕事の部署が変わるかもしれません》
湊からだった。
いつものような簡潔な文章。でも、“少しだけ”の中に、どこか不安の色がにじんでいた。
《大変ですか?》
少し間を置いて返ってきた返事は、短くて正直なものだった。
《まだわからないけど、なんとなく落ち着かないです》
その言葉を読んだ瞬間、心の奥が少しだけきゅっとなった。
湊の、あの少し気だるげな顔。駅前で見かけた、パンの袋を片手に笑っていた横顔。
そして、傘。
私の傘を、彼はまだ持っているだろうか。
いや、あれはもう、渡したのでも借りられたのでもなくて――
あの日から、もっと見えないものが少しずつ交換されていたのかもしれない。
*
午後三時。
私は、湊の部屋の前にいた。
チャイムを押すと、思ったよりすぐにドアが開いた。
寝ぐせのついた湊が、スウェット姿で顔を出す。
「……お疲れさまです。っていうか、ほんとに来たんですね」
「“少しだけ落ち着かない”って、誰かに言いたいってサインでしょ」
「そんな深読みされるとは思ってなかった……」
そう言いながらも、湊は部屋に通してくれた。
テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、読みかけの雑誌。
生活感にまぎれる湊の姿が、なんだか少し安心する。
「こないだの……あのとき、助けてくれてありがとうございました。膝、治りました?」
「うん。絆創膏のおかげ」
「ならよかった」
ちょっと照れくさそうに笑った彼の顔に、私はあの日の光景を思い出していた。
思いがけず再会したスーパーの前。
そして、そのあとに聞きたくても聞けなかった、いくつもの言葉。
「……あの」
湊が急に口を開いた。
「この前、駅前で誰かといたの見ましたよね?」
思わずドキッとした。
心の中でずっと引っかかっていた、その話題を彼の方から出してくるなんて。
「うん。……女の子、だったから」
「あれ、いとこなんです。田舎から出てきて、就職活動してて。こっちで面接あるからって連絡もらって、駅で待ち合わせしてただけで……」
「いとこ」
「はい。年下ですけど、子どもの頃はよく一緒に遊んでたんです。でも、会うの何年ぶりだったかな……」
心の中で、何かがすうっと溶けていく音がした。
「……そうだったんだ」
「誤解させてたら、すみません」
「ううん。言ってくれてありがとう」
ようやく、静かに息ができる気がした。
*
そのあとしばらくは、ふたりとも無言でソファに座っていた。
だけど、それは気まずさじゃなくて、たぶん余韻だった。
湊は何かを思い出したように立ち上がり、小さな引き出しを開けた。
そして、白い封筒を私に差し出した。
「これ、少し前に書いたんです。異動があるかもしれないって話が出てたときに、もし急に会えなくなったらと思って……」
封筒の中には、一枚の紙。丁寧に折りたたまれていた。
そこに書かれていたのは、手書きの短い言葉。
――《もし、会えなくなっても、忘れないようにと思って書いてました》
――《でも、会えなくなる前に渡せてよかった》
読みながら、私はなぜか少し泣きそうになった。
「……なんか、ずるいですね。先にこういうの書かれちゃうと」
「ずるかったらごめんなさい。でも、渡せてよかったです」
私はその手紙を、そっとポケットにしまった。
「じゃあ、こっちも渡します」
そう言って、私はバッグの奥からメモ帳を取り出した。
「今日、書きました。“手紙をもらった”って。それだけ」
湊はちょっと驚いたように、それを受け取った。
「このメモ帳、前にコンビニで見たやつと一緒?」
「そう。それからずっと持ち歩いてる」
湊はそれを両手で包むように持ち、静かにうなずいた。
「……大事にします」
その言葉に、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
*
帰り道、私はずっとポケットを触っていた。
その中には、くしゃっと丸まった湊の手紙。
まだ「好き」とは言っていない。
でも、それよりも少しだけ深いものを――
言葉や時間を、少しずつ、私たちは交換してきたんだと思う。
次にどんなページが開かれるのか、まだわからない。
でも、そのメモ帳が湊の手元にあると思うと、今日という日がそっとやさしく終わっていく気がした。




