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「それじゃあ、そろそろあたし帰るね」
デザートを食べ終え、テレビを見ながら歓談していたとき、恵は不意に壁時計を見上げて言った。
時刻は十時を少し回ったところである。
「え?帰る?恵ちゃん、ここに住んでるんじゃないの?」
松尾が驚いたように言う。
恵は「いいえ」と首を振ると、
「私は八王子にお母さんと住んでいるんです。そっちのほうが大学からも近いし」
「そっか。そうなんだ。恵ちゃんは大学生だったね」
「そう見えませんか?」
恵は松尾の内心を鋭く指摘して、にっこり笑う。
小柄で童顔で目のくりっとした様子は、まるで小動物のようだ。
女子高生どころか、下手をすれば中学生でも通りそうな容貌である。
「あ、でもさ、若く見えるっていいことじゃん!恵ちゃんは可愛いから綺麗め路線じゃなくて可愛い路線で行けばいいんだよ!」
「帰るんなら送っていくよ。ついでに松尾も乗せてってやる」
「久松先輩、車持ってたんすか?!凄いっすね。こんな高いマンションに住んで、車も持ってるとか」
妙なところで興奮している松尾を横目に、久松は恵に近づいて言う。
「忘れ物ないか?」
「うん」
「今日は来てくれてありがとうな。晩飯も。美味しかった」
恵は切ない気持ちが広がってゆくのを堪えるように、きゅっと顔を歪ませた。
はしゃいでいた松尾は、それを見て少し目を瞬かせる。
そして言った。
「――先輩。俺、恵ちゃんを送って行きますよ。だから車出してくれなくて大丈夫です」
久松は「はあ?」と呆れ顔で言って、
「何言ってるんだよ。もう夜も遅いし、車で行ったほうが早いだろ。明日も仕事なんだし」
「分かってますって。大丈夫、恵ちゃんはちゃんと送り届けます。そんでもって、明日は遅刻もしませんから」
松尾はしげしげと見上げてくる恵の手を引いた。
「行こう、恵ちゃん。――じゃあ先輩、今日はありがとうございました!失礼します!」
「おい、松尾!」
駆け出した松尾に引っ張られるようにして、恵は夜道を歩きだす。
街灯が雪のように白くほのかに満ちている。
風に乗って、花の匂いと夜の匂いがした。




