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第3章_第1節

この都市にある建築物のうちで宮殿のつぎに雄大なものといえば、あのエイリアス大聖堂に違いない。この大聖堂はすでに何百年何千年以上の歴史を持ち、神の名をつけられている。敬虔な信者たちにとっての聖地かつ浄土であり、信者たちはここへ巡礼できることを誇りとする。

聖神とは、この世界そして万事万物の創造者であり、彼女は世の暗闇を追い散らし、我らが生命は彼女から賜った。彼女は何でもでき、どこにでも存在し、平等的に皆を愛している。

大聖堂前の芝生にあるベンチに坐り、天雲は信仰について書かれたパンフレットを読んでいた。そこにはこの大聖堂の歴史や、この世界の神話が描かれていた。その中には大量の誇張と、讃える言葉が書かれている。どの世界の中でもすべて同じようなものである。

天雲は信仰心のある方とは言えない。適当な祈祷と信仰は自信と意志の力を増強できるが、一切を神に託すよりも、むしろ自分の所作こそが最も重要であると考えている。彼は神が存在しているかどうかということを考えることはあまり好きではないが、このような魔法と神が存在している世界でならば、このような全知全能の創始者は本当に存在しているかもしれないと考えた。

この聖神というエイリアスの存在はおそらくこの世界の天主である。こんな場所では、用心深く行動するほうがいいだろう。そうしなければまた大きなトラブルを引き起こしかねない。回りを見渡せば、修繕中と聞いた通り大殿は閉じているが、大聖堂の前にある広場や芝生の上は依然として、人が少なからず集まっている。その中では子供を連れて、一緒に遊んでいる人がいる。ここは信仰の中心地でありながらも、普通の広場としても非常に人気が高いらしい。

最初にこの大聖堂に近付いて観察していたとき、天雲はいささか驚きを隠すことができなかった。この雄大かつ膨大な建築のスタイルは今までに見たこともなく、おまけに真っ白な外壁はまるでおとぎ話に出てくる城のように見えた。お姫様が住んでいる宮殿と比べても、まったく見劣りしない。中を一遍探索してみようものなら、おそらく何時間あっても時間は足りないだろう。

探った情報からすると、ここにある品物はまだ取り出されていないようである。修繕のためにここはとても厳しく守られており、その上、放逐地にいる人々は外に出ることができないためだ。物品をこのように厳戒に守られている場所に置くことができ、また、放逐地内部の人間の試練として提案したのは、一体どのような人物なのか……天雲は好奇心を抑えきれずにいた。

しかし……中に入ろうと思えば、それは難しいこととは言えないだろう。

少し観察した後、天雲は芝生の片隅の処まで来た。ここには腰の高さほどの低木と、幾本もの木が一列に植えてあり、姿を隠すのにちょうどよかった。

もう一度誰にも自分の姿が見えていないことを確認した後、天雲は数歩後ずさり、前へ突進した。飛び上がって壁を数歩蹴った後、手を伸ばして壁上にある窓の突起をつかみ、そのまま屋根に登った。この部屋は大聖堂とつながっている建物の一部だ。きっとここから大聖堂の中に入ることができるだろう。この城のような大聖堂の屋根にぎっしりと並んだ突起と装飾のおかげで、天雲は容易に自分の姿を隠すことができる。ましてやこんな時に頭を上げて、大聖堂の屋根上に人がいるかどうか探す人は誰もいないだろう。

外壁上の透かし彫りをくぐって天雲はこっそりと大聖堂の中に潜入した。大聖堂内部には、修繕のため、木製の足場と太い丸太の支柱のブラケットが立ち並んでいる。地上にいる見張りを驚かせないためにも、必ずこれらの半空中にあるブラケットを通らなければならない。

幸いにも今は昼休みの時間にあたっているようで、大聖堂に残っている人は何人もいない。多少動いて物音を立てたところで、彼らの注意をひくことはないだろう。大聖堂内部の装飾は外から見るより更に華やかで、壁と石柱上の彫刻は極めて精巧に作られている。天井面に一枚一枚の美しい絵画作品があり、きっとこの世界の聖書にある物語を語っているものなのだろう。

高い日差しがステンドグラスを透かして差し込む。地上に無数のまばらな色彩を映し出している。天雲は一座の彫像上に視線を止めた。

それは若く美しい女性のように見受けられた。顔立ちに威厳が満ち溢れているだけでなく、身体はすらりとして華やかで、複雑な衣装とあの気取らない気質も一緒に作り上げられている。それはあたかも本物のように目前にたたずんでいる。仮にこの世界に本当に神がいたのなら、天雲はこれこそが神のイメージであると信じるだろう。心中で思わず信仰の感情が高まる。

彫像は大聖堂の最も目立つ場所に並べてあり、描かれているのはきっと聖神エイリアスご本人に間違いない。この神は本当にこの世界に降臨したことがあるのだろうか、それとも芸術家たちは全能力を尽くして最も完璧なイメージを作り上げたものなのだろうか。まるで信じられないほどに美しい芸術品であった。

いや、今はそんなことをしている場合でない。鑑賞するのなら、この場所の修繕が終わったあとに正式に入場して、飽きるまで見ればいい。再び注意力を目下のことに戻し、天雲は用心深くも素早い所作でブラケット上を移動する。芸術家はそのブラケット上から天井に絵を描くことを想定した設計であるものと考えられるので、このブラケットは非常に頑丈に構築されており、少なくとも壊れる心配はないだろう。

天雲はブラケット上から仮設されたプラットフォーム上まで跳び降り、また、プラットフォームを借りて、次のブラケットに上がる。ここにいる何人かの見張りは仕事に無関心そうで、何人かはうとうとと船を漕ぎかけ、何人かは集まって話し込んでいる。誰も頭上で起こっていることには気付いていないだろう。

大聖堂という場所でこんなことをするなんて、神への冒涜になりかねないだろうが、今の天雲の前には関係ない。天雲が今知りたいのは、一体どんな奴がこんな不思議な場所に品物を置いたのか、ただそれだけだ。この世界中にある一切に対して、天雲が理解していることは、まだあまりにも少なかった。このような場所は天雲にとっても危険であることには間違いない。もし他の誰かならばうっかり足を踏み外して転落死してしまうかもしれないだろう。こんな高さから転落死でもすれば、下にいる見張り達の心に、少なからず傷を残してしまうだろう。

距離が近づき、天雲はすでに大きなステンドグラスのアーチ窓上をはっきりと見ることができるようになった。そこには小さな四角いケースが置かれている。あれがきっと、リストに書かれている物品に違いない。このように極めて難しい場所に置かれているおかげで、まだ誰にも取られていないようである。もし修繕用のブラケットがなかったのなら、もし天雲さえどうやってそれを取ればいいかわからない。

飛ぶことのできる魔法使いならきっと楽に手に取ることができるのだろう。しかし、空飛ぶ魔法なんてものは、天雲の想像を超えていて、そんなことについてはもう多く考えたくない。しかし、魔力を持って魔法を使えれば、きっと生活中で少なからず利便性を得ることができるのだろう。

目の前まで近づいたといえ、天雲はまだすぐにそれを手に取る方法がない。この時天雲はすでにブラケットの一番端に着いてしまったが、ステンドグラスにはまだ一段の距離がある。周りを見渡して天雲はぱっと一跳びし、シャンデリアに飛び乗った。これら鉄鎖で屋根に固定されているシャンデリアは、天雲の天井を支えるのには十分だ。

天雲はゆっくりと力を入れ、シャンデリアを揺らす。片手で鉄鎖をつかんで体を突き出し、腕を伸ばしてその小さなケースを取った。天雲は力を正確に制御する必要があった。力が小さすぎれば手はケースに届かないし、力を入れすぎればシャンデリアはステンドグラスを突き破ってしまうだろう。そんなことをしては大きなトラブルとなってしまう。

幸いにもここは大聖堂の隅であり、見張りたちはサボったりだべって(駄弁って)いたりと、誰もシャンデリアの動きなんて見ていない。数度試した後、天雲はやっとその小さなケースを手に取ることができた。

ケースをじっくり見ることもせず、天雲はシャンデリアの振子運動のままに、先ほど渡ってきたブラケットの上に跳び戻る。しかし数歩も歩かないうちに、足元のブラケットはなんと断裂した。片手でケースを抱えた状況下であったが、天雲は素早く反応し、空いたもう片手でしっかりとブラケットの縁をつかみ、どうにか墜落は免れた。

「うん? 何の音だ?」

断裂した丸太は地上に落下して鈍い音を発した。それは静かな大聖堂の中で耳障りに響き、見張りたちの注意を集めてしまう。

二人の見張りが音のした方に向かって歩けば、そこでは地上に投げ飛ばされて姿の変わった丸太を見つけてしまう。そして頭を上げ、ブラケットに視線を投げた。

「まったく、始まってまだ数日もしないのに、支えきれない丸太があるのか」

「今は人がいなくてよかったよ。塗り直す時に落ちたら困るから、午後の仕事のときには、担当に伝えておくか」

彼らはもう一度上を見上げたが、すでに断裂した丸太の他には、怪しいものを見つけられなかった。彼らはそれが自然に断裂したものと考え、散らばったものを片付けた後、出ていったのだった。

「ふぅ、本当にびっくりした」

あの見張りたちが出ていったことを見届け、天雲は安堵のため息を吐いた。彼は素早く這い上がった後、ブラケットの木陰に隠れていたのである。着用していた黒い服は彼にとって大きな手助けとなり、誰も天雲の存在には気付かなかった。

実に危ない。さっきは、もし他の人なら墜落死しかねないだろうと考えていたが、天雲は自分を過信しすぎていた。こんなことで死んではお笑い種だ……今回の収穫は、冒すリスクに十分に見合うものであればいいのだが。

手中の綺麗に装飾されたケースを見れば、その中にはあるのは多分なにか貴重なものと見受けられる。このような場所にはあまり長く滞在しないほうがいいだろう。もしまたブラケットが断裂でもすれば厄介だ。

好奇心を抑えながら、天雲は素早く大聖堂を後にした。

天雲が大聖堂へ向かった後、リタは一人、食事をしたレストランに残されていた。天雲は店主に銀貨を二枚与え、この坊やの面倒を見るよう頼んだ。金儲けになるとみた店長は二つ返事で承諾した。天雲に任せたものの、リタはどうにも落ち着かない様子である。椅子にしばらく座ってはまた立ち上がり、絶え間なく左右へ歩きまわっている。リタは内心でたまらない焦りを感じていた。

この午前中の間、リタはあまりにも多くの意外な出来事を経験した。まず、間違いを犯してしまったために「友達」に殴られ、また、自分を助けたいという親切な人にも出会った。

いやいや、あいつらは皆悪い人で、友達ではない。

実際のところ、リタは頭を振って自分の考え方を是正する。彼は窓の外に視線を向けた。放逐地の中にある無数の荒れ果てた廃墟から、頑張って大聖堂の様子を想像する。この場所へ捨てられるまでは、リタはずっと大聖堂に対して憧れの気持ちを抱いていた。いつ見ても大聖堂の建物はとても高く、神聖さに満ちており、まるで聖神が本当にその中に存在しているかのようだった。そんな中から物を取るなんて、きっと並の難しさではないだろう。本当に大丈夫だろうか。ちょっと心配だなぁ……。

実際のところリタは、天雲のことを少しおかしいと感じていた。ずっと大きな帽子をかぶって自分の顔を遮っていたから、リタは天雲の顔をはっきりと見たことがあるわけではなく、それに対しては確かに好奇心も抱いている。しかし、はっきりわかるのは、天雲はきっと善良な人であるという点だ。

指を合わせ、リタは座って静かに祈り始めた。

「偉大なる聖神様よ、私は心からあなたへ懺悔します。私の過ちをお許しください。善良な恩賜をくださることをお願いし、天雲さんが無事に戻ってこられるようお守りください……」

祈祷はリタの習慣だった。外にいた時も、放逐地に来てからも、彼は毎日誠実に聖神へ祈祷を捧げている。放逐地の人々は皆聖神に見捨てられた存在だとわかっていたが、ずっと絶え間なく誠の信仰を捧げれば、きっといつかこんな酷い場所から離れられる日が来ると信じている。

もしかして、天雲さんこそが、聖神の派遣した、僕を助けてくれる人かもしれない……

リタにとっての祈祷は最も心落ち着く時である。この混沌とした中にいながらも、祈祷のときだけは、世界と完全に切り離されているように感じる。

「何しているんだ?」

完全に心を清めて、全身全霊を捧げて祈祷していたときに、突然背後から聞こえた音にリタは驚いて振り向いた。するとそこには、手にしたきれいなケースを振りながら、微笑んでいる天雲の姿が見受けられた。

「うわああ……突然背後に現れないでよ……」

「もしこのくらい腕さえなかったなら、大聖堂へ物を取りに行くことなんてできないだろう。お前は俺が堂々と正門を通って取りに行ったとでも思っていたのか……」

自分に背後を取られて慌てふためいているリタの様子を見て、天雲はまたしてもあきれてしまう。元々彼を可哀想に思って助けてやったが、こんな世間知らずの子供を本当に内偵に使うことができるのだろうか。結局組織に潜入させたまま、なしのつぶてにならないかと、いささか不安になる。

「これが必要なものだけど、お前はいつどこにこれを提出するのかは分かっているんだろうな」

「はい、それは知ってるよ」

もしリタが知らないとでも言えば、天雲は本当にどんな顔をこの子供に向ければいいのか分からなかった。

「じゃあ、それはいつ?」

「今夜で、場所は……ここからは遠くない場所にあるぜ」

「夜ならまだ時間はありそうだな。お前ひとりで行っても問題ないね」

リタは目をぱちくりとさせている。天雲の言った言葉を飲み込めていないらしい。

「うん、普段の2倍は気を付けるんだぞ」

正直に言えば、この子供の話に対して、天雲はやはり完全に安心できずにいる。

「それじゃ、次にはお前の身なりをなんとかしろ」

「あの……身なりって、どういう意味ですか?」

「おいおい、お前の今の様子を見てみろ。組織に入るなら、まともな服を身に着けないと」

リタの身に着けている服は今汚れ切っているのみならず、ぼろぼろでもある。相手の組織は一体どんなものかよくわからないが、このような格好では、明らかに駄目だろう。

「でも、僕にはお金がないから……」

「だから、俺がお前と一緒に行くよ。物をきちんと取れ、後で開けて中には何が入ってるかを見ろよ」

綺麗で小さなケースを手渡せば、リタは頭を下げた。その姿をちらりと見た天雲は、リタの目が光っているようにすら見受けられた。

「ほ、本当にいいんですか?」

「そうね、急いで行こうか」


彼は非常に楽しそうだ。

それが天雲には容易に感じ取られた。この、目の前を歩いている少年リタは、全身で楽しそうな感情を見せている。これこそが、この歳頃の子供が楽しむべきものだ。

このような混沌とした放逐地で生存のために必死になり、気まぐれのいくつかの小さな親切であっても人をこんなに喜ばせることができるなんて。このようなことは恐らく、子供の身の上でしか見られないだろう。

もし天雲ではない他人がこんな方法で彼を買収して利用したのなら、裏切られたときにはリタの心は地獄より深いところまで落ちて、そのままもう戻らなくなるかもしれない。自分も彼を利用しているとは言え、少なくともそのようなことはしないと天雲は考えている。

このような子供を手助けしてあのスカーレットという組織に入れることは、恐らく彼を火の穴へ押し込むことにも等しいかもしれない。それでも彼を引き続きこのように生きていかせて、最終的に救いようがないところに落ちていくのを眺めているよりは、ずっとよかっただろう。

准将殿から預かった工作資金はまだ少なからず残っている。彼女がどこからこの世界の通貨を手に入れたかは知らないが、こんな投資をするなら、ただ浪費するよりはよっぽどいい。すべてがうまく行けば、これはきっと価値のある経費となる。

天雲がそんなことを考えながら歩いていたら、前を歩いていたリタは突然一人の男に突き飛ばされた。天雲は直ちに駆け寄ってリタを起こしたが、男はすでに人混みの中にまぎれていこうとしている。

「リタ、怪我はないか?」

「僕、僕は大丈夫だけど、ケースをあの人に取られてしまった……」

「ここで待っててくれ、勝手に動くなよ」

そんな一言だけを残し、天雲は人影を追いかけた。彼が放逐地に来てからまだ半日も経っておらず、道については地元の人ほどよく知らない。もしも追いつけなければ、本当に厄介だ。

くそ……こんなことになるとわかっていたら、品物は俺が持っていたのに。もしケースを開けた一人目が、それの使い道を知っていたら、それこそ厄介だ。

あの男の影に対して、しっかりと追いかけて、天雲はきつく歯を噛み締めた。

汚れた服を着たあの男は、しっかりと手中にケースを抱きしめ、周りを顧みずに疾走している。安全だと思ったのか、一つの路地を曲がり、周りに人がいないか見渡したのちに頭を下げ、手中の物に目を見向けた。

「クックック、こんなきれいなもの、きっと高く売れるだろう、これでまた、飲み代になる」

彼がケースを開いて中を探ろうとしたとき、突然片手を首元に押しつけられた。彼の頭は激しく壁にぶつかり、巨大な音と共に男は意識を失う。手元から落ちたケースを、天雲は確かに受け取った。

まったく、また、人に余計な手間をかけさせやがって。ここの人は一体何なんだ。もし准将殿にしごかれていなかったら、こんな混乱した状況で追いかけることなんてできなかっただろう。それこそ九仞に一簣を欠くことになっただろう。

天雲は目の前で気絶している盗賊を見おろす。心の中の怒りが晴れないから、その腹に向かって、もう一発蹴りを入れてやった。気絶してなお男は体をすこし震わせた。そして、一本のボトルが彼の服から滑り落ちた。

なんだ、これは。

天雲は好奇的にかられてそれを拾い上げた。見てみれば、これは朝見つけた、路地に倒れていた人々のまわりに落ちていたものと同じようである。瓶の底には同様に深青い液体がわずかに残り、上にはラベルが貼り付けられている。



マリンブルー……? それはおかしな名前だった。

もうこんな変な場所にいても仕方ない。やはりさっさと戻った方がいいだろう。

天雲がリタの方に戻れば、彼は道端の壁に凭れかかって居ても立ってもいられないといった様子だった。天雲が男を見失ったということを恐れていたらしい。リタの様子を見て、天雲はいささかからかってやろうと思い立つ。

「天雲兄さん、あいつを掴まえられたか?」

「実に速く走っていたぜ、きっとこの辺りを相当に熟知しているんだろう。恐らく何度も罪を犯していただろうし」

「ま、まさか……もう、仕方がないか…」

 リタの落胆した表情を楽しんだ後、天雲はそっと笑った。

「ははは、そんなに悲しむなよ。取り戻してきたぞ」

子供はいつもこうやって喜びを顔に見せる。取り戻してきたきれいなケースを見た瞬間、リタは笑顔を取り戻し、もう一度天雲に対して崇拝の視線を向けた。

「時間のあるうちに残ったことをやり切ろうぜ」

「うん!」

リタについていくつかの衣料品店を歩き回るうちに、天雲の心中はだんだんと落ち着いてくる。確かにこの午前中の間には多くのことが生じたが、幸いにもこの一切はまだ天雲の解決できる範囲内だ。

元々天雲自身はこの世界のファッションがわからないかもしれないと心配しており、まだ子どもであるリタは今まで自分で衣服を選ぶ経験もなかったが、幸いにこの放逐地での品揃えは選べるほど多くもない。衣服というよりは、布を何とか適当な形状に裁断した程度にすぎない。いつも生命の危機に瀕している人々からすれば衣類はただ恥ずかしさを遮る物品にすぎず、彼らにとっては見栄えがよいかどうかはさして重要なことではない。

簡単な調査任務だが、決してそんなに簡単ではないんだろうなぁ……

天雲は自分が事件に巻き込まれたことを内心で感じ取っていた。この世界に来てまだ一日目だが、この世界は思っていたほど見ず知らずの世界というわけでもないらしい。元々知っていた世界とは何の違いもないのかもしれない、と天雲は思った。

全てが以前と同じだ。天雲自身もまた。

しかし、失くしたものは何なのだろうか?

慌てているのか、それとも何かを期待しているか、リタに向けた視線を移し、天雲は窓外のボロボロな街道を見た。この景色には見覚えを感じる。

天雲の頭の中にはこの時、ひとり女性の姿が浮き上がる。更に詳しくその女性の顔を思い出そうとすると、鋭いチクチクとした感覚が湧き出し、痛みに天雲は椅子から崩れ落ちる。

どういうことだ?さっきの記憶は一体何なのか?

一瞬だけ記憶の中に浮き上がった人影は消えてしまった。思い出そうとしても自分の記憶の中では痕跡すら見つからない。あの鋭いチクチク痛みももう現れることはなかった。

やっぱり、准将殿に伝えた方がいいか……

いつの間にか落日の時分になり、街上の通行人はだんだんと少なくなり始めた。夜のとばりが降りた後には街道はまた、賑やかになるかもしれないが、今はすでに閑散としてしまっている。

天雲は街道の傍に立ち、太陽が次第に地平線の突き当りへ隠されていく様子を静かに眺めていた。このようなシーンはどの世界であっても同様に美しく壮観だ。それは、たとえこのような放逐地の中においても同じだった。

「ほら、きちんと持ってて。今度こそくれぐれも失くさないようにな、さもなければ、もうお前を助けられないんだぞ」

もう一度ケースをリタに手渡し、天雲は不安そうに言い付けた。

「大丈夫、今度きちんと保管するよ」

ケースを胸の前に抱いたリタは力を入れて頷いた。リタにとっても、今日は相当についている一日だと言えるだろう。もし天雲という手助けしてくれる人に出会えなければ、手中に抱えたわずかな希望すらも存在しなかっただろう。

これはきっと聖神様が自分の祈祷に応じて、祝福と幸運を与えてくれたに違いない。

「今日は、ほんとうに…」

「感謝の言葉はもう遠慮してくれ、俺がお前を助けたかったからだ。しかし、俺はお前に今後のことを少し話さなくてはならない」

リタが本当に天雲に対して感謝を伝えたいことはわかるが、それは天雲にとっては些細なことにすぎなかった。天雲はリタの話を遮り、言葉を続けた。

「次に、もしあなたが私に会いたいと言うのであれば、午後2時過ぎに以前私が食事をした場所で待っていてください。 30分以内に来なかったら、今日は時間がないかもしれないってことだから、もう待たなくていいよ。 もちろん、時間がなくても大丈夫俺は何とかしてお前を見つけるぞ、分かったね?」

「はい」

その後、天雲はもう一度語気を強め、引き続き強調した。

「覚えておけ、お前が俺を見かけたときでも、もし俺がお前に話しかけなければ、絶対に俺に話しかけるなよ。それに、私のことは誰にも言わないで。いいな?」

「僕……分かったよ……」

小さな声で答えると同時にリタはしっかりと手中のケースを抱きしめた。やや臆病な表情を見せている。この様子は天雲に後ろめたさを感じさせた。子供に対して厳しく言い過ぎたのかもしれない。重要なことだからと、語気を強めた結果、子供を驚かせてしまったらしい……

「どうしたんだよ、そんな顔をして。怖いものでもあるまいし……」

「いや……もし僕が試験に通らなかったら、やってもらったことも役に立たなくなると思って……」

リタは口ぶりから表情まで、どれを見ても自信が欠けていることが読み取れた。以前の経験が彼に与えた影響はあまりにも深かったのだろう。彼のこの様子は自分には無関係だと意識して、天雲は彼の頭を撫でた。

「何でたらめを言ってるんだ。お前にこうしてやってるのは、お前のことを信じてるからだぞ。お前が自分のことを信じないなら、誰もお前のことを助けられないぞ。前にお前は、大聖堂から物を取ることはきっと不可能だと思っていただろう。だけど俺はできたぞ、お前もきっと問題ないぜ」

正直なところ、天雲はリタに対してあまり大きな希望を抱いていないが、ここまで来れば、彼を二言三言慰めることしかできないだろう。もしリタが本当に試練に通って組織の一員となれば、天雲にとっては、ぼろもうけだ。

「うん…! 僕頑張るよ」

リタが目に希望を燃え上がる様子を見て、天雲も優しい表情を見せた。そして振り向き、彼方にある王城を見た。

「じゃあ、俺は帰るぜ、俺のことを裏切るんじゃないぞ、頑張れ」

 振り向いて天雲はリタに向かって手を振り、街道の人混みへ姿を消していった。

「うん! 頑張ろう!」

天雲を見送り、すでに新しい服に着替えたリタは拳を握り、自分を鼓舞した。約束していた物品の提出場所へ速足で向かった。

疲れ果てた体を引きずりながら天雲は部屋に戻った。調査任務の初日にこんなに多くのことが起こるなんて。天雲は休憩を渇望している。さきほどの豊かな晩餐は確かにゆっくりと楽しむことができたが、礼儀を重んじるがゆえに気にすることが多い。食事をとるにもかえって疲れが増えてしまう。

一日准将殿に会わないといささか寂しい。部屋で独りでいるうちに、急いで彼女へ今日の収穫を報告しなくては。

「ただいま」

ドアを開けば、リザックはテーブルの前に座っており、ツールを使って自分の腕時計をいじっているようだった。腕時計は分解され、部品はテーブルいっぱいに並べられている。彼女の表情を見るに、修理作業は順調ではないようだ。

「うん、ご苦労さん」

想像したような情熱的な出迎えはない。リザックは頭だけを振り向かせて天雲に一言挨拶しただけで、引き続き腕時計に注意を注ぐ。手にしたツールで歯車を動かした。

天雲は彼女がこの腕時計をどれほど大切にしているかを知っている。彼女がこんなに集中している様子を見て天雲は邪魔しないことに決めた。ベッド上へ飛び乗り、耐えられずに柔らかいマットレスの上を転げ回る。柔らかくて暖かいベッドは実に最も麗しい場所だ。

「准将殿は、今日とても楽しく遊べたようですね」

「間違いないわ。あの人たちは元のレベルがあまりにも低いのよ。彼らに少し挑戦を与えてやったんだわ」

リザックはこの時に天雲に背を向けていて表情を見ることはできなかったが、語気からは誇らしそうな様子を読み取ることができた。そして「少し」という言葉を聞いた時に、天雲は本能的に冷や汗をかいた。もし自分が何度も彼女に手加減をするよう勧めなかったのなら、果たしてどんなことが発生したか。それは誰にもわからない。

「でも、天雲はきっと今日は、収穫が少なくないようね」

「収穫は少なからずだけど、実に疲れた」

また手元の時計をひとしきりいじった後、諦めた様子のリザックは、腕時計を原型につなぎ合わせた。天雲はベッドにうつ伏せになって首を傾げ、リザックを見る。今日の収穫と経歴経緯を言い出おうとしていたところへリザックは立ち上がり、クローゼットへ向かい、再び出かけるため手を伸ばし、重いコートを取ろうとしている。

「こんな時間に准将殿はまた、出かけるのか」

「こんな時間だからこそ、やつらはきっと警戒を緩めているだろう。彼らにちょっとした驚きを与えてやろう」

彼女の意地悪さ満々の様子に直面すれば、天雲も苦笑いをすることしかできなかった。夜中じゃなくてこの時間に行くというのが、リザックなりの相当の慈悲である。現在の准将殿はきっと、腕時計をきちんと直せなかった不満を発散したがっているに違いない。

「まだ時間があるうちに、天雲はきちんとお風呂に入りなさいね、この時間ならあそこにはすでに誰もいないわけ。私が帰った後、また、きちんと話をしよう」

一本指を伸ばしてリザックは非常に可愛い表情を見せ、部屋から出ていった。

天雲は引き続き閉じられたドアを見つめて、閑散とした部屋を見渡す。体を支えて身を起こした。短い間のみだったとことも、リザックが身にまとう淡々とした気息を感じ取りながら彼女の顔を見て、天雲の体は自然にリラックスした気持ちになる。

准将殿が言った通り、きちんとお風呂に入ろうか。

「ふぅ……実に気持ちがいいなあ」

広々とした大浴場の中には所々茫漠たる湯気が立ち込めている。この時間は、リザックの言った通りに、天雲一人しか使っていない。たまらず心の中に、貸し切りの感覚が湧き出している。疲れた時にはやっぱりお風呂が一番快適だ。気持ちも一緒に和らぐ。

少し濃い目の湯気を隔てながらも天雲はこの大浴場の全貌を見ることができた。非常に広々しただけでなく、周りの壁上にも美しい彫刻と模様が施されている。さすがに王族が住んでいる場所だ。周りからも高貴な気配が溢れていて、たとえ今日の見聞がなかったら、天雲は恐らくこの国を桃源郷のような場所だと思っていたかもしれない。

この桃源郷に突入した二人は、この世界で頑張って生存した。天雲は今日、この都市の混乱した暗闇の一面も目にしてしまった。幼気な子供でさえあんな組織に入って生存のチャンスを勝ち取るなんて、想像もできない残酷さだ。恐らくその背後には、天雲の見ることのできなかった、より深い暗闇がもっとあるのだろう。

ただ……王城という高い城壁に隠れて、華麗と豪奢を楽しんでいたのなら、きっと何も見えないだろう。

傍の窓口のところからは夜の眩しい星空が見られる。この世界にも同様に太陽、月、星がある。ぼんやりと准将殿が自分に対して言ったことを思い出した。星と月の位置を覚えていれば、自分がいるところの地点と時間が正確にわかる。

星と月を通じてここがどこかなのかを究明できるか、天雲は既にリザックに尋ねたことがある。残念ながらここに現れた天体の様子は完全に乱れていると、リザックはどうにもならないと答えていた。

「うん……?」

ゆっくりと熱い風呂を楽しんでいる天雲の背後から、ドアを開ける音と足音が伝わってくる。

「こんな時間に、まだ誰か来るのか……」

好奇心に駆られるがままに振り向いてちらっと見てみれば、視界に映ったものに天雲は慌ててしまう。濃い湯気を隔てた先に歩いてくる体の輪郭と浅い金髪、ずっとお姫様の周りにいるメイドのイザだ。

おいおいおい、なぜ彼女が、こんな時に自分と同時に大浴場に入るなんて、どんな王室でも、混浴はないだろう。通年宮殿で暮らして働いている彼女が間違って、男風呂に入ることは不可能だろう、つまり、唯一の可能性こそが――

自分が、間違えた…

くそ、俺は男女のマークがどこにあるかにも気づかなかった……

いやいや、そんなどうでもいいことは置いておき、彼女は本来俺と准将殿のことが気に入らず、色々な場所で言いがかりをつけてくる。それこそ今彼女に見つかりでもしたら、それこそ大きな災いだろう。間違って入ったと言っても、彼女には言い訳とされ、ちっとも信じてもらえないだろう。

幸いに湯気が濃く立ち込めており、視程はとても狭い。天雲はチャンスに乗じて、彼女から比較的遠い場所に移動できたおかげで、彼女はここに自分以外がいることを見つけていないようである。どうにかこの隙に、急いで方法を考え出さなければならない。

このように隠れ続けるか、それともチャンスを見つけて、逃げ出すか……距離はとても近いのに遥か遠くに見える出口をちらりと見て、天雲は心臓が喉の奥まで上がってくるような感覚に襲われた。

これは多分、人生最大の危機だ、准将殿、俺を守ってくれ……

リタ、本当にすまん、俺は今自分のことも守れないし、お前がうまく行くように祈ることすらできなくなった……

放逐地の夜は危険な時間である。彼は現在暗闇の裏道を、たった一人で暗闇の中歩いていた。目を上げて見渡すと、遠くないところに点々と灯火が点滅している。大通り上にある微かなその灯こそが、放逐地の夜にある、月以外の唯一の光だった。

たった一つ壁を隔てた場所はこの都市にある街道だ。そこで今は賑やかな夜市が開かれている。ひいては微かに人々の歓声が壁の向こうから漏れ聞こえる。たとえこの真っ暗な夜でも、普通でないくらい賑やかに感じられる。

しかし、そのような世界に彼は属しない。あちら側の人々が楽しく笑っている世界へ入ることはできない。彼にとってそのようなことは、あまりにも贅沢で、実現できない夢のようなものに過ぎなかった。

現在彼が身を置くこの小さな道は、この放逐地の中で最も暗いエリアだ。夜になれば、伸ばした自分の手にある五本の指も見ることはできない。ここにはゴミや廃棄品が積み上げられ、野良犬とネズミがよく出没している。まるで子供の悪夢に現れるようなシーンだ。

しかし、目的地へ着くために、今のリタは無理にでもこの場所を通り抜けざるを得なかった。

やや月の光が差し込む場所で、リタは用心深く、あの小さなケースを開けた。頭上の淡々とした月の光を借りて、彼はその中にきれいなブローチがあることを知った。きらきらと透き通った黒い石で、クローバー状に彫刻されている。葉脈の部分は金色の線からなる。この時、それは、赤いビロードの上に静かに横たわっていた。

きれいだなあ…。

この都市で苦しみと貧困にうんざりした少年にとって言えば、ケースであっても、このアクセサリーであっても、見たこともないような華やかさだった。手に入れられるチャンスがあったのなら、きっと大切に保管していたに違いない。

周りの暗闇と荒れ果てた環境とは裏腹に、この時リタの内心では気持ちが非常に高ぶっていた。今日は彼にとって、非常に重要な一日だ。思いもよらなかった出来事がたくさん起きた。天雲の助けを借りて、彼は現在品物を手に入れることができ、夢にまで見た組織に入るチャンスを得られた。

こうすればもういじめられなくなるし、その上に彼女の行方を探すことにも役立つだろう。本当によかったなあ。

幾分の緊張があるとは言え、リタはすでに今後の麗しい生活を想像しはじめた。このことは彼の心中をさらに興奮させた。

天雲兄さんはこんなに僕を助けてくれた。最後に残るのは自分次第で、彼を失望させてはいけない。

両拳をしっかりと握りしめて自分を鼓舞し、リタは指定の受け渡し場所に到着した。そこは荒れ果てた建物に取り囲まれた小さな空き地のようだ。この一面の街道は元々、壁の外側と同じく、華やかできれいだったが、放逐地を建てた後に無数の罪人と冒涜者がここに追放され、最終的に現在のこの様子になったのである。

リタが現在いる場所こそ、この放逐地の中心である。周りはすべて真っ暗で、明かりの一つさえも見えず、夜の冷たい風がしきりに吹き通っている。これは肝を冷やすような光景だった。今にもこの暗闇の中から何かが飛び出してきそうである。

ほ、……本当にこの場所かな……ちょっとこわいなあ……先にわかっていたら、蝋燭を持ってきたのに……

あの引き渡しをみた場所をすぐに頭に思い浮かべ、ここがそうだと確信したが、このように一面真っ暗な状況では具体的な場所を見つけられないだろう。

ま、まさか、一つずつ見ていくのか……

この一面の暗闇をぐるりと見まわし、リタは勇気を出して手探りして壁に近づいたところ、突然暗闇の中でドアが開いた。オレンジ色の明かりが回りの暗闇を一気に照らす。驚きのあまり、リタ数歩後ずさりしてしまう。

火の明かりを借りてドアの方を見ると、そこには背の高い男が見えた。赤色と茶色の交互になった服を着ている。男の顔ははっきりと見えないが、彼の目がじっと自分を見詰めていることはリタにも感じ取れた。


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