45 セーランの決断
”北王門家 嫡男との婚約”という乳母の嘘によって
二年間、厳しくも辛い生活を余儀なくされたセーラン。
それが嘘だと知り、怒りのあまり
”大蛇”へと変容してしまったのだ。
”象徴の具現”に失敗し、成り損なった場合、
二度と元の姿には戻れないと言われていた。
一生をこのまま過ごすくらいならと
兄は葬り去ってあげようと思い、
妹もそれを受け入れようとしたが。
アイレンは彼女に問いかける。
「今まで、どれだけお辛かったことでしょう。
おそらく一番セーラン様を苦しめていたのは
”しなくてはいけない”という縛りだけではなく、
”どうすべきなのがわからない”不安
だったのではないですか?」
セーランは青い目を見開いてうなずく。
「どうして、それを?」
アイレンは悲し気に言う。
「以前、舞踊の稽古でお倒れになった事がございましたね?
激しい運動などではなく、緩やかな舞の最中に。
しかも、安らかな顔で気を失っていらっしゃいました。
だから体力の限界というよりも、
気が抜けて脱力したかのようにお見受けしたのです」
「どうして舞で気が抜けるの?
指先まですごく神経を使うのに」
ジュアンが不思議そうに尋ねる。
アイレンは少し笑いながら説明する。
「それです。あの舞は細かいところまで
”こうすべき”が決まっているわ。
すでに完璧にそれを覚えていたセーラン様にとっては
振る舞いに気遣う必要から解放される時間なのです」
大蛇はうなずき、涙をこぼして言う。
「どんなに頑張っても”まだまだ足りない”と求められ、
どんな風に振舞っても”違う、そうではない”と否定され、
”北王家に認められない”と脅されて。
私は何をどうすれば、この苦しみから解放されるのか
まったくわからなかったの」
「終わりが見えないどころか、正解すらわからない。
どれだけ精神を抑圧されたことでしょう。
でも先ほどの戦闘は、セーラン様が自由自在
思いのままに戦っていらっしゃいましたね」
アイレンの言葉に、セーランは大きくうなずく。
「最初は怒っていたわ。皆、あの女をかばうのか、と。
でも飛んでくる樽を破壊するうちに理解したの。
私に思い切り、今までの怒りを発散させ
爽快感を感じさせてくれているのだ、と」
セーランは賢い娘だ。
心の根底に絶望を感じたままではあるが、
状況分析できぬほど愚かではなかった。
ジュアンもうなずきながら言う。
「皆は、セーラン様を”完璧”だと褒めるばかりだったけど
正直それもどうかと思ってたわ。
励みになる以上にプレッシャーになるもの」
アヤハは涙声でセーランに尋ねる。
「あなた、食事の制限まで受けていたのね?」
セーランは乳母から、魚は良いが肉はダメ、
甘いものなどもってのほか、と命じられていたのだ。
すると驚いた声で、セーランの兄が叫んだ。
「何だと!? セーランが喜ぶだろうと父はいつも
お前が好きな菓子や果物を贈っていたのだぞ?!
俺も遠征のたびに、土産を送っていたが。
まさか食べていなかったのか? セーラン!」
「えっ!? そんなことは一度も……」
「……あの女、自分のものにしたのだろう。
絶対に許さんぞ、出来得る限り残酷な死を与えてやる!」
クーカイが怒りのこもった声でつぶやくが。
セーランの顔には喜びが満ちていた。
体中が温かい光に包まれたような気持ちになる。
「嬉しい……お父様もお兄様も、
私をお見捨てになったのかと思ってましたわ」
ただただ、”偽の婚約”がバレないように、
乳母が情報を遮断していただけなのだ。
「すまない。いくら母上の遺言とはいえ、
あのような女を”乳母”に採用してしまったとは」
クーカイは申し訳なさそうに詫びる。
「待て。三年前、東王門家の王妃が御逝去された時、
そのような遺言を残されたということか?
もはやセーランは14歳、乳母など要らぬだろう?」
レイオウはいぶかし気に尋ねる。
その問いにクーカイも首をかしげつつ答える。
「そうだ。あの乳母は母上の侍女のうち、
かなり末端の者だったのだが。
”いまわの際、娘の乳母になってくれと頼まれた”
そう言って、母の指輪を出したのだ。
だから父上は仕方なく、セーランの筆頭侍女にしたのだ」
レイオウは苦々し気につぶやく。
「……そういうことか。
”局”の地位を賜るのは”乳母”のみだからな。
アイツの計画は、そこから始まっていたのだろう」
乳母の悪だくみを糾弾する彼らに対し、
セーランは目に涙を浮かべたまま笑っていた。
蛇の大きな口の両端を上げ、まん丸い目を細めている。
「お父様もお兄様も、遠くで私を見守っていてくださった。
こんなダメな娘を、見捨てずにいてくださったのね」
するとクーカイだけではなく、アヤハも驚いて叫んだ。
「何を言う! ”美しく賢く、自慢の娘だ”と
父は宴会のたびに吠えるので、
皆に呆れられているのだぞ?」
「そうよ、南王門家でも評判の姫だわ!
私なんて何度、”セーラン様を見習え”と言われたことか」
「そんな! 私、今までずっと……」
セーランは上を向き、涙を流す。
「あの乳母、セーラン様の自己肯定感を丸削りしてたって訳ね」
ジュアンが不快そうに言う。
「ああ、相手を支配する時に使う常套手段だな」
レイオウも怒った声で同意する。
セーランが苦し気に叫ぶ。
「ああ、私はいったい何をしていたのでしょう!
四天王家 東王門家の者として恥ずかしい!」
「恥ずかしいことは何もございません。
だまし、つらく当たったあの人が完全に悪いのです」
アイレンはそう言うが、セーランは首を横に振る。
「たとえそうでも、この姿は
自ら考えることを放棄した罰なのです」
そして再び、クーカイを見て言った。
「お兄様、最後にお会いできて嬉しゅうございました。
たくさんの贈り物を送って頂いたと知り、
私はもう、思い残すことはございません。
どうか父上に、この不甲斐ない……」
「止めよ! セーランっ!」
さっきまで討伐すべきと思っていたクーカイだが
理知的に語るこの大蛇は、
まぎれもなく可愛い妹だった。
セーランがこのままどこか
海にでも身を沈めるつもりだと思い、
その心は張り裂けそうになっている。
それでもセーランは頭を垂れ、皆に告げる。
「どうか、お許しください。
このような姿で一生を過ごすのは
私には耐えがたいのです」
するとアイレンは少し不思議そうに言う。
「あら、まだお気づきでないのですか?」
その言葉に、セーランは”え?”という顔で首をかしげる。
「一生そのままで、とおっしゃいますが
すでに変化がはじまっているではありませんか!」
それを聞いたセーランが、
直視を避けていた自分の体を見ると。
背の鱗はすでに、毒々しい紫から
ごく淡い青紫になっていた。
顔や腹は真っ白で、目はサファイアをはめ込んだような青。
「あら……まあ!」
驚くセーランにジュアンが冷静な声で言う。
「そのお姿は”ありがたさ”が最高潮に達しますね。
”神”と祭り上げられる心配すらあります」
アイレンは彼女へと歩み寄り、見上げて言う。
「初めて変化が見られたのは、
”ご家族がお菓子や果物を送っていた”と
お聞きになった瞬間でした」
セーランは思い出す。
兄からそれを聞き、とても幸せな気持ちになったことを。
アイレンは続ける。
「つまり、セーラン様のお姿は、
その精神状態に強く関わっている、と考えられます」
レイオウもうなずいて言う。
「変容からわずか数時間で、
このような変化が見られたのだ。
いろいろ試して損はないだろう」
「そうよセーラン。今まで不完全だったせいで
非業の死を遂げることになった者のためにも。
これからの王族のためにも生きて!」
今が、大事なターニングポイントだ。
アヤハはそう思い、必死に懇願する。
セーランはハッと顔を上げてつぶやく。
「確かに、もし私が元に戻れたなら、
二度と悲劇は起きませんわね……」
レイオウも彼女に言う。
「万が一、思い通りにはいかずとも、
妖魔や悪鬼を倒して死ぬのはどうだ?
それが我ら四天王家の本懐なのだし、
何よりお前の攻撃力は素晴らしい」
レイオウに褒められ、真っ白な顔の頬が赤く染まる。
照れている蛇の顔はとても愛らしかった。
「……私、戦場で皆様のお役に立てますでしょうか」
「ああ、東王門家の主力となるであろう」
兄にも言われ、セーランのシッポの先がふるふると振れている。
ジュアンは心の中で”めっちゃ可愛い”とつぶやく。
四天王家の人々は、セーランの性格を熟知していた。
期待に応えようとし、責務をきちんと果たそうとする
真面目で一生懸命な性格を。
そして自分のためだと苦痛だが、
人のためであればいくらでも頑張れるという優しいところも。
しかし、アイレンは笑顔でそれを制したのだ。
「いいえ、セーラン様にはまず、
自分のために生きていただきます!
ですから、以前申し上げた通り……」
セーランは小首をかしげて問うた。
ちょっとおどけたような口調で。
「大急ぎで娯楽に興じなくてはなりませんのね? 私」