番外編・湊視点: ポケットの中の小さな声
引っ越しを決めた理由は、ちゃんと聞かれたら、きっとうまく答えられない。
「なんとなく」「タイミングがよかったから」
本当はもっと、たくさん言葉にできる気がしたけど、うまくまとまらなかった。
ただ、あの部屋の窓を開けても、彼女の声は聞こえない。
それがだんだん、妙に落ち着かなくなってきて。
コンビニで買ったアイスを片手に「これ、好きそう」と思うたび、
自分の暮らしの中に、彼女の居場所が勝手に増えていくのが、ちょっと嬉しくて、ちょっと怖かった。
だから、引っ越した。
「ちゃんとした理由」はたぶん、それだけだった。
*
一緒に暮らすって、もっと特別なことだと思っていた。
プロポーズがあって、家探しがあって、両親の顔合わせがあって――みたいな、きっちりした順番の中にあると思ってた。
でも、気がつけば、彼女の冷蔵庫に僕の飲みかけの麦茶があって、
洗面所には二本の歯ブラシが並んでいた。
休日の午後、カーテン越しの光がやわらかくて、
気づくと彼女がうたた寝していて、その隣で本を読む自分がいた。
なんてことない光景なのに、ふいに思った。
ああ、これがたぶん、好きってことだ。
何も起きていない日を、ずっと一緒にいられる人のことを、
僕はきっと、心の底から好きになっていた。
*
ある夜、彼女が古い封筒を机に置いた。
「……これ、渡そうと思ってたけど、やっぱりやめる」
そう言って笑うくせに、顔はほんの少しだけ赤かった。
「じゃあ、受け取るのやめるよ」
僕がそう返すと、彼女はちょっとだけ安心したような、ちょっとだけ残念そうな顔をした。
でもその顔を見て、なんとなく思った。
きっとこれからも、伝えそびれた言葉がいくつも増えていく。
だけど、それでいいのかもしれない。
すべての気持ちを言葉にしなくても、
彼女の表情を見れば、僕はだいたいわかる気がするから。
*
帰りが遅くなった夜。
玄関を開けると、部屋の中から「おかえり」の声がした。
僕のために用意されたスリッパと、温かい湯気と、カーテン越しの街の灯り。
その全部に、名前をつけるなら――たぶん、幸せって言うのだと思う。
ポケットの中に、まだ捨てられないチケットの半券がある。
あの日、彼女と偶然乗った映画館のやつだ。
内容は正直、よく覚えてない。でも、あのときの彼女の笑い声は、今もはっきり覚えてる。
「ねえ、明日もここにいていい?」
何気なく聞いたその問いに、彼女は当たり前みたいに言った。
「うん。ていうか、もういるじゃん」
そうか。そうだった。
僕はもう、とっくに、彼女のとなりにいる。
そのことが、こんなに心強いなんて、あの頃の自分は知らなかった。




