78 妖魔となった乳母
蛇の姿と変化したセーランは
餓者髑髏の一部に追って海に飛び込んだ。
しかしその魔物の破片は、
”心臓”のある本体へ戻ろうと、
海中から小島の浜辺へ上陸したのだ。
「絶対に元には戻しません!」
セーランが餓者髑髏の塊に向かい叫ぶと。
彼女が最も恐れていた者の声が聞こえたのだ。
「努力が足りぬ貴女に
そんなことができるわけないででしょう?
誰にも見向きもされぬ、つまらない娘のくせに」
「……!」
恐怖のあまり、セーランは大蛇の姿から人間に戻ってしまう。
そして身を縮めて後ずさった。
なぜここで、あの人の声が聞こえる?
餓者髑髏の一部はウネウネと動いた後
その表面に、一体の死体を押し出した。
それは誰か分からぬほどに崩れた女の体だった。
「お前があの男に愛されなかったせいで
私がこんな目にあったのよ。
お前さえ北王妃に選ばれていたら
たとえ最初は嘘だったとしても、
結果が良ければ全員が幸せだったのに!」
顔もひどく腐敗していたが
口があったと思われる場所の空洞が
パクパクと動いて声を発していた。
セーランにはもう、分かっていた。
兄から聞いていたのだ。
自分が権力も金もある地位に昇りつめるために、
セーランに”レイオウの婚約者に選ばれた”と嘘をつき
勉学や芸能、戦闘訓練、マナーといった全ての事に完璧を求め
厳しく辛い毎日を過ごさせた、あの乳母。
全ての罪が暴かれ、拘束された彼女は
尋問を受けるために海路で東王門家へと運ばれたのだ。
もし裁かれたら死罪、少なくとも長期にわたる監獄入りだろう。
それだけは嫌だと焦った乳母は
船上からひそかに逃げようとして、
誤って海に転落したのだ。
「厳しくその罪を追及するつもりだったが。
このような結末になるとは無念だ」
クーカイは悔しそうに話していたが、
セーランはひそかにホッとしていたのだ。
処刑されるところもみたくないし、
監獄にいると思うとゾッとする。
みずから消えてくれて良かった、そう思っていたのに。
「ああ蛇だなんて! 成り損ないにもほどがある!
お前は一生、独りぼっちなのよ!
そんな姿で愛されると思う?」
ところどころ骨が見える指を差しながら
乳母がセーランを貶める。
乳母は海に落ち、そのまま溺死したのだ。
そして長く海中を漂ううちに、
帝都を目指して移動する餓者髑髏に”回収”されたのだろう。
きっと激しい恨みの念を発していたに違いないから。
「貴女はねえ、どんなに頑張っても無駄なのよ。
努力は無駄になる運命なのよ。
なりたいものにはなれないし、選ばれることもない。
だからせめて、目上の言うことくらい
ちゃんと聞けば良いの」
餓者髑髏の塊から、半分崩れた上半身を乗り出し、
乳母はセーランに両手を伸ばして言う。
「こちらに来なさい、セーラン」
かつては絶対に逆らうことが出来なかった、あの声。
自分の自己肯定感を完全に叩き潰し、
そして僅かな自尊心を利用し操ってきたあの言葉。
条件反射のように、セーランは一歩、足を前に踏み出した。
乳母の両手は確実に、セーランの首を狙っている。
白骨化しかけたあの腕で、絞め殺そうとしているのだ。
すると、その時。
セーランと乳母の間に、一匹の猫が現れたのだ。
「……あっ」
呪縛が解けたかのように、セーランの歩みが止まる。
乳母は両手をブンブンと振り上げて怒鳴った。
「猫め、邪魔するなあ! どけえ!」
しかし猫はそんな乳母を”我、猫ぞ?”と言う顔で見返している。
気まぐれな猫は命令など聞かないのだ。
そこまで思って、セーランは気が付いた。
”この猫、ケイシュン様の使い魔だわ!”
大切にしまい込んでいた香袋を取り出すと、
猫はちらりとこちらを見る。
真ん丸の黄色い目は綺麗な宝玉のようだった。
セーランは乳母に向かって首を振る。
「私の努力は何一つ無駄にはなっていません。
知識も教養も、誰にも奪えぬ財産なのです」
かつて学校に戻ったセーランに
学園長が言った言葉を引用する。
そして。
”ケイシュン様もおっしゃっていたわ。
子どもの頃から動物が好きで、
経営者になどなりたくなかったけど、
両親が喜び、従業員が期待する目には背けなかったって。
迷いを振り切るために必死に学業を修めたけど、
でも結局、夢を諦めることはできなかったと”
人間の姿に戻ったセーランが
泣きながら身の上を語った時に、
ケイシュンも自分のことを話してくれたのだ。
ケイシュンはその精神の拘束から抜け、
動物が好きだという気持ちを優先した今、
あの頃に学んだ多くに助けられたのだそうだ。
「何も無駄なことなんてねえよ。
それに知識や教養は”使える、使えない”で
判断するもんじゃねえ。
在るだけで、心も生活も豊かにするもんだ」
ケイシュンの笑顔を思い出し、セーランも思わず微笑んで言う。
「だから私は今、とっても幸せです。
後悔することも不安もありません」
もはや自分の”洗脳”が効かなくなったセーランに苛立ち
乳母はところどころ抜け落ちた髪を振り乱して怒り狂う。
「お前が私の言うことを聞かないからああ!
私の幸せのために動けぬなら、
私の幸せのために死ねえええ!」
かなり緊迫した空気の中、
猫は大あくびをしている。
さらに大きく伸びをした後、顔を洗い出した。
乳母は餓者髑髏から飛び出して
かつて、自慢にしていた長い爪を
セーランの顔に突き刺そうとするが。
それより先に、急に目を真っ黒にさせた猫が乳母へと飛び掛かり、
素早く爪で切り裂き、その首を落としたのだ。
「すごいわ! 猫ちゃん!」
セーランは思わず叫んだ。
地面にすとん、と着地した猫は
一瞬ちらりとセーランを見た後、
獲物を狩るなど当然と言わんばかりに
”我、猫ぞ”と言う顔で座っている。
”自由に、マイペースに。
自分の思うように生きれば良い”
セーランは、猫がそう言ってくれているような気がした。
そしてキリリと表情を引き締め、餓者髑髏を睨む。
「私が絶対に倒します!」
「おう、その意気だ」
いきなり背後で言われ、セーランは飛び上がった。
振り返ると、神狐と犬神を従えたケイシュンが笑っている。
「どどどどど……ここここ……」
どうしてここに? が言えずにテンパってしまうセーランに
ケイシュンは事も無げに答えた。
「なんでここにいるかって?
俺の狐っ子に呼ばれたんだよ」
そして餓者髑髏の塊を見てつぶやく。
「こいつは一部だな。
本体と合流しちまうまえに始末しておくか」
餓者髑髏の表面にある死体たちは
一斉に呪詛の声をあげ、動きを増した。
自分の周りを飛び回る神狐と犬神に警戒して騒ぎ出す。
「来るなあ! 狐め!」
「憑き物使いめ、犬神まで操るとは!」
ケイシュンは前を向いたまま言う。
「……”浄化の霧”か”破邪の滝”、出せるか?」
「はいっ! どちらも得意ですっ!」
セーランは勢いよくうなずく。
ケイシュンはうなずき、彼女に頼んだ。
「細かく切るから、後はよろしくな」
そう言って両手を交差させる。
その手にはクナイのような小刀が見えた。
ぐるぐると回っていた神狐と犬神たちの速度が
どんどん早くなっていく。
彼らがいつ噛みつくのか、切り裂くのかと
餓者髑髏の死体たちはその動きを追っていた。
しかし。
彼らの動きが止まった瞬間、
ケイシュンが瞬間移動したかのように近づき、
クナイを四方八方に動かした。
そのたびにクナイから風が射出し、魔物の体が切り裂かれていく。
”風斬だわ! 初めて見ました!”
セーランは息を飲んだ。
狐たちに戦わせるのかと思いきや、
ケイシュン自身が攻撃したのだ。
崩れ落ちていく死体が目を見開いてつぶやく。
「憑き物使いのくせに、何故……」
ケイシュンは肩をすくめて答えた。
「命じる奴ぁなあ、命じられる奴の何倍も、
働かなきゃなんねえんだよ」
彼は憑き物を自分の”家来”として扱っているのではない。
共に戦う仲間であり、大切な家族なのだ。
セーランは思った。
”たとえこの人に選ばれなくても……
私がずっと守ってあげたい”
そして怒涛の勢いで”破邪の滝”をぶちかまし
大量の”浄化の霧”を噴出させたのだ。
ケイシュンや神狐たちが
もう良い! もう大丈夫! と止めるまで。
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レイオウが分断し、
他の三名が分かれた一部を滅したため、
世界の妖魔や悪鬼は力を増していなかった。
だが人々は状況が分からないため、
疑心暗鬼になり、そして悲観的にもなっていた。
それほど餓者髑髏の出現は人類にとって恐怖だったのだ。
それでも皆が必死に、自分が出来ることを
必死に努めていた。
パニックを起こす人々をなだめ、
少しでも退魔と浄化を進める僧家の人々。
世界に増加し活動範囲を徐々に広げる
悪鬼や妖魔と戦う四天王や武家。
市場や生活者の混乱を治め、
経済的な支援や社会のインフラを維持するため
協力し合う華族。
そんな中、一市民であるジュアンは
不安と焦燥感で押しつぶされそうになっていた。
長年行方不明だった兄が、
動物好きを高じて新たな能力を身に着け
西王門家に従事していると聞き
驚き、夢を叶えたことを喜んだのもつかの間。
餓者髑髏が現れたことにより、
兄も友だちも飛んでもない危険に晒されていると知り、
心配で居ても立っても居られなくなっていた。
ジュアンは泣きながらアイレンに心情を吐き出した。
「こんな時だって言うのに……
自分の無力さが悔しくなるわ。
”能力”のない平民は何もできないのな?」
するとアイレンはいつもの通りの笑顔で答えたのだ。
「何を言っているの?
私たちこそ、頑張る時でしょう!」




