最終話「神様のしっぽ」
その日、風が強かった。
春の終わりと初夏のはざま、町を包む木々がざわめくように揺れていた。
マリアは、教会の片隅でフィリクスに向き合って座っていた。
彼女の手には、一枚の紙。父の残した、たった一枚の手紙だった。
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《この鐘がもう一度鳴ったとき、
おまえがそこにいてくれたら、
それだけで、神に感謝できる》
それが、父の遺言だった。
マリアは長い間、その言葉の意味がわからなかった。
でも今はわかる。
「鐘」は、誰かの心をつなぐ音だったのだと。
フィリクスが咥えていた杖は、父の祈りの名残だったのだと。
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その夜、マリアは言った。
「フィリクス。ありがとう。あなたがいてくれて、ほんとうに、よかった。」
猫はいつものように言葉を返さない。
ただ、じっと見つめて、そっとマリアの手の甲に鼻を寄せた。
まるで、さようならを告げるかのように。
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次の朝。
マリアが目を覚ますと、フィリクスの姿はなかった。
教会のどこを探しても、杖だけが、静かに祭壇に置かれていた。
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村人たちは、ぽつりぽつりと教会に通いはじめた。
フィリクスがいなくなったあとも、鐘の音は朝に鳴り、祈りの椅子には温もりが残っていた。
ある子どもが、マリアに尋ねた。
「猫神父さまは、どこへ行ったの?」
マリアは少しだけ微笑んで、こう答えた。
「きっと――次の町で、誰かの心を聞いてるよ。」
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そして、ある満月の夜。
マリアが教会の鐘楼に登ると、屋根の先に、灰色のしっぽが見えたような気がした。
風が吹き、ステンドグラスが月光を散らす。
その瞬間、鐘が――また、静かに鳴った。
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「神さまが本当にいるかどうかなんて、わからない。
でも、あのしっぽだけは――たしかに、あたしの祈りを聞いてくれたんだ。」
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― 完 ―