第2章_第2節
翌日、二人は早朝に目を醒ました。昨日は余りにも多くの出来事が起こり、二人は精神的にすっかり疲れ果てていた。陽光や時計の有無にかかわらず、彼らはいつも決まった時間に目を醒ますことができる。
リザックはシャツを着て、そのきれいな肌を隠していく。一つ一つのボタンをきちんとかけた後、髪を整え、浴室の中から伝わってくる水の音を静かに聞いていた。どんな魔法に満ちた世界であっても、人間の暮らし方には何の変哲もなく、宮殿の中にある部屋や設備にも難のつけどころがない。
浴室のドアを開く音を聴き、リザックは身を振り向かせる。彼女が見たのは、髪がまだいささか乱れた、目をぼんやりとさせた天雲だった。
「何をしているんだ……さっさと身の周りを整えろ。これから会うのはあのお姫様だけじゃないし、ちょっとはきちんとしておくれよ」
「うん……」
「君にまかせたことも忘れないでね、私には宮殿から脱走する暇もないわけ。この世界を理解することは君に全部任せたわ」
「安心して、准将殿に任されたことは、今まですべて全力でやってきたんだからさ」
無意識のうちにリザックのお小言に答えながらも、天雲は自分の主張も忘れなかった。
「准将殿も、楽しく遊ぶのにかまけて、人を死なせるようなことは絶対にするなよ」
話を終えた後、部屋の中は数秒間の沈黙に包まれる。二人は朝日を浴び、数秒間顔を見合わせて、微かに笑った。天雲も寝ぼけた様子から一転して、手早く衣服を着替えた。
「それじゃ、次はあのお姫様と会いましょうよ」
「礼儀を忘れないようにね」
出かける前に、リザックはまた、不安そうに付け加えた。
ティアナと一緒に朝食を済ませた後、リザックは訓練場へ直行せず、まずはあたりを何周か回り、また、図書館に立ち寄って本を借りて、それからゆっくりと訓練場の近くへ向かった。
もちろん、騎士たちはリザックが欠席していたといえ、何もやらないわけにもいかなかったらしい。銀色の鎧を身に着けた戦士たちが隊長にリードされながら訓練を始める様子を、リザックは遠目から見つめていた。リザックはまだ慌てたり急いだりしない様子で、遠くの階段の上に座り、本を読みながら、時々訓練へ視線を投げていた。しばらくした後、まっすぐに並んでいた隊列は分かれ、騎士たちはそれぞれ木製の剣を持ち、一対一の剣術訓練を始めた。
「うん……」
彼女は手中の本を閉じ、訓練を見ながら、前へ進む。技法上から見れば騎士たちは皆確かに相当な訓練を受けている。あの大柄の隊長はなおさらだ。彼は動作が敏捷であるだけでなく、手中の剣を精細に操っている。見ているだけでやり合いたくない相手であることは確かだ。
しかし、この力と剣技であっても、依然としてあのイザという名のメイドと同列に論じるわけにはいかない。
「ああ……」
隊長の強力な一撃を受け、その力に耐えきれなかった騎士はよろめいて後ずさりし、ちょうどリザックの身体にぶつかった。
リザックは微かに笑い、騎士の肩をぽんと叩き、隊長へ向かって歩いていった。
「君は……」
バイザー越しの相手の目線が鋭く変わったことにリザックは気付く。
「なんと驚くべき実力ですね、お手合わせ頂けますか」
「剣を彼女に渡せ」
リザックは騎士から木製の剣を受け取ったが、ちらっと見て、ぽいっと傍らへ投げ捨てた。
「これ、要らない」
もの言いたげな他の騎士が疑問を口にするよりも先に、リザックは突然前へ進み、足を蹴り上げて隊長が手にした木製の剣を真っ二つに折った。断裂した剣は旋回しながら、遠くの花壇の中に飛んでいく。この音に皆は手を止め、リザックへ視線を向ける。
「言っただろう、これは要らない。あれをお使いなさい」
リザックは隊長の腰を指さす。そこには彼のサーベルがかかっている。リザックの語気は真剣そのものである、隊長は何の行動も起こさなかった。騎士たちにとって言えば、本当の敵と直面する時にこそ武器を見せるのであり、ましてや訓練中に武器の持たない人を攻撃するなんて、全くの想定外だ。
リザックは隊長の腰を指さす。そこには彼のサーベルがかかっている。リザックの語気は真剣そのものである、隊長は何の行動も起こさなかった。騎士たちにとって言えば、本当の敵と直面する時にこそ武器を見せるのであり、ましてや訓練中に武器を持たない人を攻撃するなんて、騎士の道にない。
「もう一度言います。あなたの剣で、私と戦え。私を信用しなくても、少なくとも私をここに来させたあなたたちのお姫様を信用しなさい」
リザックは語気を強め、その言葉はほぼ命令調に近い。隊長はしばらく沈黙した後、ゆっくりと腰から剣を抜き出した。この人は姫に派遣された人物である以上、命令に従うしかない。
「怪我をしても、私を責めないでください」
「せいぜい頑張りなさい。でも、先に言っておきますが、ばかにするなら、恥をかくよ」
隊長は息を深く吸い上げて剣を持ち上げる。一方でリザックは、先ほどのリラックスした様子のままで、自分の構えさえ見せていない。
「はあ!」
彼は前へ一歩跨ぎ、手中の長剣が素早く振り下ろされる。驚くべきことはリザックがなんと剣の勢いに向かっていき、危機一髪の際に横向きに身を躱す。この時に二人の体はほとんど交錯していた。彼女は手を上げ、相手の胸当てを押し、その丈夫な体を後ろへ押し返した。
先ほどの状況下ではリザックは完全に優勢にあり、直接相手の首筋を攻撃することができたが、彼女がとったのはこのような最も危険度の低い迎撃方法である。
彼は素早く自分のバランスを調整し、引き続き攻撃を発動した。しかし、どう剣技を施しても、面前の女性はまるで風の中の落ち葉おように、いつまでも剣の勢いを躱している。
ぱちりと音がして、彼の腕が掴まえられた。刺し出された剣には何も刺さらないまま、リザックはそっと彼の膝上まで足を蹴り上げ、彼の歩幅を小さくさせた。
「あなたの歩幅はあまりにも大きい。これでは力を発揮するには不適切。その上にすこし冷静さを欠いている。強い敵に直面したときほど、もっとこのことを重視すべき」
「君たちはいつまで見ているんだ、私が言ったことを覚えて、引き続き練習しろ!」
リザックは頭を振り向かせ、二人を見ている騎士たちに向かって声を上げた。
「はい!」
さすがに厳格な訓練を経験した兵士である。彼らは直ちに注意力を訓練場に戻す。リザックは引き続き、彼らが木製の剣を使って戦う様子を見ながら動作を直していき、やがて傍らで座って休んだ。
「さっきの無礼を許してほしい、教官」
そこに隊長も歩み寄ってきた。彼はヘルメットを外し、逞しい体と見合った毅然とした顔つきを見せた。
「私を憎まないだけありがたいし、あなたを使って威厳を確立するような真似をしたこちらこそ、謝るべきなの」
「いいえ、恐れ入ります。これは私にとって、稀な鍛錬でもありますし」
リザックの心中では多かれ少なかれそのことを当てていた。彼がこの宮殿の中で勤めていた時間は相当に長いはずであり、優れたスキルと忠誠心のために、この重要なポジションを担当しているのだろう。そんな隊長としての彼には、挑戦的なライバルを見つけることは、もう難しいだろう。
ライバルとして唯一可能性があるというのなら、あのメイドさんくらいか……
「訓練について非常に熟知されているようですね、以前にもこういった職務も担当したことがおありですか」
「ああ、そうですね」
リザックは、ハハっと笑った。
「でも、そのときには、今よりも厳しくしていたの」
彼女の視線は別の所へ向けられた。余り遠くない窓際上には見慣れた姿があり、彼女は真剣にそれを見つめている。その様子はまるで、学生の宿題を見守る先生のようだった。
いつもどおりツイてない…
多分昨日の出来事のせいだろう、天雲は朝食時もイザの冷たい視線の攻撃をひどく被り続けていた。仲良くするどころか、現状を少しでも変えるのにも随分と骨が折れそうだ。彼女の眼中ではおそらく、天雲であれリザックであれ、お姫様を殺そうとした無礼者にすぎないのだろう。
リザックと天雲はこの宮殿に来てから、姫の貴賓として、 姫様は朝、二人を歓迎するために小さな宴会を開いた。一般人から一足飛びに王室の敷居を跨いでしまうなんて、こんな経験にすぐ適応できるわけではない。
神であるティアナは元々単独で食事を摂っていたわけだが、今では三人まで増やしている。他の人たちから見れば、彼らはまだ出自不明の人々、あるいは姫様を脅かす存在であり、当然、この宴会に出席するのは彼ら3人だけだった。イザからすれば、一般人が神と同じ食卓に着いていることには、相当な不満を感じらしいが、お姫様の有無を言わせない命令の下では従うことを余儀なくされた。
王室の生活が一般人の及ばないものであることは、一度経験してみないことにはわからないものである。一人で独占できるメニューとシェフ、ゴールドの食器、ひいては朝食にさえロブスターといったものが現れる。お姫様の食べ物は全てあのイザが直々に担当しており、味は申し分ないが、天雲からすればあのメイドの恐ろしく冷酷な目線の攻撃を受けながら、礼儀作法を保ちながら摂る食事には、美食を楽しむ余裕など存在しないのだった。
天雲に言わせればこの宴会からはすさまじい疲れしか得られないというのに、リザックはマナーを崩さず余裕を保っている様子であり、どうやらこの状況にはすでに慣れたようであった。
力を込めて何度か頭を振り、天雲はそれらの記憶を頭から追い出そうとする。今や彼にはこの都市と世界の使命が委ねられている。今日は始まりから散々だったというが、仕事に影響を及ばすわけにもいかない。
准将殿は今もきっと頑張っているんだろう、俺も落ち込んでいる場合じゃない。
宮殿から抜け出すことは天雲にとって何ら難しいことではない。もし何かあっても、リザックの援護を受けられるだろう。以前の経験からどう変装すべきかわかっている。彼は大きなフードで髪と顔を隠す。こうすれば、異族と呼ばれるような髪や目を見られない限り、何の問題もないはずだ。
リザックが彼に与えた任務は「簡単な調査」であるが、実際には、そんなに簡単ではない。誰か手引きしてくれるスパイがいるわけでもなし、ほとんど状況もわからないこの世界で有用な情報を獲得することは容易くない。いくらこれは天雲の得意分野と言えども、手間がかかることには違いない。
唯一幸いだったのは、彼の使う言語がこの世界で通じることだった。もし言語さえ通じなかったのなら、まさに八方塞がりだ。
街道上を歩いていくと、天雲は昨日の余波が完全に消えたことを感じ取った。人々からおかしい視線を投げられることもなく、昨日のことについて言及されている気配もない。人々はそれぞれ自分のやるべきことに精を出しており、「二人の異族がお姫様を誘拐して、都市の中を逃げ回る」という大きな出来事であっても、たった一日で人々の記憶から追いやられ、徹底的に忘れてしまうのを待つばかりなのだろう。
歩いていると時折、割れた窓と壊された壁を片付けている様子を見かけた。昨日二人が天井を破壊して飛び込んだあの一家のトラウマはまだ癒えていないだろうかとふと思ったが、それはもう自分の考えることでもないかと天雲は思考を巡らせる。熟知した道と見知らぬ道を行ったり来たりしながら、天雲はあたりを見渡した。
昨日賑やかそうな様子を見せていた店を見つけた。今はまだ休業して修繕作業をしているようだ。天雲はしばらく立ち止まって観察し、そして立ち去った。。昨日のこともあり、あの店には心の中で申し訳ないと思いつつも、このままここにいても大した情報は得られないし、今の変装も完璧とは言い難く、付近の人々に気づかれる可能性も残っている。
天雲は今ゆっくりと、目的もなく街中をぶらぶらしている。ここは確かに自分にとって異なる世界だが、都市の構造自体は、天雲の知っていたそれとあまり変わらない。この都市の状況について自分たちは大体理解しており、ここから更に何か価値のある情報を見つけていくことはなかなかに難しい。
しばらく通りを彷徨っているが、価値のある情報は何も耳に飛び込んでこない。昨日はこの世界のことがよくわからなかったが、准将殿と一緒に探索できていた。それと比べて、現在の自分は少し寂しく感じられた。准将殿はなかなか楽しそうに遊んでいる頃合いだろう。
訓練の情景を想像すれば、天雲は背筋に悪寒が走るのを覚えた。彼が再びウロウロしようとした矢先だった、天雲の目には、いささか普通でないものが飛び込んできた。
それは一列の城壁だった。
ただその向かう先は城門への方向ではなくて、都市の内部に一列に高い壁が連なっている。このようなものはどうにも様子がおかしい。
近くで見てみるか。
天雲は好奇心と共に歩み寄り、まじまじとこの高い壁を観察した。その材質や厚みは、都市を守る城壁とは寸分違わないし、高さも城壁の三分の二ほどであると見受けられる。あの白色無地の壁上にはきっと何か魔法がかけられており、傷をつけることは容易でないように思われた。
これは天雲の好奇心を掻き立てるのに充分であった。普通の城壁は外敵から身を守るためというのなら、この都市を内部から分割するこの壁は、一体何のために存在しているのだろうか。天雲はこれを、調査に値すると判断した。
壁に沿って歩いていくと関所のような場所にたどりつく。壁の内部に入るにはここを通らなくてはならないらしい。
「え? 証明書?」
「はい、放逐地の中に入るのなら、まず教会に行って証明書を開き、ここで登録をして、それから身份牌をもらって入るんだ。お前のような奴はきっと最初は放逐地に入りたがるだろうが、せいぜい身の安全に気を付けろよ。証明を失くしたら出られないぜ」
なるほど、この壁が隔離しているのは放逐地という場所で、話を聞くからに不吉である。その中に入るためには身分証明というものを必要とするし、通常であれば天雲には不可能だ。
「申し訳ありませんが、証明書といったものは私にはないのですが、これではいかがでしょうか」
天雲が差し出したのは朝に宮殿から出る前にリザックが彼に渡した一枚の記章であった。その上には王室の紋章が刻印されている。
この記章を見て、椅子に座っていた衛兵はすぐに表情を一変させ、天雲にここでしばらく待つように頼み、振り返って2階に駆け上がった。 2分もしないうちに、一人の官員が上階から駆け下りてきて、天雲の前に跪いた。
「拙者はお殿様のお越しとは分かりませんでして、お出迎えできませんでしたこと、お許してください」
「そんなのもういい、顔を上げろ。私は入ってもいいか」
「もちろんよろしゅうございます、お殿様は自由に出入りしてください。拙者はここの管理期間は真面目に勤めており、自分を厳しく律し、私的に誰かを出入りさせることもありません。どうぞお殿様はお姫様の前によろしく取り成してください」
「ああ、考えるよ」
いきなり跪かされるのは天雲も予想外だった,王家の紋章を見るだけでこうなるんだから、どの世界にいても同じだよ。
関所の正門から一歩踏み出しただけで、天雲は漂ってくる悪臭の襲撃を受けた。天雲は気を落ち着かせて目を凝らすと、そこにあったのは、ぼろぼろに壊れ果てた通りだった。辛うじてまだこの城壁外と似た建築スタイルが見受けられたが、このエリアはまるで数十年間も人の手を付けられていなかったように、汚く、壊れている。
こ、……これは、一体どんな場所なんだ?
あたり一面に立ち込める鼻を衝く悪臭は、間違いなくここ放逐地の匂いなのだろう。天雲は以前、別の地方でもこれに似たものに出会ったことがある。しかし、放逐地であっても、このような城壁レベルの壁で隔離するほどでもないだろう。彼の頭の中には依然として疑問が残り続けた。
城壁から近い場所はまだ何とか見れるもので、少なからぬ数の店舗が営業中であった。遠くないところには一面の空き地があり、そこにはより多くの道端屋台があるようだ。少なからぬ数の人々が、魚・肉·野菜などの食料や、様々なアクセサリーを売っているが、種類も数量も惨めとしか形容できないものであった。その上、そこの多くの食物は鮮度すら危うそうである。腹を満たすためにひどく腐った食物を食べ、その後、ひどい食物中毒で死ぬようなことすら珍しくなさそうだ。
恐らく天雲が思った通り、ここの人々は身分証明がないためにこの場所から出られず、食物も始め物資は不足している。しかしこのような状況であっても貿易が形成されているとは……天雲はそれに驚かされた。
しかし、この場所であっても派手な服を着て大通りで客引きをする女性は不足していないようだった。生計を立てられない女性たちの生き残る唯一の活路は、その体を売ることである。それでも彼女等の儲けた金は元締めに奪われていく。このように彼女は自由度の高くない生活を送っているが、少なくとも「商品」であり彼女らはきちんとした待遇を受けており、最低限の生存問題には悩まされていないようだ。
街道上で一周回った天雲は、自分のように隔離壁の外から入った人を何人か見つけた。彼らはみすぼらしい身なりにみせかけているものの、その細部からは低くない身分がにじみ出ている。その上、彼らは皆、身辺に護衛を連れていた。この地域全体は荒れ果てているだけでなく、本当の意味での法外の地なのだろう。外で禁じられている多くのことであっても、ここでは恐らく誰も管理していないかもしれない。何か個人的な理由があってここに来たものと見受けられた。
はぁ……こんなにボロい場所だというのに、注目に値する女の子も少なくない。でも今日は用事があるから、それについては考えないことにしよう。この場所はにまだ何かの意味があると見受けられし、もうちょっと奥へ探索してみようと天雲は歩みを進めた。
この放逐地と称される場所には広い大通りは非常に少ない。ほとんどの道は奥深い小道であり、見ているだけでも尻込みしたくなるような怪しさを放っている。天雲は一か所の辺鄙な路地中に曲がって行った。ここは二棟の建物間にある陰気な処であり、二本の街道を接続する近道でもあるが、普通であれば、凶悪な人物との接触を避けるため、遠回りしてでも避けたい道だろう。
路地を何歩か歩いただけであったが、あちらこちらに倒れた人々が見受けられた。好奇心を掻き立てたのは、そこに倒れていたのは中年だけでなく、若い青年もいるということだった。天雲は屈んで彼らの様子を見れば、酒の匂いはせず、体の弱った者も寝ているというよりは気絶に近い様子をしていた。
奇妙だなあ……これはどういうことだろうか。
周りを一周見渡せば、空になったガラス瓶が幾本か転がっている。瓶の底にはいくらかの青い液体が溜まっているように見受けられる。
これは何だ? この世界の酒か?
「野郎、こんな些細なことさえもうまく処理できないで、よくも俺様から食い物をもらおうとするな」
天雲が詳しく調査するよりも先に、前方の隅からは相当に非友好的な声が伝わってきた。天雲が声の主を尋ねて前進すれば、筋骨のとても丈夫そうに見える三人の男が、地上に倒れた一人を蹴っている様子が目に飛び込んできた。
「おい」
このようなことはここでは珍しくもないだろうが、天雲は躊躇わずに前進し、三人の中で一番背の高い男の腕をつかんだ。勢いを付けて、その男を押す。
「何のつもりだ、ヒーローにでもなりたいっていうのか?」
そのチンピラはすぐ大声でわめき立てるものだから、天雲はそいつの指関節を圧し折ってやった。
「まったく……」
殴られて顔を腫れ上がらせた三人のチンピラは命からがらこの路地から飛び出していく。天雲はそいつらが遠ざかっていくことを見送りもせず、手を伸ばして地上に倒れていた人を引き起こした。
「大丈夫ですか」
「本当にありがとうございました……」
顔を見てみれば、倒れていた男はせいぜい13、4歳の少年であると見受けられた。先ほどのチンピラ三人はそれなりに派手な格好をしていたのと違って、少年が身に着けていた服は実にボロボロで、足蹴にされていたせいでさらに粗末な風貌となっていた。その姿は完全に街の浮浪者のようである。
彼の全身傷だらけの様子を見て、天雲の心中に憐みの気持ちが沸きあがる。このまま彼をここに置いていくには忍びない。
この世界や国、このエリアについては、少年は天雲よりずっと多くしっているだろう。今少年の命を救ってやって情報を聞き出すとすれば、あちこちを走り回ることより、ずっと効率的だろう。
このように自分に言い聞かせながら、天雲は彼を連れて、この陰気な路地から歩き出した。
遠くないところにある一軒の小さな店の中で、無気力な表情を浮かべる天雲のそばで、大きくないテーブル上には、濃厚な匂いを漂わせる料理が並べられている。リタという名前の少年は、まるで疾風が雲を吹き払うようにこれらの食物を一掃している。その姿は餓鬼のようであった。
二人はすでにコミュニケーションを行っており、天雲はリタがこの都市の人ではなく、更に遠くの地方から来たことを知った。なんでも失踪した友達を探しにここに来たのだという。
彼のこの年頃であれば、本来は学校にいるべきだろう。金を稼ぐ手段もないだろうから、こんな様子になるのも無理はない。たった一人で故郷から離れてこんな場所で探すほどなのだから、彼が探しているという人は、さぞ大切な相手なのだろう。
「んぐぅううう」
「お前は食べるか喋るかどっちかにしろ」
食べ物を口いっぱいに詰め込みながらも彼は依然として何かを言おうとしている。当然ながら天雲はそれを聞き取ることはできず、一つのことに専念するよう促すことしかできなかった。天雲も焼肉を一切れ味わってみる。宮殿で食べたイザの料理とは比べ物にはならなかったが、良い焼き加減で濃厚に味付けされており、食欲を満たすことには十分だった。
「礼ならもういよ、ただ、これからどうするつもりなんだ? この地方ではお前ひとりでは生存していけないし、その上、人探しなんて」
彼が頑張りながら口の中のものを飲み込んだのを見届けた天雲は先回りして言ったが、少年の幼い顔はそれには動じなかった。
「彼女はきっと生きているし、僕も絶対に彼女を見つける。それまで、どこにも行かない」
「お前が探している人は、お前の親族なのか」
「親族ではないけど……ただの幼馴染に過ぎないし、僕は彼女を守ることを約束したけど、彼女があの黒服の奴らに捕まえられた時には、僕は何もできなかった」
「誘拐に類似したことか……」
天雲はちょっと考えて、引き続き少年に尋ねた
「その人には何か特徴はあるか? もしかしたら俺がお前を助けられるかもしれない」
「彼女の名前はフローで、とても可愛い女の子なんだ。僕は一目で彼女を見つけられるんだぞ」
相手について言及したリタはたまらずに淡々とした笑顔を見せたが、天雲はどうしようもないとばかりに頭を振りたくてたまらなかった。今彼が提供した情報はあまりにも少なく、それだけの情報では、たとえ天雲の能力であっても海に落とした針を探すようなものである。その事実はあまりにも残酷で、言うことがはばかられるほどだった。
このようにかわいそうな子供は、どの世界にもいるものである。
「僕は強くならないとダメだ、スカーレットに参加したい!」
突然リタは何かを決心したように拳を握りしめた。それに天雲は驚いてしまう。
「待って、お前がさっき言った……何に参加したいって?」
「スカーレットだよ、今この放逐地を管理している組織なのさ。そうすれば、きっと誰も僕をいじめなくなる」
まだここに来たばかりの天雲は、そのスカーレットという組織について何もわからない。もしギャングが街を仕切るようなことがあれば、秩序はかえって乱れることになるだろう。これは正真正銘の両刃の剣だ。ほぼ無法地帯のようなここで基本的な秩序を維持するのなら、こういった組織しか頼ることができない。
そうは言っても、天雲はどんな顔で彼に向き合えばいいのかわからなくなった。リタはそこにあるメリットばかりに気を取られ、そこに払う対価に対しては何も知らないのだろう。リタのような弱々しい少年がギャングなんかに参加したら、恐らくは現在よりひどくいじめられるようになるだろう。
ただし、リタがそこに加入することを手助けすれば、彼の手を借りて、組織から何か情報を得られるようになるかもしれないし、組織の情報網を借りてさらに何かを得られるようになるかもしれない。このかわいそうな少年を利用することは少々忍びないが、道端のチンピラを買収することと比べれば、まだマシな選択であるに違いない。
「でも、そんな組織には簡単に勝手に入れないだろう。どうしたらいいのかは知っているのか?」
「知ってるよ、スカーレットに入りたかったら、まずは面接に通らなければならないし、それに能力を見る試練として、都市の各地から一つ物を獲得するというのもあるんだ。どんな方法を使ってもいいし、それが獲得できれば、次のステップに進めるんだぜ」
リタが一つ一つ筋道を立てて話していることから、きっと詳細な調査を経たのだろうと推測できた。彼は本当に、そのスカーレットという組織に参加したいのだろう。放逐地の中にある屈指の組織として、入門の審査手順もこんなに複雑となると、その中には何か隠されているのかもしれない。
「そう言えば、お前は面接には通過したか」
「無理だった……僕は何度も行こうとしたが、友達に阻まれた」
この様子からすると、誰も阻まなかったとしても、面接には通らないだろう。こんな境遇になっているというのに、友達はなぜ彼を助けてくれなかったんだろうか。天雲はそれを疑問に思った。
「友達?」
「うん、さっきあなたに追い払われた人たち」
「は? 彼らを友達と呼ぶのか?」
「うん……僕はこの都市に来たばかりの時には何も分からなかったし、彼らはずっと助けてくれてて……」
「どうお前を助けていたんだ?」
「その……僕たちが最初、放逐地の外にいた時から……彼らは何か僕の知らないことをやっていた。もし誰かが探しに来たら、僕になるべく可哀そうなふりをして謝らせた。それに対して僕に報酬を与えてくれたし……それからある日、一陣の兵士たちは僕らを捕まえて、この場所に捨てにきてしまった…」
ここまで聞くと、天雲は重いため息をついた。あの三人のチンピラは、少しは知恵が回るらしい。放逐地の外に住む人々は気が優しい。どんな悪い事をやっていようとも、可哀そうな子供がそれに謝罪すれば、住民は憐れんで問い詰めることを諦めるだろう。もっとも、鬱憤を晴らすに数発は殴るかもしれないが、それ以上のことはしないだろう。
この放逐地は放逐地であるのみならず、国家が罪人を追放する場所であるとも見受けられた。ここへ捨てられた人々は自分が生きていくことに精一杯で、他人を憐れむ気持ちなんてないのだろう。それにより、この少年の境遇は、以前よりさらに惨めなものになってしまったのだろう。
最低な馬鹿野郎どもだ。天雲は密かに拳を握り締めた。
「おいおい、そんなの友達の助けとは呼ばないぞ、奴らはお前を利用していたんだぞ」
「でも僕は何の悪い事もやっていないし……労働を通じてお金を儲けてただけじゃないか?」
「そうじゃない。お前は確かに何の悪い事もやっていないが、奴らはとても多くの悪事を働き、それにお前を加担させた。それによって傷つけられた人々は奴らのことなんてわからず、可哀そうに謝るお前のことしか知らない。その上、奴らは悪い事をやっても、法の制裁を受けないんだぞ」
「まさかそんな……」
自分が以前に何をしていたのか知ったリタは、表情を暗くさせ、ぼんやりと木製のテーブルを見つめた。天雲も、彼の表情から内心の複雑な感情を汲み取ることができた。リタは善悪を見分けられたかもしれないが、この世界の残酷さと暗闇に対しては、何にも分かっていなかったのだ。
「ましてや友達だって言うのなら、さっきみたいにお前を蹴ったり殴ったりすると思うのか?」
「僕は、そんなひどいことをやっていたのか……」
「まあ、それはひとまず置いておこう。どうせ奴らのやったことで、お前のせいじゃない。もしお前が面接に通らなかったら、どうやってその組織に参加するつもりだ?」
悲しい雰囲気になることを避けるため、天雲はさっぱりと話題を切り返した。天雲は、悲しい過去の話題について時間を多く費やしたくなかった。
「方法はあるぞ」
「どうするんだ?」
「僕はその人たちから何を収集すればいいのかの情報を得た。そこには場所が書いてあるから、もし手に入れられたら、たぶん面接を飛ばして次のステップに進めるかもしれない」
「俺に見せてみろ」
彼からそれを受け取った天雲は、そこには多くの地名が書いてあることに気付いた。天雲はこの都市について熟知しているわけではないが、ほとんど地名の後には赤いバツがつけられている。リタは先ほどあのように殴られていたが、この紙には大きな折り目や皺もついていない。この紙を相当大切にしていたことが見受けられる。
「バツがついている場所はもう人に収集された後なんだろう」
「はい、数日前にリストを手に入れたけど、もうほとんど他の人に収集されちゃってるだろうし……」
「待てよ、そしたらもう一つしか残っていないだろう! 『エイリアス大聖堂』のステンドグラス最上階、一体誰が品物をそんな場所に置いたのか。その上にお前らはまったくこのエリアから出られないし、一体どんな方法で、手に取れたんだ?」
紙を見た天雲は、次から次へと自分の疑問を言葉にした。こんな要求は本当に怪しい。しかし天雲自身ですら分からないことを、この子供が分かるわけがない。
疑問は確かに少なくないが、ここまで来ればリタのことを助けるほか選択肢はない。どうせこのガキがどんな問題を起こしたとしても、自分には何の影響もないだろうと天雲は思った。面白い試みだし、少なくとも自分が何もせずに過ごしているよりはましだ。酒場で聞いた噂話から、大聖堂が目下装飾中で、立ち入り禁止だったことを思い出した。そんな場所には簡単に入れないだろう。その話についてよく考えてから、天雲は一つ思いついた。
「そうだ、このリストはお前が君の『友達』のところから手に入れたんだよな、彼らも今回の収集に参加したのか?」
「はい、どうしたの?」
「お前はどんな方法でも手に入れられればいいと言った。つまり、あの三人をやっつけて、奴らが手に入れたものを奪い取るということでも、問題ないんだろうな?」
「いや、だめよ、天雲さん、僕はあの三人に助けられたんだし……」
「さん付けはやめろ、天雲でいい。お前は彼らに助けられたんじゃなくて、利用されていたんだと知っているだろう」
「そ、そうだとしても、どうしても、暴力はダメなんだ!」
リタの言葉を聞いて、天雲は内心で疲れ果てたと感じた。こいつに協力することは果たして正しいのかどうか、悩ましく思えてくる。
「おいおい、お前は怪しい組織に参加しようとしてるんだぜ?なんで暴力を拒否するなんて言うんだよ……」
「で、でも、まだ入ってないんだから、まだそんなことを考えちゃいけないよ……」
この子供は実に善良すぎる。こんな様子で本当に組織という場所で生存していけるのか……
しかし、既に話は進んでいる。天雲は何をどう悩んだところで、もうリタを手助けするほかない。もし今回のチャンスを逃せば、彼はリストを再度手に入れるチャンスはないだろう。そう考えながら、天雲は視線をあの紙切れ上に戻し、思索を始めた。
大聖堂か……きちんと方法を考えなくちゃいけないな。




