婚約破棄をされた後、天使から悪女に変貌したと嘆かれましたが、本人はこちらの方が気に入っているので幸せです
「バネット嬢、やはり君のことは愛せない。だから我々の婚約は解消して欲しい」
五年ぶりに会った侯爵家の令息である婚約者が、女性連れで現れて開口一番こう言った。
あまりの突然の申し出に衝撃を受けたが、そのままそれを受け入れるわけにはいかなかった。たとえ長らく会っていなかっとしても、すでに八年間も婚約をしていたのだから。
「それは貴方の有責でということですか?」
「僕の有責? なぜ?」
眉毛一つ動かさず、淡々とした表情のまま彼は短く質問してきた。
浮気をしておきながら、自分の有責に疑問符を付けるなんて、なんて図々しいのかしらと、怒りが増した。
「浮気をしたら有責になるのは当然でしょう?」
「僕は浮気なんかしていない。浮気ができるくらいなら、君とは婚約解消しないよ」
言っている意味がわからない。
「今現在、こうして貴方の隣に浮気のお相手がいるではないですか」
私がそう指摘すると、二人は顔を見合わせた。彼女の方が無言で頷く。何アイコンタクトを取っているのよ。嫉妬心が湧いた。
学生とはとても思えないほど落ち着いた感じの知的美人で、私とはまるで正反対。その静謐な佇まいは、婚約者と同じ雰囲気を醸し出していた。
ああ。こういう寡黙な女性がお好みだったのね。だからずっと私に冷たかったのね。そして会おうともしなかったのね。
子供の頃も喋り過ぎる私を困ったような顔で見ていたわ。
「君は何を言っているんだ? 彼女の服を見てわからないのか? 彼女は立会人だよ」
立会人?
「本来ならお互い立会人をお願いすべきなんだろうが、君の家は必要ないと言ったんだよ。彼女の名前を告げたらね。
こちらにいるシャロン=コロンド嬢は最も公正な証人と評判の立会人だ。いくら世間に疎そうな君でも知っているよね?」
無知だ、愚か者だと言われたようで頬が熱くなった。でもたしかに無知だった。
紫色のロングスカートに、楕円形の金のブローチの付いたシンプルな白いブラウス姿。その竜胆をイメージする装いは、小説などによく登場する正義の証人である立会人の出で立ちだった。
「なぜ立会人を?」
「後で言った言わないは無益だから。君はすぐに興奮して、自分の発言に責任を持たないから、用心のためだよ」
婚約者の言葉に衝撃を受けた。すぐ感情的になるのは、貴族令嬢としては最も恥ずべき行為だと叱責されたのはいつだったろうか。
両親や執事、侍女長達に散々注意されて、今では大分良くなったと思う。
でも彼と会わなくなったのはそれ以前だったと思う。もしかしたら、それで私を嫌いになり、避けるようになったのだろうか。
そのことに思い至って全身が震えた。あの頃、私はそんなにひどかったのかと。
「す、すみませんでした。私、ずいぶんと貴方に嫌な思いをさせてきたのですね」
「今さら何なのですか? しかも他人事のように」
彼は呆れたようにそう言ってため息を吐いた。相変わらず無表情だが軽蔑してることだけは感じ取れた。
「本当に私は愚かで、何故貴方に疎まれているのかわからなかったのです。
でも、私は私なりに貴方との関係を良くしたいと、何度もお手紙をさしあげたつもりです。
気に入らない点があったのなら、なぜそれを手紙に書いて教えてくれなかったのですか?」
「貴女の手紙の内容はいつまでたっても、幼い時の考えと変わらなかった。
自分の考えや思いばかりが綴られてあって。だから指摘してもどうせ貴女は変わらないと思った」
「私が書く手紙なのだから、自分のことを書くのは当たり前なのではないですか?」
「もちろん当たり前のことだね。でも、相手から手紙の返事が欲しいのなら、自分はこう思う、感じるけれど、貴方はどう思うのかと、たまには問いかけの言葉があってもいいのではないか?
そうでなければ、こちらも自分の気持ちを書くだけになってしまう。
つまり一方通行だ。貴女が僕の問いかけに応えてくれた試しはない。だから返事を出さなくなったんだよ。
貴女は自分の気持ちや言いたいことを手紙に書いて、それを送ることに満足して、僕の返事など必要としていないのだと思った。だから返事を返さなくなった。
マナー違反だと言われても、貴女に書きたいことなんてなかったしね」
私は瞠目した。彼に指摘されなければそんなことは永久に気付かなかっただろう。
私は自分の愚かさをようやく悟った。話し合わないと人はわかり合えないと思っていた。だから、一生懸命に話しかけていた。
でも私だって自分のことばかり話したかったわけではない。彼の話だって聞きたかった。けれど、何も話してくれないから、私ばかり話すことになっただけだ。
でも、手紙のことはたしかにそうだったのかもしれない。無意識だったけれど、途中からもう、彼からの返答を諦めていたのかもしれない。
だって都合良く忘れているみたいだけれど、貴方からの問いかけの手紙なんて一度ももらったことはないもの。
最初から時候の挨拶と近況報告しか書かれていない便箋一枚でも余る内容だったわ。
それでも貰えれば嬉しくて何度も繰り返し読んだから、ほとんど内容を覚えているもの。
話し合ってもわかり合えない人もいるのね。もっと早くにそれに気付いていれば良かったわ。私って本当に夢見がちなお子様だったわ。
「この婚約を見直そうと、何度か貴方が父にお話ししていたことは存じておりました。
それでも私は、いつかはわかり合える日が来ると夢見ていました。
そんな私の一方的な思いのせいで、貴方の貴重な時間を無駄にしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。
ロバート様、今後貴方が素晴らしい女性に出会えますことを、陰ながらお祈りしております。
そしてその方とは今度こそ愛し合えることを願っています」
私はもう抗うことを止めてそう言った。ただし、最後の一言は嫌味のつもりだったけれど。
すると、彼は初めて目を見開いた。深い濃紺の瞳は知的だと素直に思った。初めて見つめ合ったと思う。
しかし、その瞳には戸惑いというより、怒りを含んでいた。
「何故そんなことを言うのだ! 嫌味か? 僕が誰かと愛し合うことができないとわかっているくせに。
そもそもそれをわかっていて婚約したというのに、君はそれをすぐに反古にした。やはり、君の有責で婚約解消だ!」
「はい?」
最初の婚約解消の言葉よりむしろこちらに驚いた。何故私の有責なの?
私は浮気をしたわけでも、彼を意図的に傷付けたこともない。大体五年も会っていなかったのだから。
あまりのことに唖然としていると、ずっと黙って成り行きを見守ってきた立会人が、初めてこう口を挟んだ。
「ロバート卿、ちょっとお待ち下さい。事前に聞いていたお話とは違いますね。
たしか、婚約解消したい理由は、性格の不一致。ですから穏便に話を進めたいということでしたよね?
バネット嬢を有責にする事象とその証拠の有無を私は把握していないのですが?」
「互いに愛情を求めない契約結婚でもかまわない、という内容を彼女が受け容れたから僕は婚約したんだ。
それなのに彼女はやたらと愛を囁き、僕に愛情を求めてきた。それは契約違反だ。
だから解消したいと何度も彼女の家に申し出たけれども拒否され続けた」
立会人とロバート様のやり取りに私はそれこそ本当に絶句した。
二つ年下の私だって、当然これが政略的な結婚を前提とした婚約だとはわかっている。
そうでもなかったら、五年も没交渉の相手から婚約解消を求められたら、普通腹を立てて、こちらから婚約破棄を申し出るでしょ? 家格は同じ侯爵家なのだから。
それなのに、両親は彼からの婚約解消の申し出をずっと拒んでいた。それはこの婚約が両家の都合では解消できないものだったから。
それをこの人は未だにわかっていないの? 侯爵家の後継者だというのに?
「これは両侯爵家当主が結んだ婚約であり、たとえ本人であろうと、勝手に契約を破棄することはできない。
そんなことをしたら膨大な被害が出る。それでも婚約解消をしたいのなら、まず君の両親を説得してきなさい。話はそれからだ」
そう返事をしたと父は言っていた。父は私達が上手くいっていようがそうでなかろうが全く気にもしていなかった。
なぜなら、両家の当主はこの婚約関係を持続させなければならない理由があったからだ。それがたとえ形だけであったとしても。
しかし、それがようやく不要になったということなのね、と私は理解した。だって私には立会人を付けなかったのだから。
とはいえ、さすがにこちらが有責になるとは父も思ってはいないだろう。それならば私もただ言いなりになっているわけにもいかないわ。
両親がたとえ慰謝料を取られたとしても今さら私はなんとも思わないけれど、そんな理不尽なお金の使い方をされたのでは、税を納めてくれている領民に申し訳ないもの。
それにしても『互いに愛情を求めない契約結婚でもかまわない』という内容に私が同意したですって? そんな覚えはないのだけれど。
私がそう主張すると、まだ一応婚約者の男はますますむっとした顔をして何か言葉を発しようとした。しかし、立会人がそれを制した。
「言った、言わないは無駄だとおっしゃったのは貴方ですよ、ロバート卿。貴方の出した条件をバネット嬢が呑んだという、明確な証拠をお出しください」
「もちろんあるよ」
彼は革の鞄の中から、古そうな一通の封筒を取り出すと、それを彼女に渡した。
彼女は封筒から一枚の紙を取り出して、それに目を通した。そしてどうだ!と自信満々の顔をした彼に向かってこう言った。
「この誓約書は成立しませんね」
「はっ? ここにちゃんとバネット嬢のサインもあるぞ。子供が書いたものだとしても本人が書いたものに間違いない」
「はぁ〜。この日付けを見ると、バネット嬢は当時まだ七歳だったのでしょう? 親の承認がなければそんなもの正式な証書とは認められません。そんなことは常識でしょう。
子供による契約や誓約が公的に認められたら詐欺師が大喜び。社会生活が成り立ちませんよ」
この方、学院創立以来の天才とか呼ばれているようだけれど、本当かしら? 信じられないわ。
立会人であるシャロン=コロンド様も同じことを思ったのだろう。初めて呆れたような表情を浮かべた。
「それくらいわかっている。僕が言いたいのは、ちゃんと彼女がこの婚約の意味を理解していたのに、それを無視し続けたことが悪質であり、そのせいで僕は精神的にダメージを受けたという事実だ」
「いいえ、それは事実と異なりますね。貴方は彼女が理解して納得したと勝手に思い込んで、勝手に傷付いただけですよ。全て貴方の自業自得ですね。
むしろ彼女の方が貴方に精神的苦痛を与えられていたと思いますが」
「なんだと!」
思いがけない立会人の言葉に、ロバート様は思わず立ち上がってシャロン様を睨みつけた。
私も同じように驚いて彼女を見つめた。だって彼女は彼の味方のはずよね?
「「僕は人を愛することができない人間だ。それ故に僕の愛を望むな」と貴方は言ったそうですね。
ですが、バネット嬢は単にこれが政略結婚だから今はまだ貴女を愛せないと言った、と思ったみたいですよ。
だから元々は愛情がなくても、お互いに分かり合う努力をしていけば恋愛とまではいかなくても、親愛の情くらいは持てると信じて、彼女はこれまで頑張ってこられたのよ」
なぜそれを知ってるの? 私は心の中で叫んでいた。彼の方ははっきり口にしていたけれど。
「なぜそんなことを貴女が知っているんだ!」
「もちろんロバート卿のご両親である侯爵様ご夫妻にお訊きしたからですよ。
最初の顔合わせをした時、まだ幼かったバネット嬢は貴方の言った意味がわからなかったのです。
ですから、お花摘みに行くついでにお二人のお母様のいらした部屋へ行って、貴方に言われた言葉の意味を訊ねたそうです。
すると彼女のお母様がこうおっしゃったそうよ。
「貴族は国や領民や家のために政略結婚が当たり前なのよ。なぜなら豊かな暮らしができるのは、皆さんのおかげなのだから。
もしそれが嫌なら平民になって自由に結婚すればいいのです。慣れない暮らしの中で幸せになれるかどうかはわからないけれど。
今日初めて会ったのだから、彼が貴女を好きでなくても当然だと思うわ。でも、嫌いと言われたわけではないのでしょう?
これからお付き合いを続けて、お互いに知り合っていけば、恋愛には至らなくても、家族や友人にはなれるのではないかしら?」
と。
バネット嬢はお母様の話を聞いて、政略結婚なのだから今は愛情がなくても仕方がない。
けれど誠意を持ってお付き合いをしていけば、それなりに親しくなれると思ったのでしょう。
つまり、彼女は貴方に今は愛情がなくても仕方ないという意味で同意されたのです」
「何勝手な解釈をしているんだ! だから頭の悪い連中は嫌いなんだ。
僕は人を愛せない人間なんだと君に何度も言っただろう! それは相手が誰だろうと関係ない。お互いに努力したってそんなことは無意味なんだ。
そのことは僕の両親を通して君の家へも伝えたはずだ。
それなのになぜ誰もそれを理解できないんだ!」
彼の言葉に、私はようやく納得がいったというか、ホッとした気持ちになった。
これまで彼と上手くいかず、二人の距離が一向に縮まらないのは自分のせいだと思っていたから。
しかしそうではなかった。彼は相手がたとえ私でなかったとしても愛さなかった。いや、愛せない人だったのだ。
ああ。私はずっと思い違いをしていたのね。彼に嫌な思いをさせてしまったと本当に申し訳なく思った。
その原因は私の両親と彼の両親のせいだとは思うけれど。
とはいえ、それでもモヤモヤするものがあって気持ちが悪かった。私だけが一方的に悪いの?って。
だから最後にせめて文句の一つくらいは言ってやろうとこう口を開いた。
「貴方が人を愛せない方だということをようやく理解できました。
そして、他人には愛情だけでなく情さえ持てない、いえ、持つつもりがない方だということも。
性格の不一致による穏便な婚約解消ということなら、そのお話をお受けします。
私の有責による婚約破棄は無理そうだ、ということもご納得していただけましたよね?
貴方の言葉を誤解したのは、そちらのご両親様も同様だったようですから」
彼は困惑した表情をした。
「僕には情がないとはどういうことかな?」
「どうもこうもその言葉通りです。
だって貴方は私に対して愛情だけではなく情さえも持ち合わせていませんでしたよね? 五年も完全に私を拒否し、無視し続けてきたのですから。
つまり他人を愛せない貴方は、ご両親や妹さん、ご学友にも愛情だけでなく、一切の情も持っていらっしゃらないのでしょう?」
「そ、そんなわけがあるか!」
彼は焦ったように声を荒らげた。
さすがに彼も思ったのだろう。ただ女性を愛せないというだけならともかく、身内の者達や近しい人達にさえ愛情や情のない人間だと思われたら、人間として問題があると見倣されてしまうと。
「違うのですか?
それならなぜロバート卿は、私に対して親愛の情さえ持ってくださらなかったのでしょうか?
私の愛情を求める態度が契約違反で腹が立ったとおっしゃいましたが、私が貴方の婚約者になったのは僅か七歳の時ですよ。単純に仲良くしたいと思っていただけで、愛して欲しいとまでは思っていませんでしたよ。
それなのに貴方は一方的に私を嫌悪して拒否して、一欠片も歩み寄ろうとはしませんでしたよね。
お手紙だけでなく、私が貴方のお誕生日やお祝い事に贈り物をしても、一度も礼状やお返しをいただいたことはありませんし。
もちろん侯爵様ご夫妻からはありましたが。
そしてパーティーに招待しても、ご家族の中で貴方だけがおみえにならなかった。
たしかに私は貴方の嫌いなお喋りで、感情の起伏の激しい子供でした。
しかし、その後は厳しい指導を受けて私は変わったのですよ。まあ、貴方は私に会おうともしてくれなかったので私の変化には気付かなかったかもしれませんが」
仕事中は自分の感情をセーブしてそれを表に出さないと聞く立会人様まで、思わず顔をしかめたわ。
元婚約者様は何も言えずに瞠目していた。でも私はそこにすぐさま追い討ちをかけた。
「今さらですが、貴方は本当に侯爵家をお継ぎになる気があるのですか?」
会うのはこれが最後だと思えたので、長年一番疑問に考えていたことを質問してみた。
すると、ふざけた質問をするなとでも言いたげな苦々しい顔をした彼が、吐き捨てるようにこう言った。
「当たり前だろう。僕は嫡男で、僕以外に後継者などいない」
「私は、貴方以外にもいらっしゃるとお聞きしていますが。
それはともかく、本気で後継者になるおつもりなら、どうして私との婚約を破棄しようと考えたのでしょう。信じられませんわ」
「どういう意味だ?」
再び彼はこう言った。
「どういう意味も何も、私達の婚約は王命でしたよね?
国はどうしても興したい事業があったそうです。
ところが、国家予算だけでは資金が足りなかった。だから八年前、王家が両家に援助を申し込んできたことは当然ご存知ですよね?
その事業はハイリスク、ハイリターンだったために両家は本当は断りたかったけれど、それが叶わずしぶしぶながら受けざるを得なくなりましたよね?
ところが、成功すればそのリターンも大きかったので、その上っ面だけを見て、両家を妬んで妨害する家もあったそうです。
両侯爵家に手を引かれては困る国王は、これが王命による事業なのだと世間にわからせる必要がありました。
そのために、無理矢理に両侯爵家を姻戚関係にしようとしたのですよ。
それなのにその婚約を破棄するというのだから、堂々と王命に逆らうということでしょう?
つまり、貴方は後継を降りると自ら宣言したようなものですよね?
なぜそれほど私に愛されること、好かれることが嫌だったのですか?
最初に貴方が言ったように、政略結婚なのですから私が嫌いなら別居して、これまで同様会わなければ済んだでしょうに。
先ほど私を馬鹿だと言っていましたが、どちらが馬鹿なのでしょう?」
彼は私とは別の学院に通っていたけれど、入学した時からずっと首席だと聞いていた。
だから頭のいい人なのだと思っていたけれど、それはただ学問上の頭が良かったに過ぎないのだとわかった。
「人は変われるし、成長するものだ。だから様子を見よう」
そう父は言っていたけれど、まだ学生とはいえすでに成人を迎えたというのにこれでは、この先もう変わらないと考えてもいいのではないかしら。
「先ほど性格の不一致による婚約解消をお受けしましたが、それに不服で私の有責による婚約破棄をお求めならば私は裁判を起こします。
貴方はすでに成人を迎えられましたが、私はまだ未成年ですので、今後は先触れを出されたうえで、私の両親と交渉してください。
それではこれで失礼します。二度とお会いすることもないでしょうが、どうぞお元気で。
この八年は長かったですが、世の中には一般常識でははかれない思考をする人がいるという貴重な体験ができました。
そして相手に何も求めてはいけないこと、自分の幸せは自分で見つけることなど、大切なことを学んだことに感謝しております。忍耐力もつきましたしね。
立会人様には俯瞰的視野の下で話を進めてくださったことに、感謝申し上げます。
それではごきげんよう」
「ま、待ってくれ!」
慌てて引き止めようとするロバート様を無視して、私はその場でカーテシーをすると、元婚約者とにこやかに微笑む立会人のシャロン=コロンド様に丁寧に挨拶をして、レストランの個室から出て行ったのだった。
✽
その後私達の婚約は無事に解消された。
相手方は自分達の有責だとして慰謝料も払うと言ってきたけれど、両親はそれを断った。
今後も共同の事業を続けていくのだから、できるだけ穏便に済ませた方が両家のためだからと。
ただし、私には大変申し訳ないことをしたと、彼らがコレクションしていたいくつかの絵画と宝石を私に寄越してきた。
そして両家は、幼き者同士の婚約にはやはり無理があった。性格不一致のために婚約は解消せざるを得なかった、と王家に報告した。嫌味を込めて。
昨今では低年齢の子供の婚約や結婚は非人道的という世界的風潮があるからだ。
半ば強制的に押し付けられた共同事業はようやく軌道に乗り、利益を生み出し始めていた。
王家もその恩恵を受け始めたところだったので、今さら両家に手を引かれは困ると、この件に対するお咎めはなかった。
ただし、王命が軽んじられては王家の権威に関わるからと、新たな縁を両家で結ぶようにと命じてきた。
その結果、元婚約者の五つ年下の妹と私の一つ年下の従弟が婚約し、その従弟が相手方に婿入りすることになった。
我が家には私の他には、既に結婚して妻子のいる兄しかいなかったからだ。
今度は何度となく交流を持ち、お互いの相性を見て、双方の話を聞いた上での決定だった。
双方が最初から好印象だった上に、話し合う機会を何度も得られたことで、二人の仲は徐々に深まっていたらしい。
私達の失敗が生かされたのなら、私の婚約も無駄じゃなかったと素直に嬉しく思った。
私だってまだ十五歳だ。早めに婚約解消してもらえたのだから、いくらでもやり直しができるでしょう。
この時代、婚約が解消されたくらいではそれほど瑕疵になることもないのだから。
しかもそれが幼い頃に王命によって結ばれた婚約なのだからなおさら。
でもまあこれで、私の方はようやくスッキリして晴れ晴れとした気分になったけれど、相手の方はどう思っているのでしょう。
誰かと愛し愛されることを忌み嫌っていた人だったのだから、きっとこの状況に満足しているわよね?
あの日、立会人様から客観的な報告を受けたあちらのご両親は、怒るというよりは諦めの境地に至ったらしい。
この八年、彼らも何もしないで手をこまねいたわけではなかったと、両親から初めて聞かされた。両家の親達はこまめに連絡を取り合い、対策を取っていたらしい。
父が以前言っていた通り、
「人は変われるし、成長するものだ。だから成人するまでは様子を見よう」
という気持ちで辛抱強く見守り、時折言葉掛けやアドバイスなどもしてきたらしいのだが、結局彼の耳、いえ心には届かなかったようだ。
変わらない、変われない人はたしかに存在するのだと、私だけではなくみんなもそう感じたらしい。
そして、もう変わる見込みがないと判断した以上、このまま跡取りにしておくわけにはいかないとあちらの侯爵家は判断したようだ。
愛情はともかく、人を思いやろうとする心のない者を後継者にはできないと。
当主には家族だけでなく多くの使用人や従業員、及びその家族を守る義務があるのだから。
ただし、後継者でなくなってもロバート卿が彼らの息子であることには変わりはない。ただ爵位は継げないので平民になるというだけだ。
彼の分の財産はきちんと生前分与されるそうなので、生活には困らないだろうと父は言っていた。相変わらず学院の成績も優秀で、官吏試験にも合格したらしいし。
まあ、今さら私が心配することでもないけれど。
そういえば、私の方も父の言っていた通りに変わったと思う。それが成長と言えるのかどうかはわからないけれど。
努力してもそれが必ず実るわけではないことを私は学んだ。まあ、それは当たり前のことだったのだけれど。
自分が愛すればいずれは相手からも愛してもらえるということも幻想だと知った。
つまり、この世に真の博愛主義者などいるわけがない。もしいたとしたなら、そちらの方の人間がおかしいのだということにようやく気が付いたのだ。
人間は神ではない。だから誰にでも欠点はあるし、あって当然だと思う。
それなのに人間は愚かな生き物だから、それらの過ちや欠点を全て許して愛するなんてことは、残念ながら不可能な話だったのだ。
それなのに努力すれば誰のことも愛せるし、愛してもらえると信じて疑わなかった私は本当に愚かだったわ。もちろんそれは恋愛に限ることではなく……
元婚約者が誰も愛せなかったこと自体は仕方のないことだと思う。それでも、人の気持ちに寄り添う心を持つ気がないというのは問題だと思う。
意に沿わない婚約だったとしても、最低限の誠意を持って向き合うべきだったのでは?
私も我慢せず、注意なり文句を言うべきだったのかもしれないけれど。
卒業後、元婚約者のロバート様は役所で働き始めたようだ。なんでも総務省統計局で、データの収集と解析する難しい仕事を任されたらしい。
人と関わらず、ひたすら数字と記号だけに向き合えるのだから、彼にとって理想的な職場だろう、と父が言っていた。
自分のことは一切喋らず、人の話にも耳を貸さないあの人にはたしかにぴったりかもしれないと私も思った。
しかし、元婚約者が変わり者なら、誰のことも愛せるし愛されると信じていた私も変わり者だった。そして愚か者だった。
博愛主義者の侯爵令嬢、誰のことも許してあげる優しいバネット嬢、みんなに愛されるご令嬢……
そんな風に揶揄されていたことにも気が付かなかったのだから。
でもこのことに気付けたおかげで私は、以前から頭を悩ませていたもう一つの問題を解決できたのだから、人生って何が起きるかわからないわ。
実は私は学園の中等部に入学して以来、嫌がらせをしてくる男子に頭を悩ませていたのだ。
挨拶をしても無視されるし、配布物は渡してくれないし、嘘の連絡事項を伝えられるし、教科書や筆記具をゴミ箱に捨てられたりもした。
それでもこれくらいならまだ幼い子のイタズラと変わらないと、特に気にもせず放っておいたのだ。
私は幼い頃から信仰深い母に連れられて教会の付属の養護施設に通い、子供達と遊んだりしていたので、男の子なんてみんなそんなものだと思っていたからだ。
しかし、それは間違いだったとようやく気が付いたのだ。なぜなら最初の頃はともかく、今の彼は幼い子供ではなく、二年後は成人になるのだから。
しかも彼は平民ではなく貴族、いや、王位継承権を持つ公爵家のご令息なのだから、あのような態度や行動をとっていいわけがないのだ。
だから学園の食堂で、ランチセットの載ったプレートを持ってテーブル席へ向かおうとしていた私に、足を引っ掛けて転ばせようとした例の公爵令息に、私はこう言った。
「こちらのご令嬢と私のAランチセットが床に落ちて食べられなくなりました。代わりの二人分のAランチセットを急いで持ってきてください。
それからここをすぐに片付けて下さいね。貴方のせいで汚れたのですから。
それと、私達二人のドレスを弁償してくださいね。スープが飛び散ってしみだらけになってしまいましたから」
そう。彼は私の足を引っ掛けようとして、たまたま私の隣にいた子爵令嬢の足を引っ掛けたのです。
私がとっさに彼女を支えたので、彼女は転ばなくてすんだのですが、彼女のAランチセットの載ったプレートだけでなく、私のも同じように床に落ちたのです。
私のいつにない厳しい物言いに、公爵令息は一瞬目を見張って息を呑んだ後で、いつもの薄笑いを浮かべてこう言った。
「君は慈悲深い、誰のことも許してあげる優しいバネット嬢だろう? どうしたんだい、今日はそんなに声を荒らげて」
「ふざけないで! 一歩間違えれば、彼女は転んで怪我をしていたかもしれないのよ。
それなのに謝りもせずにヘラヘラ笑うなんて、最低な人ね。
それに私達のドレスもこのランチも、領民が汗水垂らして働いて納めてくれた税で購入したのよ。
それを馬鹿げたおふざけで駄目にされて許せるわけがないでしょう。弁償するのが当然です。
このことは学園に報告し、公爵家にも抗議させてもらいます」
私がいつも簡単に許していたから、彼を図に乗らせ、関係のないご令嬢にまで迷惑をかけてしまったのだ。
それに、私には公爵家や王家に無理矢理に婚約させられた恨みがあるのだ。
そう。王弟殿下の興した公爵家と王家は、なあなあの関係で運命共同体なのだ。
ようやく儲けが出るようになった事業から我が家に撤退されたら困るのはどっちかしら?
私に文句があるなら矢でも鉄砲でも持って来いだわ!
私の豹変振りに、彼だけでなく周りにいた人々も驚嘆していた。
でも、もうみんなに愛されなくても、嫌われても構わないと私は開き直っていた。だって、それが人間というものだとわかったからだ。
ところが、嫌われてもいいと思った途端、先の子爵令嬢を始めとして次々と友人ができたことは意外だった。
どうも私は皆さんにとって女神や天使みたいな存在になっていたようで、嫌っていたわけではなく、ただ近寄り難かったのだと言われた。
だから、先日怒りをあらわにして、公爵令息を叱りつけていた私を見て、人間なのだと初めて認識し、声をかけてくれるようになったらしい。
天使? 女神?
まさかそんな風に思われていたとは露知らず、私は羞恥心で居た堪れなくなった。とはいえ、ようやく友人ができたことは素直に嬉しく思った。
でも、まさかあの公爵令息まで、以前にも増して私にまとわりつくようになるとは思ってもみなかった。
ただ以前とは違って、いたずらをしたり、嫌がらせや、悪口を言ってくることはなくなったけれど。
何が目的なのか、飼い主から捨てられた仔犬のような目をして、私の周りをウロチョロするようになったのだ。
暫くして、公爵令息であるアルバート様は、中等部に入学した日に私に一目惚れをした、ということがわかった。
しかし、私にどう接していいかわからず、つい私の気を引きたくて意地悪していたという。
そんな馬鹿馬鹿しい話は信じられないと言うと、これまで彼をずっと遠巻きにしていた他の男子生徒達までが、なぜか今ごろになって彼をフォローし始めた。
好きな子を虐めてしまうのは、思春期の男がよくやることだから許してやってくれと。
普段からやり過ぎだとみんなも思っていたらしい。
でも、公爵令息に余計なことを言って面倒なことに巻きこまれたら嫌だと、彼に忠告ができなかったのだと謝ってきた。
しかし、そんなことを言われてもそう簡単に許せるわけがない。四年間もずっと嫌がらせをされ続けてきたのだから。
平気なつもりではいたけれど、やっはり心の奥底では辛い、悲しいと思っていたのだと思う。
今頃になって、彼の姿が目に入ってくる度に、今度は何をされるのか、言われるのかと体が固くなり、びくついてしまうのだから。
私を毛嫌いして無視していた元婚約者と、私を好きなのに、毎日つきまとって虐めや嫌がらせをしてきた同級生、どっちもどっちのような気がする。
だから今さらいくら謝罪されても、毎日花束や贈り物をもらっても、ただ迷惑なだけだ。私はそうはっきりと彼に告げた。
それに無駄遣いはもったいないのでやめて欲しいとも。
すると、金色の毛に覆われた大型犬の耳が、だらりと垂れ下がるのが見えた……ような気がした。
しかし彼に同情なんてしない。厚顔無恥も甚だしく我が家に婚約の申し込みをしてきたのだから。
そんなものを受けるはずがないじゃない。いくら謝られたってそう簡単にトラウマは消えない。
それに私には絶対に叶えたい夢ができたのだ。だから公爵夫人になどなるつもりはない。
その夢とは、シャロン=コロンド様のような立会人になることだった。
弱い立場の人が理不尽な目に遭わないように、俯瞰的に物事を見て、公平な立場でアドバイスする立会人に。
ところが、長いこと私に辛い婚約を強要してきた両親は、そのことを少しも反省していなかったらしく、再び娘の意志を無視してその申し出を受けようとした。
アルバート様は準王族という高貴な公爵家の嫡男であり、前の婚約者とは違い娘を溺愛してくれているのだから文句はないだろうと。
私が彼にもまた、長い間苦しめられてきたことなどは気に留めないで。
だから私は『今後は娘の将来に関する事柄には一切口を出さない』という誓約書を作り、立会人のシャロン=コロンド様の下で両親にサインをさせた。これでもう余計な口出しはされなくて済むだろう。
なぜ両親がそんな無茶苦茶な私の要求に応じたのかというと、私が自叙伝を出すと脅したからだ。
近頃女性による赤裸々な自叙伝が話題になっている。
その本には、いかに親や夫や子どもに抑圧され虐げられ暴力を受けているのかを、隠すことなく語られていて読者の涙を誘っている。
そしてその自叙伝シリーズの一部の熱烈な愛読者が、著者を苦しめている犯人を探し出す、というところまでがお決まりになっている。
当然著者が特定されれば、その女性を苦しめていた人物達もすぐに世間に知れ渡ることになるからだ。
そのため、著者は本が発売される前に出版社に匿ってもらい、原稿料を手にしたら、修道院へ逃げ込む手筈になっているという。
「私は今日家を出ます。そしてこれからは、妻でも母でも娘でもなく、ただの私として生きていきます。
私を今日まで虐げてきた人達にはもう二度と会うことはないでしょう。さようなら」
これがシリーズ本の後書きに必ず書かれている言葉だ。
そして、虐げられていた妻や娘や母親が実際にいなくなっていることで、話の真実味が増していく。
その結果、加害者達はどんな言い訳をしても信じてもらえなくなる。
そして彼らは世間からじわじわと追い詰められていくことになるのだ。最高の復讐だ。
もちろん、その告白の内容が事実かどうかをはしっかりと検証された上で発売されている。
作り話などで無実の人間を不幸にするわけにはいかないので。
「私達の天使のバネットが……」
天使だった娘が悪女になったと両親は大げさに嘆いたが、娘の人間性を奪って無理矢理天使にしてしまっていた反省はないらしい。
生憎私は人間なので、天使の振りをし続けて再び親の言いなりになるより、悪女と呼ばれた方がまだましだわ。
無理矢理にまた婚約者を充てがわれるなんて真っ平ごめんよ。
私は卒業したら自立して一人暮らしをするつもりなのだ。
八年間も辛い思いをさせたお詫びだからと言って頂いた、名画や宝石があるので生活費には当分困らないし。
でもね。本音を言えば、例の公爵令息が私の仕事を理解し、協力してくれるというのなら、結婚を考えてもいいかなと正直なところ思っている。
なにせ、すっかり天使ではなくなって悪女?になった私でも好きだと言ってくれるのだから。しかも、一度婚約解消した訳ありの私をね。
成人を迎えるまでには後二年近くあるので、彼と話し合って互いにすり合わせて、そこで妥協点を見つけられたら、可能性がないわけでもないと私は思う。
もちろん私のトラウマが消えて、彼に好感が持てればの話だけれど。
そんな私にばかり都合のいい未来が来るだなんて、本気で信じているわけではない。しかし、絶対に来ないと諦めているわけでもない。
絶対なんて言葉を使ったら他の選択肢を消してしまうってことを、今の私は理解しているから。
かつては曖昧なことを嫌っていた私だったけれど、あの婚約解消を受け入れてから、先の見えないあやふやな人生も案外面白いと思えるようになったのだった。
やがて私は学院をそこそこ優秀な成績で卒業した。
そして法学士という資格を持って、尊敬するシャロン=コロンド様の事務所で雇ってもらい、立会人見習いを始めた。
もちろん屋敷を出て、事務所近くのアパートメントの一部屋を借りて一人暮らしをしている。
最初は不安だったが、同じアパートメントに住む人達がみんな優しく親切な人ばかりで楽しく過ごしている。
まあしばらく経って、彼らは皆誰かさんに頼まれて私を見守ってくれているのだと、何となくわかったけれど、気付かない振りをしてる。
なぜわかったかって? だって全員品が良くて姿勢が良くて言葉使いが良すぎるんだもの、ばればれよね。
しかも一緒に買い物に行っても物の値段を全く知らなかったんだもの。彼らが平民じゃないのは一目瞭然だったわ。
あくどいお店の人にだまされそうになったところを、何度助けたかわかりゃあしないわ。
私は子供のころから孤児院の子供達と買い物に行っていたから、市井の相場くらい把握しているのだ。
そして卒業して二年ほど経った頃、私の周辺は突然慌ただしくなった。
というのも、あのアルバート様が王太子になったからだ。
なぜそんなことになったのかというと、国王の一人息子であった王太子が男爵令嬢と浮気をして、隣国の王女様から婚約破棄されたからだ。
なんと浮気をした元王太子は恋人を妃にするために、お后教育のために城に長期逗留していた王女様の有責で婚約破棄をしようと、様々な罠を仕掛けていたのだ。
しかし事前にそのことがバレたことで、相手側から婚約は破棄されたのだ。
当然隣国の国王の怒りは凄まじく廃嫡くらいではすまなかった。
その結果、国王は泣く泣く一人息子を廃嫡した上で、王族用の牢である北の塔に幽閉せざるを得なくなった。
隣国は軍事力で我が国をかなり上回っていたからだ。
その結果、新たに王位継承第一位になったのは王弟である公爵だった。
そしていずれ彼が王位の座に就くはずだったのだが、どうせすぐに世代交代することになるのだから、息子が王太子になった方がいいと主張した。
それを国王や宰相、高位貴族、議会までも賛同したことでアルバート様が王太子となったようだ。
あの元いじめっ子のアルバート様は、なんとかなり優秀な人間だったらしい。
そういえば、たしかに毎回試験では首位だったわねと、今さらながら思い出した。
しかし、あまりにも行動が幼稚だったので、そんな認識はなかった。
元婚約者のこともあり、いくら頭脳明晰でも本当に頭がいいとは限らないと思っていたしね。
ところが、この性格に問題ありだったアルバート様は、私に求婚するようになった頃から、まるで人が変わったように品行方正になっていた。それで世間の評価が爆上がりしたらしい。
元々金髪に濃紺の瞳を持つ美丈夫で、二つ年下の従弟である元王太子より王子らしいと陰では言われていたそうだ。
ところがだ。この人気急上昇中のアルバート様の私に対する執着は相変わらず凄まじかった。
なんと私以外のご令嬢を妃にするつもりは絶対にない、と公の場で宣言してしまったのだ。
そのせいで私は一躍時の人となってしまった。いい迷惑だわ。私は今必死に仕事を覚えている最中で結婚どころではないのに。
しかし、今、我が国は社会の変革期に入っているらしく、職業婦人の数も年々増え、それに伴って初婚の年齢も上昇している。
そして、元王太子のやらかしもあって、他国から厳しい目にさらされている。
そのためにこの国のイメージアップをはかるために、近代化を進めることにしたらしい。
その一環として、王室も改革することになったらしいのだが、職業婦人である私が王妃になることがとても望ましい(都合がいい)と宰相閣下は考えたようだ。彼からのプッシュが鬱陶しい。
シャロン様が恨めしい。
彼女がどうやらその陰の仕掛け人らしいので。
「バネット嬢、僕と結婚して欲しい。
貴女にはずっと嫌な思いをさせた挙げ句、長い間付きまとって本当に申し訳ないとは思っているんだ。
でも、僕には貴女しかいない。僕は馬鹿だけど貴女が望めばどんなことでも頑張れる気がするんだ。
公爵家を継ぐのさえ不安だったのに、思いがけずに王太子になんかなってしまった。不安で不安で仕方がない。
でも貴女に叱咤激励されたら、僕は逃げないで頑張れると思うんだ。だから僕を助けて欲しい。お願いだ」
プライドをかなぐり捨たアルバート王太子からの懇願に、さすがの私もグラッときてしまった。素直な物言いがついかわいいと思ってしまったのだ。
そして次の言葉でとうとう私は陥落してしまった。
「貴女が今の仕事に慣れるまで、あと数年なら結婚式を挙げるのを待つよ。だからせめて今、婚約だけでもしてくれないだろうか。
貴女が婚約者になってくれさえしたら、僕は一人でもなんとかやっていけると思うんだ。
それに貴女が仕事で得た経験は、王太子妃になってもきっと役に立つと思うんだ。
ううん、違うな。絶対に役立たせる。無駄になんかさせないよ。
だからどうかお願いします」
絶対という言葉は嫌いだった。絶対なんてありえないもの。でも、アルバート様の絶対はなんだか信じられる気がした。
だから、必死な顔をしたアルバート王太子殿下を前にして、私は思わず頷いてしまった。
「わかりました。千回目のプロポーズをお受けします」
と。
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