4話:ふたりぶんの影法師
金曜日の夜。
会社のビルを出た瞬間、風が頬を撫でた。
私は足を止めて、空を見上げる。
夕暮れと夜のあいだを縫うように、三日月がビルの隙間から顔を覗かせていた。
その光はどこか頼りなくて、それでも空の端に浮かんでいるだけで、少し安心する。
カーディガンの袖を握り、駅までの道を歩く。
ポケットの中では、スマホが温もりを帯びていた。
通知は来ていない。けれど、画面をちらりと見るふりをして、私は自分に言い聞かせる。
“別に期待してたわけじゃない”
……いや、たぶん少しくらいはしてた。
「……来週、傘を返そう」
誰に言うでもなく呟いた言葉は、冷えた空気にふっと吸い込まれていった。
そのときだった。
背後で足音が止まり、声が落ちてきた。
「ストーカーじゃないですよ」
振り返ると、湊が立っていた。
本当に、そこに。
「いや、十分あやしいですけど」
そう返すと、彼はおどけたように片手を上げた。
「たまたまですよ。ほんとに」
「“たまたま”多すぎません?」
「あなたのほうこそ。遭遇率、高くないですか?」
「それは、ここが私の通勤路だからです」
「僕もです」
目だけがいたずらっぽく笑っている。
その目の奥にあるものを、私の心のどこかが探してしまう。
「……夕飯、食べました?」
湊の問いかけに、私は首を振った。
「まだです」
「じゃあ、付き合ってください。あそこの角を左に曲がった先に、小さくておいしいカレー屋があるんです」
「……甘口、あります?」
「……たぶん。でも、ちょっとくらい辛くても、きっと平気ですよ?」
「冒険は、どら焼きだけで十分です」
そんなやりとりを交わしながら、ふたりで歩き出す。
肩がぶつかりそうで、でもぶつからない距離。
あいまいで、でも心地いい、余白のようなその間に、私は少しだけ戸惑いながらも歩を合わせた。
*
そのカレー屋は、看板も目立たず、街の景色に溶け込むようにぽつんとあった。
中に入ると、スパイスの香りがふわりと鼻をくすぐる。
白いテーブルと年季の入ったカウンター。壁には色鮮やかなチベットの布。店内には数組の客がいて、静かに話しながら食事を楽しんでいた。
ふたりで向かい合って座り、湊がメニューを差し出す。
「お好きな辛さをどうぞ。保証はできませんが」
「もう、フリにしか聞こえない……」
私は恐る恐る「甘口」を指差して注文した。
*
出てきたカレーは、湯気の奥に赤いスパイスの粉がうっすら見えていて、すでに不安な予感がした。
ひと口食べた瞬間、舌の奥にチリッと刺激が走る。
「……辛っ!」
「それ、辛口ですよ」
「いやいや、甘口って言いましたよね!?」
「言ってましたね。でも、たぶん“ここの甘口”ってだけで、世間的には普通に辛口です」
「それ、詐欺ですよ。カレー界の黒幕かも」
「でも、美味しい詐欺です」
ふたりで笑いながら、カレーの皿は少しずつ空になっていった。
いつの間にか店内は満席に近く、隣のテーブルでは学生たちがにぎやかに話している。
スプーンを口に運びながら、湊がぽつりとつぶやいた。
「……前に、ここに友達と来たんです」
「へえ、昔からある店なんですね」
「うん。その友達、今は海外に転勤しちゃって。最近は連絡もあまり取ってないんですけど」
その声は、少しだけ遠く感じた。
カレーの熱さとは別の、寂しさがふわりとテーブルの上に落ちる。
私はその間を埋めるように、最後のひと口をすくって言った。
「じゃあ、その“思い出の店”を、勝手に更新しちゃったんですね」
「……そうなりますね」
少しだけ間を置いて、彼の口元がふわりと緩む。
「でも、それも悪くないかもしれないです」
その言葉が、どんなスパイスよりも、温かかった。
*
店を出ると、風がいっそう冷たくなっていた。
けれど、背中を丸めるほどではない。
むしろ、さっきのカレーの熱が、まだ体の奥に残っている。
ふたりで並んで歩く夜道。
歩道に伸びる影法師が、少し揺れながら寄り添っていた。
「今週、長かったな」
私がぽつりと呟くと、湊がポケットから手を出して、伸びをする。
「でも、どら焼き食べたり、カレー食べたりした週でしたね」
「食べてばっかりですね」
「栄養って、心にも必要らしいですから」
「……その名言、どこ情報ですか」
「ポケット情報です」
くだらない会話が、やけにおかしくて笑い声がこぼれる。
影はふたつ。
近づいたり、少し離れたりしながら、それでも隣同士にのびていく。
夜の街に、歩く音と笑い声が混ざって、ふたりぶんの影法師が、まるで物語の続きのように足元に残っていた。
――こんな時間が、続く保証はない。
でも、今はまだ、この距離が心地いいと思えた。




