番外編・由香里視点: もうちょっとだけ、近くで
「傘の人、最近どう?」
そう聞いたのは、たぶん三回目だった。
千紗は、いつもみたいに苦笑いして、
「え、誰それ?」とかなんとか、しらばっくれて麦茶を飲んだ。
あんたのそういうところ、昔から変わんないよね。
好きなのに、好きって言わない。
気になるくせに、「そうでもない」とか言って。
でも、その話になると、声のトーンが半音だけ上がるの、私は知ってる。
*
最初にその人の話を聞いたのは、春の終わりだった。
「となりの人がさ、なんか変わってて」
そう言って、ぽつぽつ話し始めたのは、レジ袋を二重にするかどうか悩んでた時だった。
普通の買い物中だったのに、気がつけば私は、彼の名前も知らないのに、やたら詳しくなっていた。
・朝、パンの袋を落とすと絶対拾ってくれる
・夜になると、たまにピアノみたいな音がする
・洗濯物の干し方がていねいすぎて逆に怖い
……って、どんな情報。
でも、話してる千紗の顔が、やわらかかった。
誰かを遠くから見るときの、あの目をしてた。
*
ある日、「もう引っ越しちゃったかも」って、千紗が言った。
そりゃもう、大事件のようなトーンで。
「そうなんだ」と言ったけど、本当はちょっと泣きそうだったのは、たぶん私の方だった。
あんた、久しぶりに、誰かの話をあんなに嬉しそうにしてたじゃん。
なんで、追いかけなかったの。
だけど、そう思いながらも、何も言えなかった。
たぶん私も、千紗のそのペースが、少しうらやましかったのかもしれない。
*
数ヶ月ぶりに会った千紗は、なんか、ぽやっとしてた。
前よりよく笑うし、部屋も片付いてたし、トーストを焦がさなくなってた。
それに、なんていうか――横に、誰かの気配があった。
「今日の夜、うちで鍋するから。あ、もうひとり来るけどいい?」
そう言って、ちらっと私を見る。
うん。大丈夫。わかってる。
たぶんその人が、あの「傘の人」なんでしょ。
ようやく名前を知れそうで、私はちょっとだけ緊張していた。
*
ドアが開く音がして、彼が「こんばんは」と言った。
その声に千紗がふっと笑うのを見て、
ああ、いい人なんだなと思った。
きっとこれからも、千紗は「好き」とか「大事」とか、はっきり言わないまま、少しずつ寄り添っていくんだろう。
そしてそのとなりには、この人がいる。
それでいい。たぶん、それが一番いい。
私は鍋の具材を並べながら、心の中でそっと言った。
「お手柔らかに、頼むよ。ほんとに」




