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舞が働きに出るようになって数ヶ月。
すぐに暮らしが良くなったわけではないが、徐々に母の負担も減らしていけるだろうと感じていた。
超一流企業ということもあって、初任給としても破格の給料をもらってはいる。
だが、それに見合うだけの激務に、舞は忙殺されていた。
残業で終電を逃し、家に帰ることもできずオフィスに泊まり込むことも多い。
そのためのシャワールームが備えつけてあり、ご丁寧にお泊りセットのタオルや歯磨きまで用意されているほどだ。
ある意味、拘束時間と体力的苛酷さにおいては『玉響』で働いていたとき以上かもしれなかった。
「おい、小林」
デスクで書類を作成していた舞がふと顔を上げると、葵が書類の束を差し出している。
「何でしょうか」
「この議事録、どういうことだ。日付が二ヶ月後のものになっているんだが」
舞は書面を見て青ざめる。何たる初歩的なミスだろう。
「すみません、すぐ直します」
「午後から取引先との打ち合わせだ。それまでに資料を揃えておけよ。それから例のプロジェクト、お前も企画書を提出しておけ」
一気に重なる要求にしどろもどろになる。
企画書など作ったこともない新人の自分が、プロジェクトに口を挟んでいいものだろうか。
「黙って座ってるだけの人間は要らない。それなら置物で十分だからな。プロジェクトに参加するのなら、自分の存在を周りに示し続けろ。関係ないと思っても口を出せ。頼まれていない仕事を勝手にやれ。それくらいでなきゃ、ここでは認めてもらえないぞ」
改めて仕事の厳しさを思い知る。
舞はうつむきそうになるのをこらえ、ぐっと顔を上げた。
「分かりました。ありがとうございます」
葵は口の端を緩めると、
「ミスをしろとは言わないが、失敗を恐れるな。どちらにせよ新人は足手まといなんだから、今更ミスの一つや二つで誰も何も思わん」
相変わらずひどい言い草だが、そこに悪意はない。舞は頷いた。
葵は背を向けると、軽く手を上げて、
「せいぜい俺の足を引っ張れよ、新人。責任は取ってやる」
足早に別部署へ去っていく葵の背中を見送りながら、舞は胸の前で両手をぎゅっと握り締めた。
早まってゆく鼓動をなだめるように、そっと溜息をつく。




