裁判放浪記
1
ネタ取って来いったって、ネタの取り方教わってねえよ……。
市原新聞の若手記者、松戸真亜久は六年間、運動部でスポーツ担当として高校野球などを取材してきたが、この秋、事件・事故を取材する社会部への異動を命じられた。
運動部ではいつもTシャツ短パン姿だったから、スーツは入社当時に着ていたリクルートスーツしかない。だから、リクルートスーツ姿でパソコンとデジタルカメラを入れたリュックを背負い、毎日決まった時間に出社する。畑違いで何をすれば良いのかがまったく分からないというのに、社会部の先輩記者たちはただ忙しそうにあちこちを飛び回り、松戸には何も教えてくれない。だから松戸は、会社ではただ自分の席に座って黙ってネットサーフィンをして過ごしていた。そのまま二カ月間、取材にも行かず、原稿も一本も出していなかったものだから、ついに先輩の諏訪記者がキレた。
「座ってネタが取れる記者がどこにいる! さっさと外へ出て、何でもいいからネタ取って来い!」
編集局には他に社員もいたというのに、一方的に怒鳴りつけられた。これは完全にパワハラだと思った松戸だったが、あまりにとっさのことで、ポケットのICレコーダーの電源を入れられなかった。
電源さえ入れられていればこの野郎、どっかに飛ばせたのに……。
松戸はそう考えながら、スチールカメラを持って渋々暖かい編集局を出て、寒風吹きすさぶ街へと繰り出した。
「寒っ。何だよ、どこ行きゃあいいのか分かんねえよ」
松戸はあと何時間外にいれば勤務時間が終わるのかと思い、ポケットからスマートフォンを出して時間を確認した。
午後三時。正規の勤務時間が午前十時から午後七時までだから、あと四時間もあった。
松戸はスマホのアプリを立ち上げ、運動部時代に仲良くなった金川新聞の同期、川崎にメールを送った。
〈社会部でネタ取れって言われたけど、どうすんの?〉
すると、川崎からすぐに返信があった。
〈社会部でネタ?〉
〈あの会社、どうやってネタ取んのかとか、ぜんぜん教えてくれねえんだけど〉
〈そりゃうちも一緒。先輩の背中を見て学べって〉
〈そういう精神論じゃなくて、具体的にどこに行きゃいいのかとか、何を話せばいいのかなんだけど〉
〈おれ、運動部だから分かんねえよ〉
〈分かんねえじゃなくて〉
〈運動部ん時と一緒でいいんじゃね? お前が運動部から異動したってのはみんな分かってんだから〉
〈運動部と一緒かよ〉
松戸は川崎にアドバイスをもらうことはあきらめた。
松戸と川崎は、国が進めながら自ら失敗を認めるかのように廃止した、いわゆる『ゆとり教育』世代だった。学校では詰め込み教育をやめ、子どもの自主性を重んじた教育が施され、その結果、ただ過保護に育ち、過剰な権利意識に凝り固まった子どもが増えた。学校にいればそれで良かったのだが、社会に出てみると通用しなかった。社会からは、他の世代よりも学力の低い世代だとみなされていたから見下された。『門前の小僧習わぬ経を読む』。先輩記者はただ仕事をしていればいい、意欲にあふれる新人記者は勝手に先輩を見て学ぶという思想も脈々と生きていたから、誰も懇切丁寧に、それこそ過保護に仕事の仕方を教えてはくれなかった。
「どこに行って何をしろって言わなきゃ、分かんねえだろうが」
松戸はぶつぶつとつぶやきながら、あてもなく官公庁街を歩いた。
ネタを探そうと辺りを見回してみても、街はいつもと何一つ変わらぬ街でしかない。ネタが取れないのは自分のせいじゃない。ネタの取り方を教えてくれない会社の体制に問題がある。そう考えると、松戸にはもはや、ネタを足を使って探そうなどという気はなくなっていた。
ふと見上げると、目の前に市原地方裁判所の大きな建物があった。
裁判所か……。裁判記事はよくニュースでやってるな。ここなら毎日裁判やってっから、適当なのに出て、それ書きゃあいいか……。
松戸は裁判取材はしたことがなかったが、裁判の原稿は書き方が決まっているから楽そうだし、とにかく寒かったこともあったので、とりあえず裁判所の建物の中に入った。
勝手が分からなかったので、一階の受付のようなところに行ってみると、受付のおじさんが、
「傍聴ですか?」
と聞いてきた。
「あ、はい」
「どちらの事件ですか?」
「あ、いえ……。ちょっと取材で……」
「あ、記者さん? 何号法廷か分からないようでしたら、お調べしますよ?」
受付のおじさんがそう言って、受付の机の上に置いてあったファイルを広げようとした。このファイルはきっと、一般の人たちが自由に閲覧することができるものだとすぐに分かった松戸は、目的の法廷など初めからないのを悟られたくなかったので、
「あ、自分で調べます」
と言って、ファイルを自分の手元に引き寄せてパラパラとめくり出した。
ファイルは期日簿で、裁判が開かれる時間と法廷番号、被告人の名前、罪名などが、学校の時間割のようにびっしりと書かれていた。
当然、目当ての裁判もなければ、被告人の名前と罪名だけでどんな事件だったのかすら分からなかったが、松戸は受付のおじさんの手前、
「あ、あった、あった。七二〇号法廷だ」
と、さも目当ての裁判はこれだったという感じで言い、ファイルを閉じてエレベーターに向かおうとした。すると、受付のおじさんが突然、
「あ、記者さん、記者さん。カメラ、カメラ」
と言って松戸を呼び止め、松戸のカメラを預かって、厚紙に「1」と書かれた引換券を手渡した。どうやら電子機器は持ち込み禁止らしいと理解した松戸は、ここでも知らなかったことを悟られまいと、
「あ、すいません。ついうっかり」
などと装った。
七階に上がると、一番奥に七二〇号法廷があった。壁の開廷表を見ると、ちょうど五分後に初公判が始まるらしい。被告人の名前は「村山享」、罪名は「傷害」となっていた。
弁護士の男性がツカツカと近寄ってきたかと思うと、扉に付いていた小さな板を上げて顔を近付けた。そのまま松戸に気を留めることなく、ドアノブに手をかけて扉を開け中に入った。松戸もそれにならって板を上げると、そこは小窓になっていて、中の様子が外から見えるようになっていた。どうやら、開廷中の扉の開け閉めはマナー違反らしい。
中に入ると、映画やドラマで観るのとは違う、狭い法廷だった。傍聴席はたった二列しかなく、十人も入ればいっぱいだが、すべて空席だった。
テレビでよく観る記者席があるはずだと思った松戸は、柵の向こうにいた法衣を着た男性に、
「あの、記者席ってどこですか?」
と聞いた。開廷直前で忙しそうに動いていた男性は、怪訝そうな表情で松戸をにらむと、
「本法廷で記者席の申請はありませんが」
と切り捨てた。記者席は申請しないといけないらしい。
松戸は仕方なく、傍聴席の後列中央に座った。先刻の弁護士はすでに柵の向こうの上手側に座っていた。すると傍聴席の扉が開き、小さな風呂敷包みを持った女性が入って来て、下手側に座った。どうやら検事らしい。弁護士の後方の扉から、手錠と腰縄につながれた被告人が入って来た。被告人の解錠が終わると裁判官が入って来て、全員が起立して礼をした。本来は傍聴人も礼をするのが礼儀だが、そんなことを教わっていない松戸は、誰もいない傍聴席で座ったまま、その様子をながめた。
裁判官が開廷を宣言して被告人が「村山享」であることを確認すると、今度は検事の女性が立ち上がり、もの凄い早口で手に持った紙を読み上げ始めた。
「公訴事実。被告人は令和三年五月二日午後七時二十分ころ、千葉県市原市五井新田二丁目五番五号共同アパート前路上において、村山久美(当時三十歳)に対し、カッターナイフで左上腕部を切り付け、よって同人に全治二週間を要する左上腕部切創の傷害を負わせたものである。罪名及び罰条。傷害。刑法第二〇四条」
どうやら、村山享が女性をカッターで切り付けたという事件だということは分かったが、松戸には早口すぎてほとんど聞き取ることができなかった。被害者が同じ名字だというのは聞こえたが、それが妻なのかきょうだいなのか、偶然名字が同じだっただけなのかも判断がつかなかった。
何言ってっか全然分かんねえよ……。
すると今度は、被告人が何か小さな声でボソボソっとつぶやいた。裁判官に罪状認否を求められたのだが、その声も松戸には聞き取れない。
こんなの、ノートに書くなんて無理だろ……。
そう考えた松戸は、スーツの内ポケットからICレコーダーを取り出してスイッチを入れた。
ピピッという電子音が法廷内に響いた。
その瞬間、裁判官が立ち上がり、松戸を指差して、
「法廷内での電子機器の使用は禁止です。退廷を命じます」
と宣言した。
何が悪かったのか分からなかった松戸は、どうせ誰が何を言っているのか分からない裁判なんかどうでもいいや、などと考え、大人しく法廷の外に出た。
バツが悪くなった松戸は、そのまま隣の法廷に入り、傍聴席の隅っこで傍聴しているふりをしながら仮眠を取って、この日の終業時間までを過ごした。
何かネタを取って記事を書くとしたらこれしかない。そう考えた松戸は、次の日もまた次の日も、裁判所に通った。速記ができず、原稿は一本も出せなかったが、それでも一週間も傍聴していると、どうやら裁判には決まった流れがあることに気付いた。
起訴状の朗読の後は被告人の罪状認否、検察側の冒頭陳述、弁護側の冒頭陳述、証人尋問、被告人質問、検察側の論告・求刑、弁護側の最終弁論が行われると結審する。最後が裁判官の判決だ。
これが分かっただけで、松戸は法廷で誰が何を言っているのかが少しづつ理解できるようになっていった。ただ、いかんせん速記の技術がなかったので、法廷での発言を一言一句、ノートに書き出すことはできなかったが、こうした練習を繰り返しているうちに、大事な発言さえ聞き取れていれば、記事としては何とかなるんじゃないかという気もしてきた。
「誰にも教わらなくてもできるんだから、おれって天才だな」
まだ記事としては一行も書いていなかったのだが、松戸は自分の取材能力の高さを自画自賛した。
そして、いつものように裁判所の受付に行き、パラパラと期日簿をめくっていると、被告人の欄に見覚えのある名前があった。
「和田武」。松戸が社会部に配属された初日、先輩の諏訪記者に取材を命じられた傷害致死事件の容疑者だった。当時、右も左も分からなかった松戸は、諏訪に「とにかく早く電話しろ」と言われ、わけも分からず管轄の警察署に電話した。ファクスで送られてきた報道発表文を見ながら電話取材するのだが、何を聞いていいのか分からず、相手の副署長の話が終わったら電話を切り、見よう見まねで記事を書いた。書いては諏訪にどやされ、また警察署に電話をする。それを何度も繰り返すから、毎回毎回諏訪にどやされ、副署長にも嫌味を言われと、とんでもない目に遭った。そうやって一日かけて苦労して書いた記事は、結局諏訪にボツにされた。これほどの理不尽がパワハラでなくて何なんだという当時の思いが蘇った松戸だったが、裁判が分かりかけてきたところに知っている事件があったことで、どこか自分がプロになったような気もした。
松戸は、「和田武」の事件を、初めての裁判記事にしてみようと決めた。
「和田さん。あなた、職業は『無職』となっていますが、こちらでは『市原丹羽会の構成員』とうかがってます。それでよろしいですね?」
初公判が開廷すると、弓取という裁判官が被告人席の和田武に聞いた。
諏訪が松戸の原稿をボツにした理由はこれだった。事件は、暴力団員の和田が別の暴力団員の丸山光という男を殴って死なせたというものだったから、諏訪は、一般人が巻き込まれたわけではない、ヤクザはケンカする生き物だ、単なるヤクザ者同士のケンカなど記事にならないと切り捨てた。松戸は当時、先輩の諏訪に「それなら初めから取材する必要がなかったじゃないか」と噛み付いたが、諏訪には、「取材はお前の勉強のためだ」と言われた。丸一日使って、まったく無駄な仕事をさせられた。松戸はこの時から、諏訪に命じられた理不尽な仕事をすべて、ノートに書き留めておくようにした。いつかこの『パワハラノート』を使って、この理不尽な上司をパワハラで訴えるためだ。
しかし、法廷を見渡せば、諏訪が言うように単なるヤクザ者同士のケンカに世間の興味はないのだろう、傍聴席には松戸以外誰も座っていなかった。
肩パットの入った白と黒の縦じまのスーツに色の薄いサングラス姿の和田は裁判官に問われ、声を発せずにただうなずいた。
検察官がゆっくりと起訴状を読み上げると、裁判官が和田に、
「検察官が今読み上げた内容に間違いはありませんか?」
と聞いた。和田はまたうなずくと、今度は和田の弁護士が立ち上がり、
「争いはありません」
と言った。起訴状に書かれた犯罪事実に争いがないと分かると、裁判はとんとん拍子に進んでいった。
検察側の冒頭陳述は、ほとんど起訴状と同じような内容で、身上経歴を加えてもあっという間に終わった。速記のできない松戸でも、事件自体を事前に知っていたこともあり、起訴状部分はほぼ完全にメモすることができた。警察発表当時、犯行現場は「市原市内の路上」としか聞いていなかったが、その「路上」というのが、「市原市中央五丁目三番二号、居酒屋『みんみん』の店舗前の路上」であるということまで書き取ることができた。
弁護側に冒頭陳述はなく、証人尋問も行われないまま、被告人質問に入った。
「被害者の丸山さんが、あなたと対立する昌光会の組員だということは知っていましたか?」
「……あい」
「居酒屋で口論となり、あなたが丸山さんに向かって『表へ出ろ』と言ったんですね?」
「……あい」
「あなたは右の拳で丸山さんの左ほほの辺りを殴って、倒れた丸山さんは後頭部をアスファルトに打ちつけた。それに間違いありませんね?」
「……あい」
人一人を殺した人間が発言する。松戸は少し緊張したが、検察側の質問はこれまでの捜査で得た証拠をただ確認するだけで、和田はそれをただ淡々と認めていくだけだった。
松戸は、弁護側の質問ならもう少し具体的なことを話すのではないかと期待したが、弁護側はただ殺すつもりはなかったのか、反省しているかを確認しただけで、和田はほとんど発言をしないまま終了した。
すると、裁判官が申し訳程度にという感じで、最後に質問を始めた。
「あなたは先ほど、弁護人の質問で反省していると認めていましたが、本当に反省していますか?」
「……あい」
「あなたはもう二度と、こんなことはしないと誓えますか?」
「……あい」
「反省しているのであれば、出所後はちゃんと更正して、組から足を洗うことはできますか?」
「……」
和田が初めて黙り込んだ。
「和田さん。足を洗うことはできますか?」
裁判官がもう一度聞いた。
「……」
「答えられませんか?」
裁判官が発言を迫ると、今までイスの背もたれに踏ん反り返っていた和田は体を起こし、
「先生、あっしはヤクザですぜ?」
と言った。それでも裁判官は、
「ええ、分かっています。足を洗えませんか?」
と食い下がった。
「先生。ヤクザに反省して足洗えって、そりゃあ無理がありますわ」
「と言うと、出所しても足は洗わないということですね?」
「あっしは、ムショに入る覚悟はいつでもできてますぜ」
「そうですか。足、洗えませんか……」
ヤクザが刑務所に入って箔をつけるなんて、誰でも知っている。松戸は、和田の言うことの方がもっともだと思った。同時に、刑事ドラマか何かでチンピラが人を殺した親分の身代わりとなって逮捕されて刑務所に入るという話を観たことも思い出した。
自ら名乗り出て他人の罪を被ることは立派な冤罪だ。
この場合はこの和田がチンピラで、真犯人は別にいるんじゃないか。松戸は何の根拠もなくそう思うと、あまりにも淡々と進むこの法廷自体、かなり怪しいんじゃないかと思いはじめた。
法廷はこの後、検察側が論告を行って懲役七年を求刑。弁護側は「寛大な判決を」などと主張して即日結審した。
人一人が死んでるというのに、こんなにもあっさりと……。
松戸がそう考えて首をかしげる間もなく、裁判官が閉廷を告げると、松戸以外の全員がその場に起立し、冒頭と同じように礼をして法廷を出て行った。
刑務官に再び手錠と腰なわをかけられた和田が、ふと松戸の方を見て、ニヤリと笑った。
松戸は、初めて犯罪者と目が合い、少し怖くなったが、頭からは『冤罪』の二文字が消えなかった。
2
夕方になり松戸が編集局に戻ると、社会部には社会部長はじめキャップもほかの部員も誰もいなかった。発生した事件・事故への対応で県内各地を駆け回ったり、ネタを拾いに県警本部や地検を回ったりと忙しいから、こんな時間帯に本社でふらふらしているような社会部記者はいない。松戸は誰もいないことをこれ幸いとばかりに、結審したばかりの和田武の裁判原稿を書くことにした。
まずはパソコンを開き、データベースに『傷害致死』、『求刑』と入力し、今回の事件と似たような事件の原稿を検索した。するとすぐに、『会社員男に懲役七年求刑』という見出しの原稿が出てきた。松戸はそれをコピーして、自分の原稿執筆用ソフトの原稿用紙に貼りつけた。過去の掲載原稿の日付と名前を変えれば、簡単に今回の事件の原稿になるのだ。
〈暴力団員に懲役七年求刑
市原市で九月、暴力団員の男性が別の暴力団員の男に殴られ死亡した事件で、傷害致死罪に問われた市原市五所川原、無職で指定暴力団市原丹羽会組員、和田武被告(三二)の初公判が四日、市原地裁(弓取月裁判官)で開かれ、検察側は「危険で悪質な犯行」として懲役七年を求刑した。
起訴状によると、和田被告は九月一日午後八時二十分ごろ、市原市内の路上で、昌光会組員、丸山光さん(当時二八)の左ほほを右拳で殴ってけがを負わせ、倒れた丸山さんは路上に後頭部を打ちつけ、急性くも膜下血腫により死亡させたなどとしている。〉
土台ができていただけあって、松戸にしてはさほど時間もかからず原稿を書き上げた。
原稿を印刷して見ていると、地検に行っていた諏訪が帰社してきた。
「松戸、いたのか。どうだ、きょうこそ何かネタ取って来たのか?」
松戸は意気揚々と「あ、はい。裁判で一本書きました」と言って、書き上がったばかりの原稿を手渡した。
ネタを取って来た上、原稿まで完成しているのだ。松戸は褒められるとばかり思っていたが、原稿に目を通した諏訪は一瞬で顔を曇らせたかと思うと、原稿をぐしゃぐしゃに丸めて松戸に投げつけ、
「てめえ! この事件は発生した時に記事にならねえって言っただろうが!」
と、松戸を怒鳴りつけた。
「え? で、でも、傷害致死で七年求刑ってのは、前にも記事にしてるじゃないですか」
松戸はコピー元となった原稿のことを言って反論したが、諏訪は、
「バカ野郎! ヤクザがケンカするのは当たり前だ! そんなもんがニュースになるか!」
と一蹴した。それでも松戸は、きょう一日の自分の行動を無駄にしたくないと、
「で、でも、せっかく書いたんですから……」
と食い下がった。
「何だと? てめえがせっかく書いたんだから載せろってのか? てめえ、何様のつもりだ! 新聞はてめえのもんか? 新聞はなあ、ニュースになるもんしか載せねえんだよ!」
火に油を注ぐ結果だった。諏訪は間髪入れずに松戸を畳みかけたかと思うと、「この役立たずが!」と捨て台詞を吐いて、忙しそうに自席に座って自分の仕事を始めた。
何なんだよ、コイツ。じゃあ、どうすりゃ良いか、ちゃんと教えろよ……。
松戸は心の声をぶつぶつと外に漏らしながら、床に転がっていたぐしゃぐしゃの自分の原稿を拾うと、自分の席に戻って『パワハラノート』を開いた。
〈11月4日午後5時15分 諏訪
自分が執筆した裁判原稿を丸めて投げつけられた。「てめえ」、「バカ野郎」と言われた。社会部長に掲載するかどうかの確認もせずに、原稿をボツにされた。「役立たず」と言われた。音声なし〉
『パワハラノート』にしっかりと書き込んだ。松戸は、きょうは裁判所に行っていたからICレコーダーを携帯していなかったので、諏訪のパワハラ音声をとっさに録音できなかったことを悔やんだ。
せっかく書いた原稿をボツにさせられると、松戸は定時の七時まで何もやることがなくなった。ここにただ座っているのもいいが、正面に座る諏訪の顔が見えるのも嫌だ。そう思った松戸は、『パワハラノート』をカギのかかる机の引き出しにしまうと、裁判用のノートを持ち、「取材に行ってきます」と嘘を言って社外に出て行った。
諏訪は、松戸の後ろ姿を一瞥すると「チッ」と舌打ちしただけで何も言わず、どこへ行くのかすら聞かなかった。
松戸はただ何となく、いつものように裁判所へと向かったが、この日の法廷をすべて終えていた裁判所は当然、閉められていて、入ることができなかった。
ほかに行くところもなかった松戸は、仕方なく正門前の喫茶店に入った。裁判所の周囲には、弁護士が依頼人と打ち合わせをしたりするための喫茶店が多くあった。
コーヒーを注文してスマートフォンのゲームでもやって時間をつぶそうと思った松戸は、ふと、たまたま持ってきてしまった裁判用のノートをパラパラとめくった。ノートには、つい先刻まで傍聴していた和田武の公判メモが、自分の汚い字で書き連ねられていた。
「何だよこれ。自分で読めねえじゃねえか……」
生まれた時からパソコンもスマートフォンもあり、学校ではタブレット端末が支給された。ペンを持って文字を書くという経験がほとんどなかった松戸の文字は、書き順はめちゃくちゃ、漢字もほとんど使われないどころか、たまに使った漢字も間違えている有り様で、とても新聞記者、いや、社会人とは思えないレベルだった。
〈危検でアクシツ ハンコー〉
前後は解読不能だったが、原稿に使った検察側の論告のこの部分は、漢字は間違ってはいたがはっきりと解読できた。
ページをさかのぼって見ていくと、一問一答形式の被告人質問の部分は酷かった。〈居ザカや コーロン ですか?〉だの〈ヤクザ 足のカクゴ〉だの、辛うじて文字が確認できる部分ですらメモが取り切れていないのが明らかだった。すぐに開廷直後のページが出てきた。まだメモをする手が疲れていなかったのだろう。検事も始まったばかりだったからゆっくり読んでくれたということもあったが、起訴状の部分だけは割ときれいに書き取れていた。
松戸は、〈市原市中央5-3-2、イザカヤミンミン前ろ上〉と書かれた部分を見た。
せっかく完全に書き取れたのに、原稿で使えねえんだもんな、これ……。
当事者とは関係のない第三者の居酒屋だから、記事に出せば店に迷惑が掛かる。だから原稿では端折った部分だったが、松戸はせっかく書き取れたのにもったいないなどと思った。
松戸は、運ばれて来たコーヒーを飲みながら、何となくスマートフォンで住所を検索した。居酒屋みんみんは、この喫茶店から繁華街に向かって徒歩十分と表示された。営業時間は夜の部が午後五時三十分からとある。喫茶店の壁時計を見ると、午後五時五十分となっていた。
近いんだな。ちょうどやってるし、ヤクザがどんな店で飲むのか見てみるか……。
勤務時間終了までまだ一時間ほどあった松戸は、野次馬根性丸出しで、居酒屋みんみんに行ってみることにした。
ヤクザというから、どんな高級店か料亭かと思っていたら、店は真っ赤なビニール製の看板にガラス扉と、いわゆる〝街中華〟のたたずまいだった。看板をよく見ると、白い字で『中華料理 岷岷』と書かれていた。
あれ、中華料理? 『居酒屋みんみん』じゃないのか……?
松戸は、もしかしたら姉妹店か何かがあるんじゃないかと思って、中華料理岷岷の周辺を見回したが、どこにも居酒屋みんみんは見つからなかった。店の目の前の電柱は、しっかりと『市原市中央5-3』となっていた。
住所は合ってる……。じゃあ、検察が居酒屋と中華料理を間違ってたってことか……?
松戸が店の目の前で首をひねっていると、中から店主らしきコック服を着た老人が出て来て、「どうぞ」と言ってガラス扉を開けた。
不意を突かれたような格好になった松戸はつい、「あ、はい」と言ってしまい、招かれるがまま店内に入った。
看板と同じ真っ赤なカウンターに緑色の丸イスのテーブル席が二つ。どう見ても中華料理店だ。客は一人もいなかったので、松戸は奥のテーブル席に座った。
すると、すぐに老人がコップに入った水を持ってきてくれたので、松戸は、
「あの……。ここって、居酒屋じゃないですよね?」
と聞いてみた。老人は、明らかにおかしなことを聞く若者だな、という顔をして、
「うちは五十年以上、ずっと中華だよ。酒はビール、チューハイ、紹興酒」
と言うと、水だけを置いて厨房の方へと入ってしまった。
松戸がどう対応していいか分からなくなっていると、すぐに老人は小皿を持ってきてテーブルに置いた。どういうわけか、小皿には注文していない卵ボーロが十粒ほど乗っていた。
「あの、これは……?」
「お通しだよ、お通し。で、何にするね? 若いんだから、ビールでいいか」
「あ、いえ、まだ仕事が……」
松戸が言い終わらないうちに、老人は厨房の入り口に置いてあった冷蔵庫から瓶ビールを一本取り出し、新しいコップとともに松戸のテーブルに置いた。
何だ、このじいさん。人の話をまったく聞かねえじゃねえか。でもまあいっか。どうせ会社戻ってもタイムカード押すだけだし……。
松戸は、この老人のペースに付き合うしかないとあきらめ、卵ボーロを一粒つまんだ。あまりにも懐かしい味と食感で、頭の中に一瞬、幼稚園時代の教室の風景が蘇った。
すると、すぐにまた老人が戻ってきて、かなり年季の入った栓抜きをバンッという感じでテーブルに置いて、
「何つまむ? 若いんだし、ニラレバでいいか。きょうはレバが安かったんだ。ニラレバでいいな、ニラレバで」
と一方的に言い放って、まさに問答無用で厨房へと戻った。
『若いんだし』って、そりゃああんたから見りゃあ若いけど、レバニラとビールってオヤジかよ。あれ? レバニラ? ニラレバ? どっちだっけ……?
松戸は、カウンターの上に並んだメニューの書かれた短冊を見た。油でかなり見えにくくなっていたが、そこにははっきりと、『レバニラ 250–』と書かれていた。
あのじいさん、ニラレバって言ってたよな? 間違ってるじゃねえか。でも、二百五十円ってホントかよ……?。
松戸は、とりあえず値段の安さに安心した。と同時に、ここまでほとんど何も話していないのに、勝手に卵ボーロとビールがテーブルに並び、さらにレバニラ炒めまで注文したことになっていることに驚いた。松戸にとって、飲食店での注文はタッチパネルか券売機。店員と話をして注文する経験など、ほとんどなかった。
厨房から、レバニラを炒める威勢の良い音が聞こえ出した。
松戸は瓶ビールの栓を開け、卵ボーロをつまみに、あらためてこの店に来た目的を考えた。
検察は店の名前を間違えているぐらいだから、きっと、かなりずさんな捜査だったに違いない。だとすれば、自分がにらんだ通り、和田は冤罪だ。親分の身代わりに出頭して、親分の身代わりに刑務所に入る気なんだ。新聞記者が冤罪を暴けば英雄だ。そうなりゃあの諏訪のパワハラ野郎だって、自分に何も文句が言えなくなるはずだ……。
冤罪の根拠などどこにもないのに、松戸は一方的にそう思った。自分には、諏訪にはない、冤罪を暴く取材力がある。知識でも経験でも諏訪に劣っているのは明らかだったのだが、松戸は自分の才能を信じて疑わなかった。
そうしていると厨房の音が止み、老人が「あいよ、ニラレバ」と言って、うまそうなレバニラ炒めを持ってきた。
松戸はここだと思い、
「あそこのメニュー、間違ってますよ」
と、カウンターの上の短冊を指差して指摘した。
「間違ってる?」
すぐに厨房に戻ろうとした老人は振り返って短冊の方を見たが、目を細めただけで間違いを理解していないらしい。
「ええ。『ニラレバ』じゃなくて『レバニラ』。どっちか直した方がいいですよ」
「ああ、名前? いいんだよ、そんなもん。ニラレバでもレバニラでも」
「良くないですよ。客がどっちの名前で頼めばいいか迷うじゃないですか」
「そんな客、この五十年、一人もいねえよ」
「でも、やっぱり……」
この店の間違いを見抜いた自分の慧眼を褒めてくれるものと思っていた松戸は、「どうでもいい」などと言う老人の答えに困惑した。老人はそのまま厨房の方へと戻ってしまい、自分の指摘も無駄に終わったかと思った松戸は、仕方なくレバニラを食べようと割りばしを割ると、老人が明らかにチューハイだと分かるグラスを持って戻ってきた。
老人は何の断りもなく松戸の正面に座ると、チューハイをひと口飲んで、
「あんた、随分と細えな」
と言った。
「まあ、記者ですから」
松戸が得意げに身分を明かすと、老人は、
「ほう、あんた記者か。新聞かい? テレビかい?」
と、特に記者を珍しがることなく聞いてきた。
「新聞です」
「新聞か。じゃあ何だ。この前の事件でも調べに来たのか? だったら、酒飲みながら仕事しちゃあまずいんじゃねえのか?」
「飲みながらって、そちらが勝手に持って……」
「まあいい。おれも飲んでんだから、あんたが飲んでることは目ぇつぶってやる。それで? 何が聞きたい?」
まったく会話のペースはつかめなかったが、なぜか会話は本題へと進んだ。老人の顔を近くで見るとかなり赤い。きっと、客がいないのをいいことに夕方から飲み続けているのだろう。松戸は酔っ払いの老人にやや不安を覚えたが、聞くだけは聞いてみようと考えた。
「ええ。九月一日の、和田武の事件です」
「九月一日? 和田武なんて名前までは知らねえが、この前、店先でケンカして、一人死んだって事件のことだろ?」
「ええ。ヤクザ同士の」
すると、老人は少し怪訝そうな表情を見せ、
「ヤクザ同士? 同士じゃねえだろ。死んだ方だけがヤクザ者で、そこの斜向かいの事務所の若い衆だろ?」
と言って、その事務所の方向を示すように、店の外に向けアゴを指した。
片方だけがヤクザだなんて、やっぱり酔ってやがる……
松戸はそう思い、
「いえ。殺された丸山ってのが昌光会で、殺した方も市原丹羽会の和田って男です」
と言った。だが老人は、
「いや、そりゃあ違う。丸山君はよくうちに食いに来てたから顔も知ってたが、相手はそんな和田なんて野郎じゃねえ」
と、はっきりと否定した。
「和田じゃない? 僕と同じぐらいの、三十二歳のガタイの良いヤクザですよ?」
「ガタイが良いどころか、ヒョロヒョロの子どもだよ。高校生か大学生ぐらいか? ありゃあ誰が見ても、ヤクザ者なんかじゃねえ」
「子ども……ですか?」
「間違いねえ。だってヤツら、うちで口ゲンカ始めて、丸山君が『表へ出ろ』っつってああなったんだから」
公判で聞いた話とまったく違う。じゃあ、被告人席に座って罪を認めてた和田武ってのは誰なんだ? もしかして、本当に冤罪なんじゃ……?
松戸は、体中にゾワゾワっと電気が走ったような感覚を覚えた。
「ヒョロヒョロの子どもって……。だってきょう、和田武の裁判があって、僕はその裁判を傍聴してきたんですよ? 和田は確かに、丸山を殺したって事実を認めてました」
「認めてたもなんも、ここで口ゲンカになって、表で丸山君とケンカしてた子どもを、おれは見てるんだよ」
「見てるって……。じゃあ、裁判が間違ってるとでも言うんですか?」
「だから裁判は知らねえよ。おれはただ見たことを言ってるだけだ」
「もしかしておじいさん。事件があった日も今も、結構酔っ払ってました?」
松戸が思ったままを口にすると、老人は持っていたチューハイのグラスの底をダンッと音を立ててテーブルに叩きつけ、
「バカ言うねえ! おれがこんなチューハイなんかで酔うはずねえだろう!」
と声を荒げて立ち上がった。老人はそのまま厨房に帰ろうとしたので、松戸は、
「じゃ、じゃあ、その高校生だか大学生だかって子どもは知ってるんですか?」
と声を掛けた。老人は松戸の方を振り返ることなく、
「初めて来た客だ! 知らねえよ、そんな子なんか!」
と言いながら、厨房に入ってしまった。
単なる酔っ払いのたわ言? あまりにも客が来なくて暇だったのでからかわれた? でも、もしも事実なら、おれがにらんだ通り、本当に冤罪……?
松戸は店内を見回した。防犯カメラの一つでもあるかと思ったが、電子機器らしい装置は、ブラウン管テレビの上のデジタル放送変換器以外、どこにも見当たらなかった。
和田武の判決期日は、きょうの法廷で十一月十一日に決められたばかりだった。まだ一週間ある。松戸はすでに、冤罪事件を暴く英雄になった気になり、残された時間で老人の言う子どもを探してみようと決めた。
店を出た松戸はまず、現場となった路上の周辺を見回し、防犯カメラを探した。もしも設置されていれば、事件当時の映像は当然証拠として裁判所に提出されているはずだが、裁判では防犯カメラという単語は一度も聞こえてこなかった。なぜ聞こえてこなかったのかと言えば、現場に防犯カメラが設置されていなかったということに他ならない。それでも松戸は、現代社会において一つも映像がないなどということはないはずだと考え、どこかに現場の方向を向いている防犯カメラがあるはずだと必死で探した。
すると、現場に近い十字路交差点の電信柱に、一台の防犯カメラが見つかった。松戸はその電信柱から一番近い牛丼チェーン店に入った。店員に、誰があの防犯カメラを設置したのかを聞いてみたが、アルバイト店員は誰も答えられなかった。
店を出ると、ちょうど向かいの薬局がシャッターを降ろすところだったので、走って行き、同じことを聞いた。薬剤師らしき男性は、「ちょうどこの前、そこで殺人事件があったので、商店街で設置した」と教えてくれた。松戸が、男性に礼を言う前に「殺人事件じゃなくて傷害致死事件です」と間違いを指摘すると、男性は機嫌を損ねて店内からシャッターを完全に閉じてしまった。
設置が事件の後では意味がない。松戸は、防犯カメラがないならインターネット上には通行人が撮影した映像が必ずあるはずだと考え、会社に戻ってパソコンで探すことにした。
帰社すると、ちょうど退社時間の午後七時を少し回ったところだった。普段なら松戸はこの時間、帰宅していて社内にはいない時間だ。当然、もうみんな帰宅しているのだろうと思っていたのだが、社内には編集局員がほぼ全員と言っていいほど残っていた。社会部は相変わらず部員の姿が見えなかったが、社会部長と諏訪の顔があった。松戸は無視して自分の席に座ると、諏訪が、
「お前、こんな時間にいるなんて珍しいな」
と、嫌味を言ってきた。松戸は胸ポケットにそうっと手を入れて、気付かれないようにICレコーダーの録音ボタンを押した。
「原稿も出さねえのに、残業代なんか申請すんじゃねえぞ」
こっちはこんな時間まで、和田武の事件の取材をしているというのに、どうして残業代を申請するななどと言われなければならないのか。松戸はそう言ってやろうかとも思ったが、ここは無視して『パワハラノート』に書き込むだけに留めた。諏訪は実際、嫌味など言う暇もないほど忙しいらしく、それっきり何も言ってこなかった。松戸はこの日の項目の最後に、『音声データあり』と書くと、満足してノートを閉じた。
さあ、まずは九月一日のネット映像探しだ。街中で何かしらの事件があってパトカーや救急車が集まっているのを見つけたのに、スマートフォンで動画を撮影しない人間などいない。松戸はそう信じていたから、映像は簡単に見つかるものだと楽観視していた。
『和田武』、『傷害致死事件』、『9月1日午後8時20分』、『ヤクザ』、『ケンカ』、『中華料理 岷岷前』、『殺人』、『殺し』、『ナイフ』、『パトカー』、『警察沙汰』……。SNSで検索に引っかかりそうな単語を片っ端から入力したが、それらしい記事は出てこなかった。
何でだ? あんな商店街で事件があったってのに、誰も動画撮影してないってことがあるのか? そんなはずないだろう……。
松戸はあきらめず、思い付く限りの単語同士を何度も組み合わせて検索にかけたが、いくら試してみても、あの日あの時間にスマホを現場へと向けていた目撃者は出てこなかった。
松戸は法廷で和田武を直接見ていたから、動画さえ見つかれば、殺された丸山の相手が和田武かどうかはすぐに分かる。それで冤罪を証明すれば、日本中から称賛される。そのはずだったのだが、松戸の計画は早くもとん挫した。
あと、どうすりゃいいんだ? 誰かに聞くか……?
パソコンから顔を上げると、忙しそうに原稿にペンを入れる諏訪が見えた。
いや。いくら先輩だとはいえ、あんな自分より劣ってる記者に聞くことなんかあるはずがない……。
まだ一週間ある。松戸はこの日の〝捜査〟はあきらめ、あすもう一度現場に行って、事件の目撃者を直接探すことにした。
事件があったのは九月一日午後八時二十分ごろだったから、松戸は翌日から、同じ時間帯に中華料理岷岷前を通りがかる人たちへの聞き込みを始めた。
「市原新聞ですけど、ここでケンカがあってヤクザが殺されたんですが、何か覚えていませんか?」
帰宅途中のサラリーマンや酔客たちに次々と声を掛けたが、みな会社名を聞いて一度は立ち止まってくれるものの、〝ヤクザのケンカ〟と聞くと、余程関わりたくないのか、足早に立ち去っていった。
事件の前後一時間、足が棒になるまで聴き込んだが、成果はまるでなかった。
おれがこんなに聞いてるってのに、なんでみんな教えてくれねえんだよ……。
初日にして心が折れかけた松戸は、あすもう一度同じ時間帯に聞き込みをして、収穫がなければ次の手を考えようと考えた。
その二日目。通りがかる人はほとんどが前日と同じ顔ぶれだったから、声を掛ける機会すら少なくなり、ただ店の前に立っているだけで無為に時間だけが過ぎていった。
もういっか。岷岷のじいさんは「酔っ払ってない」って言ってたんだし、本当のことを言っていたってことにして、じいさんの話だけで記事にしちまえばいいか……。
自分はこんなにも頑張った。それなのに目撃者が出ないということは、目撃者はいないということだ。自分以外に、ここまでできる記者はいない。ならば、岷岷の老人の話一本だけで原稿を書いたって許されるはずだ。そんな考えが松戸を支配し始めた。
松戸はもう会社には寄らず直接帰ろうと、駅に向かって歩き始めた。すると、岷岷の斜向かいにある『奥平興業』という事務所が目に入った。岷岷の老人が言っていた、殺された丸山が所属していた昌光会の事務所らしく、木の看板に墨文字で書かれた『奥平興業』の文字の上に、昌光会の『昌』をあしらった代紋があった。
被害者なら、殺した相手を知らないはずはないか。でも、ヤクザだしなあ……。
松戸はさすがに、ヤクザの事務所に乗り込むことだけは腰が引けて、何度も二の足を踏んだ。
事務所の前に立ちすくみ、何度も逡巡していると、突然、奥平興業の入り口の扉が開けられ、中からいかにもヤクザという風体の大男が出てきた。
「おう、兄ちゃん、何か用か」
夜だというのにサングラスをかけた大男が声にドスを利かせた。
「え? あ……、すいません」
松戸はとっさに謝ると、大男は、
「先刻からうちの前でウロウロしとって、サツじゃあんめえな?」
と聞いてきた。ヤクザだけに問答無用で殴られるのかと思っていた松戸は、問答が通用することにほんの少しだけホッとした感じになり、
「い、いえ。サツじゃありません。市原新聞の記者です」
と、大樹にすがる思いで会社名を出した。
「兄ちゃん、ブン屋さんかい」
「あ、はい」
松戸は大慌てで自分の名刺を出した。
差し出された名刺をマジマジと見た大男は、
「ふうん、松戸さんね。兄ちゃん、ここがどこだか分かっとるんか」
と言って、受け取ったはずの名刺を突き返してきた。
やっぱり社会人のルールは通用しないのか。会社名と名前を知られたのはまずかったか……。
そう考えると、松戸は恐怖で体が震え出してきたが、聞かれたことに答えないと何をされるか分からないとも思い、
「あ、はい……。く、九月一日の、じ、事件のことで……」
と、震える声で答えた。
「丸山の事件か……。あれでここに記者が来たってのは初めてだな。まあいいや。ここじゃ目立つで、そんなら入んな」
信じられないことに、大男は松戸を事務所に招き入れようとした。松戸は恐ろしくてたまらなかった。急いで走って逃げようとも思ったが、不意に大男に左腕をつかまれると、そのまま抵抗のできないほどの力で事務所の中に引き入れられてしまった。
「兄貴。お客様です」
大男が声を掛けると、事務所の奥から〝いかにも〟という感じの、赤いシャツに真っ白なスーツを着たパンチパーマの男が出てきた。さりげなく事務所内を見渡すと、小さな神社かというほどの巨大な神棚、前に見た市長室よりも高級そうな応接セット、知事室よりも豪華な事務机が目に入った。壁には事務所の外を映したモニターが三台もあった。なるほど、大男はあのモニターで、事務所前をうろつく松戸に気付いたようだ。
「客?」
パンチパーマが訝しそうに、松戸の顔を下からなめるようにのぞき込んだ。
「若。この人はブン屋さんで、この前の丸山の事件について聞きたいそうです」
大男がそう言ったので、松戸はこのパンチパーマはこの組の若頭なんだろうと考えたが、せっかく名刺を出したのに、どうして会社名も名前も言って紹介してくれないのだろうとも思った。
若頭は、どうやら銃や短刀は持っていないようだったが、松戸は念のため警戒し、
「あ、は、はい。い、今、胸ポケットから名刺をお出しします」
と言って、事前に断りを入れた上で胸ポケットから名刺入れを取り出した。懐に手を入れた途端にズドンではたまらないと考えた。だが、若頭はこれから名刺を受け取ろうという場面だというのに、勢いよく応接セットに体を投げ出すようにして座ってしまった。松戸はどうしていいか分からず、とにかく相手の機嫌を損ねないよう、自分の両手で自分の名刺を捧げ持つようにしながら、若頭に差し出した。
「兄さん、そんなに怖がらんでも。震えとるやんけ」
若頭は、恐怖で震える松戸の両手から片手で名刺をつまみ上げ、テーブルの上に置いた。
「……ふうん、市原新聞の松戸さんね。兄さんも新聞記者なら知っとると思うが、あっしらはカタギには手は出さん。だから怖がらんでええ」
若頭はそう言うと、大男にお茶を持ってくるよう指示した。
松戸も若頭の正面に座ろうと腰を下ろし掛けた途端、ちょうどお茶を持ってきた大男が、
「おう! 誰が座っていいって言った!」
と、大声で松戸を怒鳴りつけた。
「ひぃぃ!」
その怒声に驚き、松戸は思わずその場に尻もちをついてしまった。正面の若頭は満足そうに笑っている。
大男がテーブルにお茶を二つ置いた。松戸はお茶を置いた場所に座れということにしか思えず、若頭の正面のソファを見た。するとようやく、若頭がそのソファに座るよう手のひらで示したので、松戸は恐るおそる、大男の顔色をうかがいながらソファに座った。
松戸は恐怖からか、すでに口の中がカラカラに渇いていたので、思わず出されたお茶に手を出した。
「おう! 目上の人間より先に茶ぁ飲むたぁ、何様のつもりじゃ!」
また大男が怒声を浴びせてきた。体がすっかり竦んでいた松戸は、恐怖のあまり一度持った湯飲みを落とし、お茶をテーブルにぶちまけてしまった。先刻テーブルの上に置かれた松戸の名刺がびしょびしょになった。
「お前! 客の分際で、若頭になんて粗相しやがる!」
大男が松戸に詰め寄って凄み、若頭に素早くハンカチを差し出した。
殺される。いや、殺されないとしても、粗相の責任を取って指をつめさせられる……!
瞬時にそう思った松戸は、お茶で濡れた床を気にせずその場で土下座し、
「すいません、すいません! お許しください!」
と謝罪をした。普段なら、大男がいきなり怒鳴りつけたせいで湯飲みを落としたのだから自分には非はないと考えるところなのだが、この男たちにそんなことを言ったら、本当に殺される。恐怖に竦んだ体は反射的に、松戸に素直に土下座するよう指示した。
「リョータ、もういい。記者さん、震えてるじゃねえか。記者さん、もういいから座んな。ほらリョータ、テーブル拭いてやらんかい」
若頭が言うと、リョータと呼ばれた大男は直立して「はい!」と言うと、奥の台所に雑巾を取りに行った。
両手両ひざ、おでこまでお茶で濡れた松戸もリョータに倣い「はい!」と言って、ソファに浅く腰掛けた。
「松戸さん、だっけ? あんた、もうちょっと礼儀ってもんを勉強した方がええな? 客として人様の家ぇ行ったら、家主が座れ言うまで座ったらあかん。目上の相手より先に茶ぁ飲んだらあかん。分かるな?」
ヤクザに礼儀を教えられた……?
一瞬だけそう思ったが、竦んだ体は動かず、正面に座る若頭の顔も見ることができない。松戸はうつむいたまま、「……はい」とだけ答えた。
リョータが戻ってきて、テーブルの上をびしょびしょになった名刺ごと拭き取ろうとすると、今度は若頭が勢い良く立ち上がり、
「てめえ! 客の名刺に手ぇ出すんじゃねえ!」
と言って、容赦なくリョータを殴りつけた。その場に崩れ落ちそうになったリョータは何とか耐え、
「申し訳ありません!」
と、直立しなおして言った。口元からひと筋の血が流れていた。
やっぱりこの人たちは〝反社〟だ。本物だ。社会から逸脱してるんだから、社会の常識もルールも、法律も通用しない。来るんじゃなかった。帰りたい。帰りたい……。
どうすることもできなくなっていた松戸に、ソファに深く座り直した若頭が、濡れた名刺を見ながら、
「で、松戸さん。丸山の事件やって? 何聞きたい?」
と聞いてきた。すっかり頭の中が真っ白になっていた松戸は目を伏せたまま、早く質問に答えなければという思いだけで、
「え、あ、あ、はい……。ま、丸山……、さん、の事件は、え、冤罪じゃないかと……」
と言った。
「ほう、冤罪ねぇ……。で、兄さんは、あの事件のどの辺が冤罪だって言うんや?」
冤罪と聞いて、若頭に驚いたような様子はなかった。
「は、はい。え、えーと、は、犯人は、和田武じゃなくて、べ、別にいるんじゃないかと……」
「そんで?」
「そ、そんで、ひ、被害者なら、し、真犯人を知ってるんじゃ……」
「なるほど。それを聞いて記事にして、冤罪を暴こうってんか。おうい、お前、知ってるか?」
若頭がリョータの方に首だけを向けて聞いた。
「いえ! 知りません!」
直立したままのリョータが答えた。
「と、いうことや。記者さん、こんでええか?」
若頭がお茶をひと息に飲み干し話を終わらせようとしたので、松戸は慌てて、
「い、いえ。は、犯人は、高校生か大学生ぐらいの、ヒョロヒョロの若い男だと……」
と、岷岷の老人から聞いたとっておきの〝直球〟をぶつけた。
若頭は少し考えた後、伏せたままだった松戸の顔を指でクイッと上げ、
「記者さん。あんた、うちの構成員が〝セイガクさん〟に殺されたなんて、そんなみっともねえ記事を書こうってんじゃねえだろうな?」
と凄んだ。松戸はあまりの恐怖に視線を逸らした。
「記者さん。あの事件でヤッたのはなぁ、セイガクじゃねえ。市原丹羽会の和田だ。てめえ、余計なことしやがったら、ただじゃおかねえぞ」
「で、でも……」
「でももへったくれもねえ! サツが和田をパクって事件は終わってんだ! 〝被害者〟が犯人は和田でいいって言ってんだ! 大体てめえ、おれに口答えするたあ……!」
松戸に殴りかからん勢いで立ち上がった若頭を、リョータが必死で止めた。
「若! 記者相手にまずいです! 今は代紋背負って凄むだけで、暴対法違反だって言われますから!」
暴対法と言われ落ち着きを取り戻した若頭は再びソファに座り直し、
「まあいい。松戸さん。犯人は和田だ。あんたの言うたことは間違っとる。だから絶対に、〝嘘〟は書くんやないで。もう帰えんな」
と言って、松戸に向かって手で虫を払いのけるような仕草をした。
リョータにつまみ出され、ほうほうのていで事務所を出た松戸のひざは、まだガクガクと震えていた。脳裏には、「被害者が和田でいいって言ってんだ!」と怒鳴った若頭の鬼の表情が浮かんでいた。
3
組事務所から無事に生還した松戸は、怖かったことは怖かったのだが、同時に〝捜査〟が少しずつ楽しくもなってきた。次は丸山の遺族に聞いてみようと考え、裁判ノートを見直した。裁判で丸山の住所は明らかになっていたので、翌日は隣の安須市だという丸山の住所に向かった。
昼前に到着した住所は、四世帯しか入居できない木造二階建ての古いアパートだった。丸山の両親が住んでいれば、定年で引退して昼食の準備でもしている時間のはずだ。松戸は何のためらいもなく、二〇二号室だというドアののぞき窓の下に付けられた古い呼び鈴を三回鳴らした。
ジリリリリ、ジリリリリ、ジリリリリ。
昭和の時代の呼び鈴だろうか。向かいのマンションまで聞こえるんじゃないかというほどの、けたたましい呼び出し音が辺りに響いた。
だが、中からは何の反応もない。殺された人間の住所だ。本当に丸山の住所で、丸山は一人暮らしだったか。それでも松戸は、あきらめずもう二回、呼び鈴を鳴らしてみた。
すると、中から「はぁい!」と、怒ったような女性の声が聞こえた。
しばらく待つと、グレーの地味なスウェット姿の明らかに若い女が眠そうな顔をして出てきた。化粧をしたまま寝たのだろうか。崩れた化粧で分かりづらかったが、松戸には少なくとも二十八歳の丸山より若そうに見えた。
「どちらさん?」
「あ、市原新聞の記者で松戸と言います。丸山さんの事件でお伺いしたいことが」
「丸ちゃんの? 何で今さら……?」
〝丸ちゃん〟と言ったので、女は少なくとも丸山の関係者だと分かった松戸は、
「はい。私は、丸山さんを殺害した犯人は、別にいると考えています」
と言いながら、自分の名刺を差し出した。名刺を見た女は、玄関を開けたまま応対するのが寒かったのだろう、室内には入れてくれなかったが、松戸を玄関には入れてくれた。
間取りは2Kほどだろうか。室内にはペットボトルやカップラーメンの空き容器、ゴミ袋に入った服などが散乱したいわゆる〝ごみ屋敷〟で、どう見ても女性の一人暮らしに見えた。
「で、犯人が別にいるって、どういうこと?」
女が玄関にあぐらをかいて聞いた。松戸はただでさえ狭い上、女の靴が散乱していてまさに足の踏み場もない玄関に立ったまま、
「その前に、あなたは丸山さんの……?」
と質問で返した。いつものリュックは背負ったままだから、どうしてもリュックが閉じられたドアに当たってしまい、松戸は少し前のめりのおかしな格好になっていた。
「あ、あたし? えーと、何て言えばいいんだろ……。あ、丸ちゃんはあたしの客よ」
「客というと?」
「あたしキャバ嬢だから」
「キャバ嬢? じゃあ、何で丸山さんの住所がここになってたんですか?」
「丸ちゃん、ヤクザってバレて、前のマンション追い出されたのよ。んであたしんとこに転がり込んで来たってわけ」
「じゃ、じゃあ、内縁の妻……、みたいな関係ですか?」
「内縁の妻なんて大げさなもんじゃないよ。客よ客」
詳しく話を聞くと、女は事件現場近くの繁華街にあるキャバクラ「フェアリー・テイル」で働くキャバクラ嬢で、源氏名は「シルフ」なのだという。この店は昌光会の息がかかった店で、丸山は用心棒として毎週のように来店し、用心棒代代わりにタダで飲み食いしていた。そんなある日、店長からマンションを追い出された丸山を無理やり押し付けられたのだが、キャバクラ嬢としての売上も低かったシルフはそれを断れなかった。シルフが言うには、だから丸山とは内縁関係もなければ交際関係にもないのだとのことだった。
「そんで何? 先刻、真犯人がどうどかって?」
「あ、はい。実はですね、どうやら丸山さん。暴力団同士の抗争で殺されたわけじゃないらしいんですよ」
「抗争じゃない? だってあれ、もう市原丹羽会のヤツがパクられて解決したじゃないの」
「ですから、その市原丹羽会のヤツじゃないのが犯人だということを、私が取材で突き止めまして」
「あんたが? それマジ? リクルートスーツ着て、どう見ても新入社員って感じだけど?」
「マジです。ちゃんと証言を得ました」
松戸は胸を張りたかったが、変な前傾姿勢になっていたのでできなかった。
「ふうん。んで、あたしに何が聞きたいの? 何も知らないよ、あたしは」
「それがですね、真犯人。市原丹羽会の和田って男ではなくて、もっとこう、高校生とか大学生とか、ヒョロヒョロの若い男だったってことなんですよ。そんな男、知りません?」
「何? アイツ、セイガクさんに殺されたっての? ははは。ダッセえ」
シルフが死んだ丸山を侮辱するように笑った。どうやら本当にそんな学生のことなど知らないようだった。
「知りませんか」
「知らないよ。そんな話、あたし今初めて聞いたんだから」
「そうですか……。じゃ、じゃあ、殺される直前に、何か、若い半グレに狙われてたとか、そんな話、してませんでした?」
「半グレ? だってソイツ、ヒョロヒョロのセイガク風なんだろ? ヒョロい半グレなんて、いるわけないじゃん」
「半グレじゃなくても何かこう、仕事でもめてたとか、トラブルがあって大変だ、みたいな」
「仕事でトラブル? そんなの聞いたことなかったけど……」
そう言い掛けたシルフが、何かを思い出したらしく、「ああ」と言って続けた。
「殺された時ってほら、選挙やってたでしょ?」
「選挙?」
「あんた、ホントに記者? やってたでしょう、選挙」
松戸は事件当時、社会部に着任して間もなく、政治部経験もなかったので、その選挙が何の選挙だったのか分からなかったが、シルフに記者を疑われた手前、
「ええと、あ、はい、やってました」
と、知ったかぶりをした。それで話が通じたと誤解させられたシルフは、そのまま話を続けた。
「そういえば丸ちゃん、殺されるひと月ぐらい前、『昌光会が今度、新しい市長の顧問になれるかも知れねえ』って言ってた」
「新市長の顧問?」
「うん。誰のことかは言わなかったけど、あの市長選挙なら宝市長のことだと思う」
「どうしてヤクザが……」
「そんなこと知らないわよ。最初は、『顧問になれば池和田市を昌光会で牛耳れる』なんて言ってたけど、結局そんな話はなくなったみたいよ?」
「なくなった?」
「丸ちゃんが殺される二、三日前に言ってたから。『畜生! 市原丹羽にやられた!』って」
ヤクザ同士が市長選で顧問の奪い合い? これ以上胡散臭いネタはない……。
〝捜査〟の手掛かりになりそうな話を聞き、松戸は意気揚々とアパートを後にした。すぐにスマートフォンで調べると、シルフの言う選挙は池和田市長選で、当選したのは宝権三という元池和田市総務部長、落選は天羽田茂という元市議となっていた。
松戸は早速、中心市街地の雑居ビル一階にあるという宝市長の後援会事務所に向かった。二カ月前の市長選では選挙事務所として使われた場所だが、後援会事務所と名前が変わった今は、当時の盛り上がりなどかけらもなくひっそりとしていた。松戸が入り口の前に立つと、ガラス扉に当時の選挙ポスターが貼ってあって、悪代官に賄賂を渡す越後屋じゃないが、いかにも古狸という顔の宝が、松戸に向かって不自然な作り笑顔を見せていた。
室内には明かりが灯っていたので、松戸はヤクザの事務所とは違い、今度は何もためらうことなく自分からガラス扉を開け、「こんにちは」とあいさつしながら中に入った。
室内には打ち合わせ用の大きな丸テーブル、テレビのある応接セットのほか、事務机が四つ、それぞれの机の上に電話機が四台あった。入り口側を除く三方の壁にはびっしりと、『祝当選』と書かれた、支持政党の国会議員の為書きが無数に貼ってあった。よく見ると、現在の首相や官房長官、外務大臣など、松戸ですら知っている名前ばかりだった。
松戸が為書きの多さに驚いていると、奥の台所から「はぁい」という声が聞こえた。水道の蛇口を閉めて出てきたのは、いかにも事務所のお手伝いでいる近所の主婦という感じのおばさんだった。
「こんにちは。市原新聞の記者で、松戸と言います」
松戸が簡単にあいさつすると、おばさんは一瞬で表情を明るくし、
「あら、記者さん? どうぞどうぞ。そちらにお座りになって。今お茶出しますから。あ、若いんだから、コーヒーがいいわね?」
と言って、台所に戻って行った。
松戸はただ記者だと名乗っただけで、ここまで歓待されるものとは思っていなかった。ソファに座ると、壁に貼られた『宝権三候補 15332票 天羽田茂候補 12503票』という当時の選挙結果が目に入った。テレビ台の横には写真立てがあった。中央に、自転車に乗って背中に桃太郎旗を立てた宝市長がこちらに向かってポーズをし、右側に宝と年齢の近そうな女性、左側に線の細い若い男性が立っていた。
「記者さんがここに来てくださるなんて、珍しいわね」
おばさんがお盆にコーヒーを二つ持ってきて、応接セットのテーブルに置いた。
「市長はずっと公務だから、もうこっちには来ないわよ?」
おばさんが暗に用件を聞いてきたが、松戸はどこから話せばいいのか分からず、今見たばかりの写真立てを見ながら、
「これ、市長の選挙期間中の写真ですよね?」
と聞いた。
「そうそう。これ、あたしが撮ったのよ。市長がちょうどみんなそろったから、三人の家族写真を撮ってくれって。市長、いいお顔してるでしょう」
おばさんが体を伸ばして写真立てを取って、松戸に手渡した。
「これ、家族写真だったんですか。市長なんて一番偉いのに、自転車なんか乗るんですね」
「選挙も結構激戦でしたからね。あたしは選対の会計責任者だったから街頭には出なかったけど、市長、凄かったのよ。選挙期間中は毎日市内を自転車で回って、一日で百キロ走ったって日もあったんですから」
「一日で百キロですか! やっぱり政治家って……」
そこまで言い掛けた松戸は、写真を見ていて、宝市長の横で笑顔を見せる若い男が、ヒョロヒョロで学生風という岷岷の老人が言っていた特徴に合致することに気付いた。
「こ、この、市長の息子さんって、今、何をやってるんですか? やっぱり、市長の跡を継ぐとか?」
「ああ、ケンちゃん? 市長の宝権三の〝権〟を取って権一郎って言うんだけどね。ケンちゃんは今、浪人中。春に大学落っこっちゃったのよ。もう、市長は大怒りで。市長の息子が浪人なんて恥ずかしいじゃない? それでケンちゃん、選挙の時はずっと事務所の手伝いなんかしてたんだけど、予備校にもあまり行ってないみたいなのよ。来年はどうするのかしらねえ、まったく……」
おばさんはそう言うと、テーブルの上のカゴからせんべいを取り出し、袋を開けてボリボリと食べ始めた。こちらから何か話さなければと思った松戸は、
「その選挙のことなんですけど、陣営にヤクザが入ってたって話、聞いたことありませんか?」
と切り出した。するとおばさんは一瞬で目の色を変え、
「陣営にヤクザって、うちに?」
と、少し怒ったような表情を見せた。事実でなければ単なる中傷で、おばさんが怒るのも当然だ。気圧された松戸はあわてて、
「あ、天羽田陣営の話です」
と付け足した。
「天羽田陣営ね。あたしは帳簿ばかりだから政治のことは分からないけど……。そう言えば選挙の時、うちの人たちが、『天羽田にガラの悪いのがいる』とは言ってたと思うけど。でもそれがヤクザかどうかなんて、あたしには分からないわよ?」
おばさんは機嫌を直したようで、丁寧に教えてくれた。
「そうですか」
「じゃあ何、ええと、あ、名刺ちょうだい」
おばさんはそう言いながら、松戸に名刺を出すよう求め、松戸が差し出すと、
「松戸さんは、そういうのを聞きたかったってわけ?」
と、名刺を見ながら聞いた。
「まあ、ちょっと取材で……」
松戸はあやふやに答えた。
「取材ねえ……。でもまあ、市長はもうここには来ないから。市役所には毎日いるんだから、記者さんなら市長室に行った方がいいんじゃない?」
「そうですね」
「そうよ。あたしなんかの話じゃ記事にならないでしょう。それでさ、天羽田の話、もう少し詳しく聞かせなさいよ。今からメロン切ってあげるから」
おばさんがそう言ってまた台所の方に戻ったので、松戸はすぐに自分のスマートフォンを取り出し、バレないよう、写真立ての宝の家族写真を接写した。
写真立てをテレビ台の横に戻した途端、おばさんがメロンを持って戻って来たので、松戸は手に持ったままだったスマホを耳に当て、電話がかかって来たふりをしながら、「すいません、会社から呼び出しです」と嘘を言って、話が長くなりそうなおばさんから逃げるように、宝の事務所を出た。
丸山がどうして殺されたのか、いきさつはまったく分からないが、宝の事務所で撮影した家族写真を岷岷の老人に見せて「犯人はコイツだ」と言ってもらえれば、それだけで記事が書ける。しかも、単なる事件じゃない。公判中の事件の冤罪を暴けるのだ。
事務所での取材に手応えを感じた松戸は、その足でまっすぐ、繁華街の岷岷に向かった。
松戸が再び岷岷の前に立つと、店のシャッターは閉まっていて、そこに汚い手書き文字で『土曜定休』と書いてあった。スマホのカレンダーを確認すると、きょうは確かに土曜日となっていた。
「マジか……」
松戸はがく然とした。本来なら、今週の土日は、松戸は休みのはずだったのだ。松戸はいつの間にか、曜日も忘れるほど、今の〝捜査〟にのめり込んでいた。
松戸は翌日の日曜日はしっかりと休み、月曜日の昼前に、三たび岷岷を訪れた。相変わらず客はおらず、松戸が見せた写真を見た老人は、「コイツに間違いねえ。着てる服まで一緒だ」と証言した。
丸山を殺した真犯人は、宝市長の息子、宝権一郎だった。
松戸は岷岷でハムと卵しか入っていないチャーハンを食べると、会社に戻り、壁のカレンダー付き時計を見た。デジタル時計は8日午後1時15分と表示されていた。
和田武の判決は十一日の午前十時だからまだ三日あるのだが、そうも言っていられない。市原新聞は特ダネとして、九日の朝刊で和田武事件の冤罪を暴かなければならない。これだけのネタであれば、全国紙も動く。市原新聞を追い掛けた各紙は十日の新聞に掲載することになる。そうなれば地検も無視できるはずがないのだから、必ず再捜査に乗り出すだろうし、そうなれば判決期日の延長を申し出ることになる。報道する側は、その時間も考えなければならないのだ。もしも判決当日の新聞に冤罪だと書いてしまったら、検察の再捜査どころか判決期日の再調整もできる余裕がなくなってしまい、予定通り、和田武に判決が下されてしまう可能性だって出てきてしまう。
そんなことにまで思いがめぐるはずがなかった松戸だったが、すでに自分の取材は完璧だと自負していたから、すぐに今まで集めた情報をもとに、原稿の執筆を始めた。
前代未聞の特ダネだけに、過去の市原新聞のデータベースに、似たような記事はあるはずがなかった。新聞自体の締め切りまであと十時間。松戸の就業時間までだとあと六時間しかない。松戸はパソコン上の真っ白い原稿用紙を前に、どう書き出していいのか悩んだ。腕を組み原稿用紙を見つめること一時間。先人が書いた記事をコピーして手直しすることばかりしてきた松戸のマス目は、一マスも埋まらなかった。
社会部には相変わらずキャップもいなければ諏訪の姿もない。いるのは政治部上がりの社会部長ただ一人。先輩の諏訪は、キャップを巻き込んで社会部長のことを「警察取材もしたことがない、社会記事素人」と批判し、普段から蚊帳の外扱いしていた。ならば、諏訪が帰社するのを待って、原稿の書き方を教えてもらうかとすれば、また「ヤクザのケンカは記事にならない」と言われ、特ダネを握りつぶされる可能性が高い。そう考えた松戸は、ノートパソコンを持って社会部長席に行き、暇そうにテレビを観ていた社会部長に、
「特ダネがあります。きょうの紙面に組みますので、書き方を教えてください」
と小声で言った。特ダネと聞いた社会部長は、初めて部下から教えを乞われたこともあってか急に色めき立ち、松戸を社会部長席に座らせ、自分はその横に立って、原稿の書き方を丁寧に教えてくれた。
記事が掲載されると、舞台となった池和田市は、蜂の巣を突ついたような騒ぎとなった。新聞各紙は松戸の記事の後を追った。再捜査を余儀なくされた地検は裁判の判決期日の延期を申し入れた。宝市長の自宅や後援会事務所、池和田市役所にも強制捜査が入った。
その後、宝権一郎が逮捕されると、事件の全容が明らかになった。権一郎は市長選の最中、たまたま夕食で入った岷岷で昌光会の丸山を見つけて舌打ちし、「〝反社〟のくせにパンピーの店で飯食ってんじゃねえよ」と、聞こえないようにつぶやいた。だが、それは丸山の耳にしっかり入っていて、怒った丸山が権一郎を店先につまみ出した。そこでもみ合いとなったのだが、丸腰の丸山は、護身用のナイフを出した権一郎に一瞬ひるんだ隙にあごを蹴られ、そのまま後ろに倒れて頭を打って死亡したとのことだった。
宝市長が当時、「票を多く持って来た方を、市長になってから目こぼししてやる」と、票数拡大のため市原丹羽会と昌光会双方に働き掛けていたことも判明した。そこに権一郎が事件を起こしたものだから、市原丹羽会はすぐに身代わりとして和田武を差し出した。これにより、市原丹羽会と宝市長の関係は盤石となり、昌光会との対立は決定的となった。二つの暴力団のこれまでの共存共栄路線は撤廃。昌光会は市原丹羽会を完全に壊滅させることを決め、まさに武器と人員をかき集めているところに、松戸の記事が掲載されたのだった。宝市長は当然のように辞職に追い込まれた。
冤罪を暴き、市長の黒いつながりを暴き、市長を辞職させた。前代未聞の特ダネ記事を書いた松戸は、会社から表彰された。編集会議で社長から表彰状を受け取り編集局に戻ると、先輩の諏訪が忌々(いまいま)しげに松戸をにらんでいた。得意になった松戸が自席に座ると、机上の電話が鳴った。普段は人任せにしていた松戸が珍しく電話を取ると、「池和田市内で民家火災発生のファクスが入ります」という県警からの幹事連絡だった。諏訪は県警からのファクスを取りに行き、「おれは特ダネ記者だ。こんなゴミ事件、あんたが取材しろよ」という思いを込め、無言で諏訪に渡した。
すると、ファクスを見た諏訪は突然立ち上がり、
「松戸! てめえの書いた記事のせいで、人一人死んだぞ!」
と怒鳴りつけた。ファクスには、『発生場所 中華料理岷岷』、『現場から身元不明の焼死体一体発見』と書かれていた。
「……え、岷岷って? 焼死体ってまさか、岷岷のじいさんが……?」
松戸は何が起きたのか分からず、頭の中が真っ白になった。
「てめえがあんな記事書くから、証言者が報復に遭ったんだろうが! 何であの記事書く時、おれかキャップに相談しなかったんだ! バカ野郎が!」
諏訪が烈火の如く怒っていたが、松戸はそれを無視して、急いでカメラを持って編集局を飛び出し、岷岷に向かって走り出した。
現場は消防車や警察車両だけでなく、たくさんの野次馬もいて騒然としていたが、すでに鎮火していた。確かに松戸が何度も訪れたあの中華料理岷岷があった場所なのだが、店は真っ黒に焼け焦げていて骨組しかなく、見る影もなかった。
松戸はあの特ダネ記事で、社会部長の指導を受け、『丸山さんを殺したのは宝市長の長男の可能性が高いことが、現場前の中華料理店店主の話で分かった』という書き方をしていた。
記事のせいで報復って、そんなことあるわけ……。和田を無罪にしたから昌光会を怒らせたとでも言うのか……?
自分のせいで人が殺されたなどと信じたくなかった松戸は、近くにいた消防隊員を呼び止め、
「すいません。焼死体ってまさか、この店の店主ですか?」
と聞いた。鎮火直後でまだ忙しそうだった消防隊員は、
「客はいなかったみたいだからそうとしか考えられないけど、まだ分からないよ」
とだけ言って、店内に入っていった。
あのじいさんが、おれの記事のせいで、死んだ……?。
松戸は現場写真を撮ることも忘れて、その場にひざから崩れ落ちた。
松戸はふと、誰かに見られているような気がして振り返った。斜向かいの昌光会の事務所の前に、あの若頭とリョータが仁王立ちしていた。 (了)