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――あのときは本当に怖かった。
――お兄ちゃん、死んでしまうかと思った。
結局、傷自体はそう深いものではなく、久松は手当を受けてすぐに退院することができた。
事件性のある傷だったので、二人は事情を聞かれたが、口裏を合わせて「料理中に包丁を持って転んだ」という無理のある嘘をつき通した。
あれ以来、何となく兄は変わった。
それとも、自分が変わったのだろうか。
久松に対してずっと抱いていた妄執が、かすかに薄れていくのが分かる。
好きな気持ちは変わらない。
だが、微妙にその形が変わっているような気がするのだ。
久松の周りの女を調べる気持ちもなくなっていた。
そんな不甲斐ない自分に焦り、腹が立つ。
けれど――次に恵が包丁を持ち出したら、今度はきっと兄は本当に自分の胸を刺すだろう。
あのときのあまりの躊躇いのなさに、恵は恐怖を覚えていた。
まるで自分のことなどどうでもいいような――兄にそんな危うさを感じたのは初めてだった。
だからもう、死のうと思うことはできなかった。
あれから約一年。恵は無事、早明大学に入学し、華の大学生活を謳歌している。
大学でも当然男は群がってくるが、もはや恵はいちいち相手にせず、愛想を振りまくこともやめていた。
友達は減ったが、不思議なことにあまり淋しさを感じなかった。
むしろ、大勢の友達に囲まれていた高校時代よりも、ずっと気楽で心地よい。
授業やバイトが終わると、相変わらず兄のマンションにすっ飛んでいく。
時間に余裕ができた分、作る料理も本格的なものになり、レシピも増えた。
いまだに恵は久松に好きだと言い続けている。
けれど、キスをねだったり身体を求めたりすることはない。
久松もそれに気づいているだろう。
そうでありながら、気づかないふりをして、優しく温かく見守ってくれている。
――恵が彼の元から離れることができる、その日まで。
「ただいま」
玄関で物音を立ててドアが開き、久松の声がした。
それと一緒に、若い男の声も流れ込んでくる。
恵はぱちん、と思考のスイッチを切り替えた。
「お邪魔します……と、うわ、いい匂い」
恵はエプロン姿のまま、ぱたぱたと足音を立てて玄関へ向かう。
「お帰りなさい、お兄ちゃん」
思わず抱きしめたくなるほど愛くるしい笑顔で言うと、久松は応じるように微笑んだ。
「ただいま、恵」
そして恵は、兄の隣でぽかんと口を開けている若者を見つめる。
――これがお兄ちゃんの後輩か。顔は中の上ってとこかな。
久松が珍しく家に客を呼ぶと言ったときから、恵はうっすらと予想するところがあった。
当然、口には出さなかったが。




