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「あのう、これってもしかして『送り狼』ってやつですか?」
松尾は繋いだ手を離そうとしない。その手から伝わる温もりが、嫌ではなかった。
けれど――この手は、世界中の誰よりも誰よりも好きな人のものではない。
「そういうことになるのかな」
先程とはうって変わった、低い声が言った。情熱のこもった瞳で見つめられる。
それでも、恵の心の温度は低く冷え切ったままだった。
恋も愛もいくらでもそこに転がっている。
人々は道端のごみのようなそれを拾い上げて、珠玉だ宝石だともてはやす。
無価値ながらくたに、勝手に運命や宿命といった名前をつけて、たった一つのものだと思い込んだまま後生大事に守っているのだ。
どうせこの男もそうなのだろう。その程度の軽い気持ちで自分に近づくのだろう。
恵が今どんな思いでいるか知らず、知ろうともせず、馬鹿馬鹿しい理想やつまらないプライドを胸に抱いて。
「お兄ちゃんに、私のこと頼まれたりしたんですか?」
「え?何のこと」
不意を突かれたような表情に、恵は安堵と落胆を同時に覚えていた。
考えてみれば、兄がそんな下手なやり方をするわけがない。
手を回さなくても、松尾を自分と引き合わせればそれで十分と判断したのだろう。
そしてそれは見事に当たっている。
松尾はまんまと利用され、誘導されたのだ。それが久松の企みだとも知らずに。
兄がそのやり方を取ったのは、正しいと思えた。
いや、恵にとって兄のすることに間違いがあるなど考えられなかった。
自分のためを思ってしてくれたことだと分かっている。
それでも、受け容れがたいことに変わりはない。
気持ちというのは、一朝一夕になくなったりはしないのだ。
私はまだ、お兄ちゃんの元にいたい。
けれど、ずるずると未練を引きずり、兄にうっとうしがられるのも避けたい。
だから――恵は唇をふっと緩めて笑った。
「よかった」
蒼い月明かりに照らされた姿は妖精のように可憐で、魔女のように妖艶だった。
松尾が息を呑んで見とれている。
「お兄ちゃんに頼まれたからじゃなくて、自分の意思で送るって言ってくれたんですね。嬉しいな」
「恵ちゃん」
「ありがとうございます。松尾さん」
これからは少なくとも、外見上は立ち直った風に振舞おう。
久松に心配をかけないように、迷惑に思われないために。
そのために――この馬鹿な男を利用させてもらう。
『いつかお前が……心から愛せる人が現れるよ』
久松の言葉が脳内をこだまする。
罪悪感はなかった、露ほども。ただ、寂寥とした風が心の隙間を駆け抜ける。
群がる男たちを利用し使い捨てた後は、後悔ではなく、途方もない虚しさが胸を襲うのだった。
そして思い知る。誰も自分を見ていない。誰も自分を必要となどしていないのだと。
その果てない孤独と虚無を味わうたびに、自分には兄しかいないと実感することができた。
だからこれは犠牲なのだ。兄を安心させ、自分が兄を想い続けるための。
恵は思って少しく自嘲し、隣を歩く青年へ手向けるように瞑目した。




