5話:青いボタンのない日
第五章:青いボタンのない日
目が覚めて、カーテンの隙間から淡い光が差し込む。
今日は日曜日。予定は何もない。
ごく自然な動作で、枕元のスマホを手に取った。画面をスワイプして、まずLINEを開く。
無意識に、あの青い丸を探している。
湊からの通知は、ない。
昨日も、おとといも、湊のメッセージは短かったけど、毎朝そこには小さな青い点があった。
「おはようございます」だけだったり、
「昨日のどら焼き、うまかったです」なんて素っ気ない一言だったり、
犬のスタンプだけのときもあった。
でも、そういうのがあるだけで、私はほんの少し元気になれていた。
なのに、今朝は、それがない。
その事実だけで、今日は少し違う日になる気がした。
*
窓の外は雨。
細くて頼りない雨が、ベランダの手すりを静かに打っていた。
部屋の中にこもる湿った空気が、余計に気分を沈ませる。
何かしなきゃと思って掃除機を出しかけたけど、結局ソファに座りこんだまま、ぼんやりと時間が過ぎていく。
テレビもつけない。音楽もかけない。
この静けさの中、なぜか私は“あの部屋の生活音”を探していた。
もちろん、隣に住んでいるわけじゃない。
彼の部屋がどこにあるか、正確には知らない。
でも、何度か偶然出くわしたあの路地を通れば、ふいに姿が見えるかもしれない。
そう思わせるくらい、私の生活圏の中には、彼がいる。
……それだけで、充分だったはずなのに。
「今日は、出かけてるのかな」
口に出してみたけど、返事があるわけじゃない。
ただ、その言葉がやけに胸に響いた。
彼にとっての“普通の日曜日”の中に、私は存在していないんだろうな。
そう思うだけで、少しだけ苦しくなる。
*
午後になって、雨脚は弱まった。
じっとしているのが辛くて、コンビニにでも行こうかと外に出る。
わざと遠回りして、駅前の方まで歩いてみる。
道に咲いた雨粒の音が、何も考えたくない私にはちょうどいい。
そして、ふと、見つけてしまった。
駅前の本屋の前。傘を持った男性。見覚えのある後ろ姿。
湊だった。
彼は誰かと話していた。
小柄な女性。笑い声が雨の音に混じって、やけに楽しそうに聞こえた。
湊も笑っていた。
私と話すときより、もっと砕けた、やわらかい笑顔だった。
私は立ち止まって、傘の中でそっと目を伏せた。
声をかけようと思った。でも、足は動かなかった。
その笑顔を見たとき、自分の居場所じゃないと、瞬間的にわかってしまった。
彼の“日常”に、私はまだ含まれていない。
あの日、夜の帰り道でほんの少しだけ重なった距離は、所詮、仮のものだったのかもしれない。
*
部屋に戻っても、心の中は雨のままだった。
ソファに腰を下ろして、スマホを開く。
やっぱり、青い通知はない。
トーク画面を開いても、会話は数日前のまま。
誰にも見せないその画面が、まるで“片想いの証拠”みたいに感じられた。
――私は、今、どこに立ってるんだろう。
ほんの少し前までは、近くにいると思っていた。
話せば笑ってくれて、どら焼きのお礼だってくれて、
名前を知らなかったころの不思議なやりとりさえ、全部が特別に思えたのに。
どうして、こんなふうにすれ違っていくんだろう。
“何も起きてない”はずなのに、心だけがどこか遠くへ行ってしまう。
*
その夜も、湊から通知はなかった。
でも、夢の中には彼がいた。
誰かといるわけじゃなくて、私の隣に、ただ静かに座っていた。
何も言わず、でも、笑っていた。
その笑顔が、目が覚めても、ほんの少しだけ心に残っていた。
現実は、静かで、ひとりだったけど――
それでもその夢の温度だけが、朝の手のひらにやさしく残っていた。




