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第2話:知られなくていい

朝。目を覚ました瞬間、自分の体が少し重たいことに気づく。毛布をめくると、パジャマの下でおむつがふくらんでいた。やっぱり、今朝も……。慣れてしまったはずなのに、胸の奥が少しだけチクンとする。


立ち上がると、おむつが太ももに触れて、くしゅ、と音を立てた。誰にも聞かれていないと分かっていても、怖い。だから私は、そっと洗面所に向かって歩いた。おむつを脱いで、シャワーを浴びる。身体を洗いながら、あのときの夢を思い出す。


小さな頃、ママと妹と3人で、お風呂に入っていた記憶。あの頃は、妹より少しだけ“お姉さん”だったはずなのに――。


朝食は、私とみなみの二人分だけ。ママとパパはもう出勤していて、リビングは静かだった。


みなみは最近、身長が154センチになったらしい。私より30センチ以上も高い。ふたりで並んでいたら「お姉ちゃん」と呼ばれるのは決まって、みなみのほう。胸元もふんわり膨らみ始めて、制服を着た姿はもう“女の子”じゃなくて、ちゃんと“女性”に見える。私にはたぶん、来ないままかもしれないもの――生理も、みなみはもうあるらしい。本人は気にしてなさそうだったけど、私は、聞かなかったふりをした。


パンをかじりながら、ふとテーブルの端に置かれた書類に目が止まる。中学校の授業参観のお知らせ。みなみが中1になってから、なんだか少し、大人びてしまった気がする。

ママは、よく家のことをみなみに頼む。

「みなみ、今日の夕方お願いね」

私じゃなくて、妹に。私のほうが年上なのに。家事も、みなみは上手。掃除機をかける音や包丁の音、テキパキと動く音が、私はどこか遠くに感じている。


朝食を終えて制服に着替える。スカートを履く前に、鏡の前に立つ。制服はまだきれいなまま。スカートのプリーツも、ジャケットの肩も、ほつれひとつない。

──でも、それは新品だからじゃない。


制服は4着ある。ふつうの人はせいぜい洗い替えにもう1着ぐらい。理由は、おもらし。汚してしまうことがあるから、替えがたくさん必要だった。

それを知っているのは、ママと、保健室の高田先生だけ。


制服ができたのは、高校に入る直前だった。中3の1月、合格発表が出た翌週に、ママと二人で制服屋さんへ行った。私の体型では、既製品のサイズがどれも合わなかった。だから、全部オーダーになった。採寸のとき、店員さんがちょっと困ったような顔をしていたのを覚えている。「この丈で大丈夫ですか?」って何度もママに確認してた。結局、仕上がったのは入学式の前日。ママは内心ヒヤヒヤしてたみたい。


「間に合って、ほんとによかったね」

笑ってくれたママの顔が、少しだけ涙ぐんで見えた。

──私は、笑えなかった。

入学式の日。真新しい制服におもらしが染みなくて、ホッとしたのを覚えている。


通学路の途中で、制服のスカートを気にしてしまう自分が嫌になる。今日は大丈夫。今朝はちゃんと替えたし、トレーニングパンツも履いている。

学校に着いて、教室に入る前に、保健室へ寄った。いつものように、リュックから、替えのトレパンが3枚入ったポーチを取り出す。


「おはよう、咲ちゃん」

保健室で迎えてくれたのは、高田先生。40代後半で、どこかママに似ている。声も、笑い方も、少しだけ似てるから、安心できる。


「……お願いします」

私は小さな声で渡す。高田先生は何も聞かず、頷くだけ。


2限目の途中だった。なんとなく、落ち着かない。膀胱のあたりに重たさを感じて、手のひらが湿ってくる。先生の声が遠くなる。黒板の文字がぼやける。トイレに行きたい。でも、もう間に合うか分からない。手を挙げようとして、躊躇してしまう。

──次の瞬間、あたたかい感触がお股に伝わった。トレパンが受け止めてくれた。でも、危なかった。


授業が終わるとすぐに、教科書を片づけ、保健室に向かう。ノックすると、すぐに高田先生が出てきてくれた。


「また……失敗しちゃいました」

私は視線を伏せたまま、トレパンを指さす。先生は柔らかく笑ってくれる。


「最近、失敗の回数が多いね。病院の先生は何て?」


私は言い淀んでから、少しだけ答える。


「……多分、昼間も必要になるって……言われてます」


おむつ、なんて言葉は使いたくなかった。


こんな身体になったのは、6歳の時だった。私が年長組の春、みなみとリビングで遊んでいたとき。私はトイレに行って、戻ってきたら、みなみの姿がなかった。

ママはソファでうとうとしていた。玄関が開いていて、靴が一足、なくなっていた。

慌てて外に出ると、みなみが道路に向かって歩いていた。車の音が聞こえる。私はとっさに走って、みなみを突き飛ばした。


──次の瞬間、私がはねられた。


意識が戻ったのは、病院のベッドの上。脳と神経に障害が残ったと知らされたのは、ずっと後のこと。その日の夜から、おねしょが再発した。

今より小学校に入学した時の方がトイレに間に合っていた。


みなみは、そのことを知らない。

あの事故のことも、覚えていないらしい。知らせるつもりもない。

ママとパパにも、「みなみには言わないで」ってお願いした。


みなみは今日も、私に意地悪を言う。

それでいい。あの子が、健康で、元気で、大人びていて――私の分まで、ちゃんと歩いていけるなら。私はその横で、小さな歩幅で、今日も生きていく。


ベッドに横になると、身体が少し冷えてきた。部屋の天井をぼんやり見ながら、私は心の中でつぶやいた。


「ごめんね、みなみちゃん。ありがとう」

たぶん、これから先も。

この気持ちだけは、伝えられない。


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