6話: 日曜日のハプニング
夢から目覚めたとき、ほんの一瞬、隣に誰かがいる気がした。
でも、目を開ければ、そこにはいつもの天井と、静まり返った部屋。
布団の中で小さく息を吐いた。まだ日曜日の朝。時計の針は、いつもよりゆっくり進んでいる気がした。
なんとなく、胸がざわついていた。
夢の中に湊が出てきたせいだ。何も話さず、ただ隣にいて、笑っていた。
あの静かなぬくもりが、まだ手のひらに残っているような気がして、落ち着かない。
「……ちょっと、出かけてみるか」
顔を洗って、適当なワンピースに袖を通し、出かける準備をする。
向かった先は、駅前のスーパー。目的なんて、特にない。ただ、じっとしていられなかっただけ。
外に出ると、昨日の雨が嘘みたいに晴れていた。
空はまだ少し雲が残っていたけど、その隙間から差し込む陽射しが眩しい。
「こういう日って、誰かと一緒にいたくなるよね……」
思わずひとりごちた。
なんてことのない日曜日。だけど、そんな“なんてことのない日”に、一緒に過ごしたい人がいること自体が、もう特別なのかもしれない。
*
その再会は、あっけないほど突然だった。
スーパーの前で、風にあおられた自転車が倒れてきて、近くにいた小学生の男の子がそれに巻き込まれそうになった。
「危ないっ!」
私はとっさに子どもをかばった。その子は無事だったけど、私の膝は見事にアスファルトに擦れていた。
「いたた……やば、血……」
慌ててバッグの中を探る。ティッシュはどこ、絆創膏なんて入れてたっけ……。
あたふたしていたそのとき、ふいに背後から影が差した。
「……千紗さん?」
その声に、心臓が跳ねた。
ゆっくり顔を上げると、そこに湊がいた。
白いTシャツに黒のジャケット。少し寝癖が残った髪と、私を見下ろすようにのぞきこむ視線。
「大丈夫ですか?」
彼は一歩近づいて、しゃがみ込む。
「あ、うん……ちょっと派手にすりむいただけ。大丈夫、大人だから」
そう笑ってごまかしたつもりだったけど、彼は真面目な顔のまま、ポケットから何かを取り出した。
「非常用です」
それは、絆創膏だった。
「……あ、ありがとう。なんでそんなの持ってるの?」
「靴擦れしやすいから。あと、転ぶ友人が多くて」
「それ、どんな人間関係?」
「いや、まあ……念のためってやつです」
そんなやりとりの合間にも、彼は手際よく私の膝を拭いて、そっと絆創膏を貼ってくれた。
いつも気だるそうなその手が、思いのほか優しくて、なんだかくすぐったい。
「痛くないですか?」
「うん、大丈夫。ありがとう、ナースみたい」
「じゃあ、時給ください」
「最低賃金でよければ」
「うーん、やめときます」
ほんの数日ぶりなのに、こうして言葉を交わすのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
言葉の端に、少しだけ距離がある。でも、その距離は心地悪くなかった。
むしろ――懐かしい、と思った。
*
ふたりで並んで歩きながら、スーパーの横のベンチに腰を下ろす。
「最近、どうしてました?」
湊がふとそう聞いた。
その声は軽い調子だったけど、どこか探るような、慎重な響きがあった。
「うーん……仕事して、寝て、また仕事して……」
「忙しそう」
「まあ、暇なときよりは、気が紛れていいかな」
本当は言いかけた言葉があった。“あなたのこと、ずっと考えてました”って。
でも、それを口にするには、まだ時間が足りない気がした。
私も聞きたかった。あの日、駅前で話してたのは誰だったのか。
どうして、メッセージが来なかったのか。
……今、私のことをどう思ってるのか。
でも、聞いたら何かが壊れてしまいそうで、私は口を閉じた。
しばらく沈黙が続いたあと、湊が立ち上がる。
「また、どこかで会うかもしれませんね」
「うん、たぶん、またどこかで」
別れ際、彼は何か言いたげだった。でも、何も言わなかった。
そして私も、なぜか「またね」と言えなかった。
*
帰り道。
カバンの中を整理していて、ふと、湊が貼ってくれた絆創膏の包み紙が手に触れた。
あの手の温度。短い会話。静かな笑い声。
それはまだ、恋とは呼べないかもしれないけれど、
確かにそこにあった、小さなぬくもりだった。
しばらくその包み紙を捨てられずに、私はポケットの奥にそっとしまった。
たぶん、またどこかで――なんて、ぼんやり思いながら。




