<2> 雪花と花天月地、状況の説明をうける
王宮の応接間に通された雪花と花天月地は、勧められるままにソファーに腰を下ろした。すると、続くように使用人たちが入ってきて、テーブルに紅茶や茶菓子を並べてセッティングしていく。
クッキー、フィナンシェ、マドレーヌにマカロン、そしてクリームたっぷりのケーキの数々――。
紅茶と菓子の香りが雪花と花天月地の鼻孔をくすぐった。さっそく花天月地がそわそわしだす。
「雪花、食べていいの?」
さっきまで雪花の腕にしがみついて不満そうな顔をしていた花天月地が、目を輝かせてテーブルと雪花を交互に見た。
聞かれた雪花は、クッキーを手に取って一口食べた。
「うん。問題ないね。食べていいよ」
雪花の声に、花天月地がすぐにクッキーを手に取ってサクサクとリスのように頬張る。
「雪花、これ美味しいね」
「この紅茶も問題ないよ。ミルクを入れるかい?」
次々と毒味をしていく雪花の後に続いて花天月地が同じものを口にする。その動作は手慣れているようだった。
「ずいぶんと慣れているんだね」
向かいのソファーに座っていたエリアース王太子が面白いものを見るように眺める。エリアースの背後には先ほど宰相と名乗ったクロードともう1人見慣れない男が訝しげにこちらを見ている。
テーブルの食べ物を一通り口にした雪花は、口角を上げた。しかし、その目は笑っていなかった。
「我と花天月地は、長い年月をともに過ごしたからね。まさか付喪神に毒を盛るなんてことはしないと思っているけど、ここは我たちの知らない世界だ。何が我たちの毒になるかわからないから念には念を、だよ」
「なるほど。それは賢明な考えだ」
雪花の言葉にエリアース王太子が深く頷いた。
「ところで、そのツクモガミとは何だ? 何かの職業かな」
疑問を投げかけられ、雪花と花天月地が手をとめて見合った。
「この人、付喪神を知らないんだって。変わっているわね」
「西洋ではそういう存在を知らないということもあるだろう。そうだな、強いて言えば、付喪神は付喪神だ」
雪花の雑な説明に困惑顔になるエリアースや宰相たちに花天月地が口を開いた。
「雪花はたまに雑になるの。付喪神はね、古い道具や武具や宝物が100年以上長い年月を経ると魂が宿って人の目にも見える姿に顕現するのよ。これでも神の末席に連なるんだから」
「アヤカシ……神、か」
「そうよ。雪花は1000年以上も前に打たれた刀の付喪神で、私は400年前の掛け軸の付喪神よ」
得意そうに花天月地が言う。黙って聞いていた雪花がニッコリと笑った。
「1000年前と400年前か……。我が国には物や植物などに宿る精霊や妖精はいるが、そのような存在なのだろうか」
「いえ、私たちの知る精霊や妖精はもっと本能的に生きていて、もっと自然に近いようなところがあります。この方たちは神と名乗っていますし、そちらの世界の神なのかもしれません」
後ろに控えていた男がぶつぶつと何か呟きながらエリアースに持論を話しだした。
「人でなく神を召喚したとは、これはフェルンホルム王国始まって以来、いえ、この世界初のことです。これは何かの吉兆なのかもしれません」
「ゴホンッゴホンッ、神官長、少し先走り過ぎですな」
クロード宰相が咳払いをして自分の考察に夢中になる神官長を諫めた。そこに花天月地が話しだす。
「私たちは道具や物の化身。あなたたちの言う精霊なのかもしれないわ。でも、もっと複雑。作り手の精魂込めた技、使われた素材の魂、そしてそれを使う者たちの想い、そのひとつひとつが長い年月積み重なってできた存在なの」
「なるほど。自然から派生している精霊とは違うようだな。やはりどちらかというと神寄りと考えた方がいいだろう」
そう言うと、エリアースは雪花の方を見てニッコリと笑みを浮かべた。
「神に連なる方々ということであれば、私はこの場に跪いた方がいいかな?」
「なっ、おやめください! あなたはフェルンホルム王国の神聖なるリンダール王家の嫡男であって、この国の王となるお方。異世界の神に膝をつくなどっ――」
今度はクロード宰相が慌てて声を上げると、エリアースが片手を挙げてそれを制した。その様子を見ていた雪花はひとつ息を吐いた。
「まあ、好きにするといいよ。言ったとおり、我たちは神の末席に連なる妖だ。敬うならそれも結構だが、そこの宰相のようにおまえのすることで我や花天月地を快く思わない者も出てくるだろう。そういう面倒はごめんだ。我にはそういう価値観はわからないし、付喪神は付喪神だ」
「わかった。では、これまで通りということでよいな。それで文句はないな、宰相」
「――はい」
クロード宰相は一礼して黙った。
ニッコリと優美に笑うエリアースに、胡散臭いものでも見るような目で雪花は一瞥した。
「おまえは曲者だな」
「褒め言葉として受け取っておこう。では、改めて自己紹介でもしようか。私はフェルンホルム王国王太子、エリアース・レクセル・リンダールだ。後ろに控えているのは、宰相のクロード・ジャン・ヴァルドゥアと神官長のアルベリク・フィルベール・バルリエだ」
エリアースが紹介すると、クロードとアルベリクが会釈をした。続いて雪花が口を開いた。
「先ほど花天月地が言ってしまったが、我は刀の付喪神、雪花だ。この子は掛け軸の付喪神の花天月地」
花天月地は雪花に紹介されると背筋を正して軽く頭を下げた。その所作は見た者が思わず見惚れてしまうほど優雅で洗練されていた。つい今し方までリスのように焼き菓子を頬張っていた幼女とは思えない変わり身だ。
花天月地の掛け軸は一時期新吉原の花魁の貢ぎ物として献上されていた時期があったという。そのときの花魁や禿の所作を見よう見真似で体得していた。ことのほか禿の姿は気に入っていた。
「雪花と花天月地、フェルンホルムへようこそ。また召喚に応じてくれて感謝する。言いたいことはわかるが、建前上そう言わせてくれ」
『応じる』という言葉に反応して思わず不服顔になった雪花と花天月地にエリアースが苦笑する。
「では、あなた方をなぜ召喚したのかを説明しよう」
そう言うと、エリアースに変わってクロード宰相が一歩前に出た。
「まずここフェルンホルム王国は、レイル大陸の西端を領土にした国です。大陸一の領土を誇るため、東部、西部、南部と気候も違いますが、比較的他の土地よりも温暖・湿潤な気候のおかげで農作物なども安定した――」
「クロード宰相、長い」
まるで地理の講義でも始まったかのように語り出したクロード宰相にエリアースが止めた。もう既に関心を失った花天月地が今度はケーキに手を伸ばしていた。
「うーん! 雪花、このケーキがとても美味しい」
「うん、いいクリームの味だね」
雪花も花天月地に続いてケーキを手にとり、手で持ったままパクついた。
「こらっ、ちゃんとフォークを使わないとダメでしょ」
「うん、花天月地はお行儀良く食べなさい。我は行儀悪く食べよう」
そう言って大きく口を開けて、残ったケーキを一口で食べてしまう。口の周りにクリームがたっぷり付いたのを指で掬って舐めながら、呆気にとられているクロード宰相の方を見た。
「あ、続きをどうぞ」
「ほら、もう少し簡略して話さないと、彼女たちが飽きてしまっているぞ」
「ですが、これは我が国について語るにあたってまだ序盤でして――いや、そうですね、長いですね。失礼いたしました。では、何故あなた方が召喚されるに至ったかの原因について説明を――」
雪花は、菓子を食べながらクロード宰相の話に耳を傾けた。
レイル大陸には古くからの言い伝えがあった。空間を隔てて別の次元が存在しているという――。
その隔たりは水と油のように表裏一体になっていて、1枚の皮程度の薄さのようでいて無限に広がる夜空ほどの距離があるとされている。
向こう側の世界はこちらの世界とは真逆であった。こちらが清浄な光に満ち溢れた世界であれば、向こう側は不浄で瘴気に満ちた薄闇の世界だという。
そんな世界でも生き物はいて、毒素を含んだ空気でも耐えられるよう肉体は変貌を遂げ、歪で不快な姿をしており、その性質は凶暴で好戦的であった。
向こう側の世界の生物は、いつでもこちら側の世界へ渡る隙を狙っている。一度『穴』が開けば、そこから瘴気と魔物たちが流れ出て世界の均衡は崩れることになる。
何の対処もしないまま放置した先には、こちら側の全ての生物が死に絶えた世界が待っているのだ。
それらに対抗できるのは、清らかな研ぎ澄まされた光の力を宿す乙女らである。
聖なる力を持つ乙女らが、世界の均衡を守る役目を担っている。
――とまあ、そんな感じの話かな。
雪花は、紅茶を飲みながらクロード宰相の話を自分なりにまとめてみた。
「――というわけで国ごとに聖女が必要とされ、その存在は稀有なため、聖女と認定された乙女には国の保護対象として丁重に扱われます」
「あの、宰相さん。質問なんだけど、その『穴』の発生条件は? 出現する場所は決まっているの?」
「発生条件は不明です。『穴』の出現ポイントに関しても不明な点が多く、一説では、暗闇が一番『穴』と直結しやすい場所だと言われていましたが、最近では、街中や日中の上空に発生したという報告もあります」
「聖女がいない場合はどう対処しているの?」
「他の国から聖女様をしばらくお借りすることになりますが、それもままならないときは王城と神殿の各管轄の魔道師団と騎士や兵で対処するしかありません。今はまだそれほど出現していないので被害は少ないですが、魔物と呼ばれる存在は、こちらの常識とは違うことも多く、その生態も不明な点も多いのです。聖女不在の戦いは、いずれ魔物たちに圧されて被害が甚大になるでしょう」
「なるほど……。で、この国では聖女が見つからなかったと」
「――はい。我が国で聖女は、60年ほど前を最後に見つかっていません。最近、『穴』の出現が増えてきており、悠長に探している場合ではないとのことで、国王と神殿側との話し合いで召喚の儀を執り行うこととなった次第です」
そこまで聞いて、花天月地が雪花の方を見上げた。雪花も花天月地の視線に気づき、見つめ返した。
花天月地が何を思ったか雪花にもわかっていた。
――そもそも『聖なる力』を持つ者とは何だろう。
雪花も宰相の話を聞いていて、何か腑に落ちない。
「話の腰を折るようで悪いが、そこでなぜ我と花天月地が召喚されたのかな。刀と掛け軸の付喪神にそんな力があるなんて聞いたことがない」
花天月地が何か言いたげな視線を向けてきたが、それをさり気なく制した。
雪花の謂われの中には魔を祓うという逸話も存在する。だが、雪花はそれをこの国の者にわざわざ知らせる気はなかった。それに、もし魔を祓う力が雪花にあったとしても、雪花は『聖女』ではない。そして花天月地にはそういう謂われはない。どちらも『聖女』としての条件が欠けているのだ。
雪花の疑問にエリアースが代わりに答えた。
「前の世界の理は、こちらの世界に召喚されたときに変化するらしい。全てが変わるわけではなく、ごく一部の能力が付与されると言えばいいのかな。こちらの世界の言葉で言えば、祝福というギフトを受け取るんだ。それはどんなものなのかは、召喚された者の特性やその時代の国の状況によって異なってくるらしく、何がギフトされたかは召喚者にしかわからない。ただ共通した能力としては翻訳機能があるらしいね」
「翻訳機能…ああ、なるほど。そういえば我たちは普通に会話していたね。これが翻訳機能なんだな」
「そうだね。私たちもあなた方の言葉が理解できている。というより同じ言語に聞こえているよ」
どういう仕組みかはわからないが、この世界に召喚されると必ず付与される能力らしい。いきなり知らない世界に来て、知らない言葉でコミュニケーションが成立しないなんて堪ったものではない。
「これは便利ね。私、もし会話が成立しなかったらちょっとキレてたかも」
「ふふ、花天月地、怖いねえ。この翻訳機能は理解した。だが、他の能力はまだわからないな」
「それはそのときがくればわかるとだけお伝えいたします。ですが、主に治癒や浄化に特化した能力であると思われます」
アルベリクがそう言うと、それに続いてクロードが言葉を添えた。
「これは歴代の聖女たちの能力から統計的にそうだろうと言われていることです。翻訳機能と同じで、聖女の能力で必ず発現した能力なのです。それに『穴』に対して唯一閉ざすことができるのが、聖女の浄化の力なのです」
雪花と花天月地は、再び視線を交わした。ギフトという力がどういうものかは大まかには理解できたが、付喪神である2人には妖術のようなものが使える。それは付喪神となる根源にもなっている『逸話』である。
花天月地は、月夜の桜の絵があまりに見事な出来だったため、たまに花が舞い散っているところや月が満ち欠けしているのを見た者がいるとか、茶室へ入ったはずなのに、桜満開の吉野山に迷い込んだ者がいたなどの逸話を持っている掛け軸だった。
そして、その逸話に影響を受けて、付喪神になったとき、絵の中に入ることができるようになった。
ただ絵の中は、時の流れが違うようで、現世よりもずっと遅い。一度人を入れてしまい、ほんの数刻いただけのはずが、現世に戻ったら10年は経っていたなんてことがあり、それ以来、生き物を絵の中に入れるのはやめたという。
付喪神にとっては身体が安らぐようで、雪花を含め、絵の中へ招かれるとみんな喜んで入っていた。
そして雪花は1000年以上前に打たれた刀であるためか、神話がかった逸話を持っている。
中でも名の由来になった逸話で、あまりの切れ味で刀を振るったときに、降っていた雪の雪花(結晶)をも2つに斬ったことからその名がついたというものがある。
また実戦刀としての刀の切れ味と見た目の優美さを兼ね備えていたため、人を魅了する刀とも言われていた。
歴代の所有者は名だたる将軍が多く、この刀欲しさに戦を起こしたとか、死んで墓まで持っていった将軍がいたが、それを知った敵将が墓を掘り起こして刀を持っていったという逸話もある。
雪花をも斬るその切れ味の良さに、魔を斬る(祓う)刀とされ、神社に奉納されていたこともあった。
実際、雪花がいるところの不浄は祓われる。人には気づかないことだが、刀とはそういう性質のものなのだ。なので、刀の性質が反転すれば魔を引き寄せ、所有者に不幸を招くのだ。
人は不浄を祓う物を好む。故に雪花は人を魅了する刀というのも間違いではないのだ。
だから雪花からはそういうことは一切口にしない。自ら口に出して人を惑わすのは好まない――というよりうんざりしていた。
ここで我の逸話を語れば、この者たちは喜んで我を奉り上げるのだろう。面倒はごめんだ。
花天月地がまだこちらを見ていたので、口元で笑みを浮かべた。
「どうしたんだい」
黙っている2人に気づいたエリアースが声をかけてきた。笑みを浮かべているが、その美しい青の瞳は笑っていなかった。こちらの様子を探るようにジッと見据えている。
「いや、おかしな話だなと思ったまでだ。我たちは人に在らず付喪神だ。それにその『聖女』とは2体も必要なことなのかとね」
「それはこちらも想定外のことでね。すぐに答えてあげられないのは心苦しいところだ。これまで召喚される者は1人だったからな。だが、過去の記録には、犬や猫などの動物とともにやって来た聖女もいる。召喚とは、魔法ではあるが、世界を跨ぐという神の領域に踏み込んだ術式だ。そこに本当の神が介入しているという可能性も否定はできない。要は、我々も困惑しているんだよ」
そう言ってエリアースは苦笑した。
「そこはこれ以上追求しようがないということか。まあ、いい。それは後でわかったら教えてくれ。それでその『穴』や瘴気や魔物たちを祓えば我たちは御役御免になれるのかな」
「私は今すぐにでも御所に帰りたい!」
花天月地が間髪入れずに声を上げた。雪花の袖を掴んでいる手に力が入っている。花天月地は変化を好まない性質だ。何の前触れも無く見知らぬ世界に連れてこられたことを本当に嫌がっている。
雪花はそっと花天月地の小さな白い手に自分の手を添えて優しく握った。
「花天月地、きっとそれはムリのようだ」
「雪花ぁ……」
泣きそうに瞳を潤ませる花天月地を見ていたクロードが、申し訳なさそうに眉間に皺を寄せた。
「大変申し上げにくいのですが、召喚された聖女たちが元の世界に戻ることはありませんでした」
クロードの言い方に雪花は思わず目が据わった。
「つまり、元に戻れない、と」
「申し訳ないと思っています。ですが、これもこの国を守るため、世界を守るためなのです。どうかご理解いただきたく――」
雪花は気に入らなかった。戻る術も知らずに他の世界から強引に引き込んでいるのに、エリアース含め、ここにいる3人の男たちからは、本当に申し訳ないという感情の揺らぎがない。淡々とこなしているようにしか見えないのだ。
――なんとも不愉快だ。
「申し訳ないと言っている割には、顔がそう言っていないな。国を守る、世界を守ると言えば道理が通るとでも思っているのか」
雪花は頬笑んでいた。しかし、その金色の瞳は冷たく輝き、瞳孔が細く締まったように見える。人とは違う冷たい刃のような気配を纏った雪花に、クロードとアルベリクはひゅっと息を吸って固まった。
ただ1人エリアースだけは、雪花の気配に気圧されず、口元だけにわかに笑みを残していた。
「確かにそうだな。元いた世界に戻す術がまだない状況で召喚している我々は、もっと聖女の気持ちにも寄り添ってあげないといけなかった。私はそれを事欠いてしまっていたようだ」
そう言うとエリアースは席を立ち、雪花と花天月地の前に跪いた。
「エリアース王太子殿下!」
驚き声を上げたクロードは、敢えて『王太子殿下』を強調するように言った。それはエリアースがこの国のトップである王族だと雪花たちに知らしめる意味もあったのだろう。だが、雪花は表情を変えなかった。クロードの焦った様子にエリアースは手で制した。
「私は、あなた方に敬意を払うことを約束する。あなた方を道具のように扱わないし、できうる限りの自由も約束しよう。そして、元の世界に戻る術を引き続き探し、聖女の役割を担ってくれるならばそれが終わり次第あなた方を返すと誓おう。――わが国の神……にではなく、雪花、あなたに誓う」
エリアースは優美な所作で左手は胸にあて、右手を雪花に差し出した。騎士や貴族が行う誓いの所作で、手を差し出した相手へ己の心臓を捧げるという意味でもあった。その手を取れば、エリアースは雪花のために約束を必ず果たさなければならない。エリアースの行動に、宰相と神官長は固まった。だが、それを制することはせず、黙って見守る。
雪花は動かなかった。ただエリアースの真意を探るようにジッと金色の瞳で見つめていた。
エリアースは、差し出した手をそのままに雪花の答えを待った。柔らかな表情をしているが、にわかに手や目元に震えが生じていた。それをできうる限り押し隠して雪花からの許しをただ待っていた。
――しばらくの沈黙の後、雪花がため息をついて気配を散らした。金色の瞳の中の瞳孔も普通に戻っている。
「わかった。エリアースと言ったか。おまえにそのことは任せる。空約束でないことだけは理解した」
「手は取ってくれないのか?」
「そういう作法は知らん。花天月地、そういうことだから、しばし我慢しておくれ」
疲れたというようにソファの背もたれに倒れ込んだ雪花に、花天月地は頬を膨らませてエリアースの伸ばしていた手を叩いた。
「雪花が言うから我慢するのよ。でなければ、絶対に許してなんてあげないんだから」
そう言ってそっぽを向く花天月地にエリアースが苦笑する。そして、また自分の席に戻ると、ひと息ついて再び話しだした。
「本当に悪気はなかったんだが、配慮に欠けていたことは認めるよ。だが、ここで変な期待を持たせたくもなかった……いや、私自身そのことを事務的に考えていた。だからクロードたちも倣ってそう対応してしまったんだ。許せ」
「それはもういい。ここで怒ったところで帰れるわけでもないし、これからのことも考えて少しばかり威嚇しただけだ」
「威嚇……ですか」
クロードが渋い顔をした。アルベリクもなんとも言えない顔をしている。
「少しばかりであの威圧だ。これからもそれが王家に、ましてや国に向けられないよう注意しよう。少なくとも私はあなたの味方だ」
そう言って笑みを浮かべるエリアースに雪花も笑みで返した。エリアースは少し視線を逸らし、言いにくそうに再び話しだす。
「これまで召喚された聖女は、この国の王族か王族に準ずる者、ないし近しい家柄の者と婚姻を結んでいるので、召喚の儀の前に、召喚される聖女と私が婚姻するのだと聞かされていてね。これも儀式の流れだと、自分に言い聞かせていたんだ。どのような者が現れるかもわからない、とつい事務的に気持ちを整理してしまった」
その言葉に雪花は飲みかけていた紅茶を思わず吹き出しそうになった。そんな雪花にエリアースは苦笑する。
「これは私の本音だ。私は国のために聖女を召喚することは仕方のないことなのだと理解している。しかし、召喚は相手の意志を無視した非人道的な行いだとも思っている。そして、聖女を娶ることは、政治的見地からも保護するという意味合いで受け入れているつもりだ」
「これはこれは、ずいぶん雑な受け入れられ方をしていたものだ。ところで聖女を娶るというが、おまえは幼女趣味でもあるのか?」
「幼女趣味はないが、なぜかな」
「いや、花天月地は人ではないが、見た目は10歳くらいの幼女だぞ。それに成長はしないと思うから、おまえが老けても幼女のままだ」
「私をよそに話を進めないでちょうだい。私にだって選ぶ権利はあるのよ」
「おや、振られてしまったね、エリアース王太子殿下よ」
からかうように言う雪花に、エリアースはニッコリを笑みを浮かべた。
「確かに、彼女はまだ幼い。私は幼女趣味はないから心配しなくてもいいよ」
「では――」
雪花の疑問にエリアースが先に手を差し出した。
「聖女は1人ではない。あなたもその1人では?」
エリアースの言葉に雪花は驚いたように目を見開いた。花天月地は、面白いものでも見るように雪花とエリアースを交互に眺めた。
「雪花、雪花――」
「うん、わかっているよ、花天月地。エリアースよ、我は付喪神であって人に在らず。聖女でもないぞ」
背筋を伸ばし、組んだ足の上で手を組んだまま、雪花はエリアースを見つめた。「今はギフトが何かもわからないし、聖女がどちらか1人なのか2人ともなのかもわからない。召喚の儀で喚ばれたのは確かにあなた方で間違いはないが、結論は急がず、今はお互いを知るところから始めよう。部屋は用意してあるから、今日はゆっくりと休んでくれ。明日、まずは城内を案内しよう」
エリアースは、クロードに部屋へ案内するように伝え、部屋を出ていった。その有無も言わさない行動に思わず花天月地が呟いた。
「あの人、強引に話を締めちゃったね」
アルベリク神官長も退出し、クロード宰相はドアのそばで侍女と話をしている。花天月地はテーブルに残った菓子に手を伸ばし、マカロンを頬張った。
「この世界にいなくちゃいけないなら、この甘味をたっぷり味わうことにするわ。ここのお菓子は奉納されたことのないものばかりで美味しい」
「そうだね、元の世界に帰れるまでのしばらくの間、こちらの世界を楽しもうか。なんか面白いことになりそうな予感しかしないよ」
そう言って雪花は口角を上げた。