3話:ポケットの中の既読
月曜日の昼休み。
昨日の雨が嘘みたいに晴れた空の下、私はオフィスの隅にある小さな休憩スペースで、コンビニのおにぎりをかじっていた。
「……今日、晴れたなあ」
誰に届くでもない呟きが、白い紙コップのコーンスープの湯気にまぎれていく。
バッグの中には、丁寧にたたんでビニール袋に入れた傘。湊に借りた、ネイビーの折りたたみ傘。
あの駅前で偶然出会って、なんとなくやりとりして、なんとなく借りた、あの傘。
そのとき、スマホがそっと震えた。
《昨日は、傘どうでした? 無事に溶けずに帰れましたか》
……“溶けずに”?
思わず笑いそうになるのをこらえて、私は親指で画面に言葉を打ち込む。
《おかげさまで無事に帰還しました。干してお返ししますね》
送信ボタンを押したあと、つい数秒間、画面を見つめてしまう。
ポン、と既読がついた瞬間、次のメッセージが届いた。
《じゃあ、お礼は傘の乾燥代でいいです》
《えっ、高くないですか。時価ですか》
《時価です。日替わりで変動します》
やわらかくて、少しくすぐったい会話。
スマホの小さな画面の中で、湊の言葉が、私の昼休みをそっと明るくしていった。
*
夜、最寄り駅からの帰り道。
昨日と同じ横断歩道の前で信号を待ちながら、私はふと周囲を見渡していた。
探しているわけじゃない。でも、視線は自然と動いてしまう。
――でも、彼の姿はどこにもなかった。
そりゃそうだ。偶然なんて、そんなに都合よく続くはずがない。
私はバッグの中に手を入れて、あの傘の感触を確かめる。
晴れているのに、持ってきていた傘。
きっとそれは、気のせいじゃない。
*
翌日の夜。
ソファでうたた寝していたところに、玄関のチャイムが鳴った。
「ん……?」
眠い目をこすりながらインターホンの画面を覗くと、そこに映っていたのは、よく知った顔だった。
「……えっ?」
慌ててドアを開けると、湊が立っていた。
手ぶらなのに、足元には白いビニール袋。
「こんばんは。傘、回収に参りました」
「……クリーニング屋みたいに言うの、やめてください」
笑いながら言うと、湊は小さくうなずいて、ビニール袋を掲げてみせる。
「お礼の代わりってことで、物々交換を」
「……なに、それ」
「どら焼き。あと、ちょっと小さいどら焼きと、ちょっと大きめのどら焼き」
「ラインナップ、全部どら焼き!」
「近所の和菓子屋さんで迷った末にこうなりました」
私は吹き出しながら、彼を家の中に招き入れた。
*
リビングのソファに並んで座り、ふたりでどら焼きを半分こする。
湯呑みに入れた緑茶の湯気が、曖昧な距離をふわりとつなぎとめてくれていた。
「……なんか、こういうの、いいですね」
湊がぽつりと呟いた。
「こういうの、って?」
「日曜に雨で出会って、火曜にどら焼き食べてるこの感じ」
「……ドラマにするには、ちょっと地味すぎますね」
「でも、退屈じゃないですよね?」
私は返事をしないまま、どら焼きをもうひと口かじる。
その甘さが、静かに、心の中まで染みていく。
夜遅く、湊が帰ったあと。
テーブルの上に残ったどら焼きの包みを片づけながら、スマホを確認する。
《どら焼き、次はもう少し冒険してみます》
《たとえば?》
《……たい焼きとか》
《それ、方向がもう別物では?》
笑いながら返信を打つ。
ポケットの中で、湊の名前が表示された通知が静かに灯っている。
まるで、まだ乾ききっていない傘の布地のように、ふんわりと、余韻を残したままで。
――この感じに、まだ名前はないけれど。
きっとそれは、悪くない始まり。




