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「なあ、恵。お前は間違ってるよ。世の中はさ、お前が思ってるよりずっと、ずっと広いんだよ。
お前はまだ、学校と家、しか世界を知らないから、それが上手くいかないから、世の中全部つまらない、って、思ってるのかもしれないけど」
久松のワイシャツが赤く染まってゆく。
恵は髪を振り乱し、涙を散らして泣き叫んだ。
「いやっ、お兄ちゃん!死んじゃいや!!!」
「何……言ってるんだよ……これくらいじゃ死なないって。馬鹿だな……恵は」
久松は微笑んでいるが、額に脂汗を浮かべている。
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なぜか、頭の隅に舞の姿が思い浮かんだ。
彼女は今、どこで何をしているのだろう。
こんな無様な自分の姿を見たら、何と言うだろうか。
「本当はさ……お前も、分かってるんだろ?誰かを……自分のものに……するなんて……できっこないんだって。お前が、誰のものでもないように……俺も……誰のものにもならない。俺たちは……『ひとり』なんだ」
ほんの少し、脅かすつもりで刺したはずなのに、思ったより出血が多い。
目の前が暗くなってきた。
しくじったな、と久松は薄れゆく意識の中で自嘲する。
恵の歪んだ泣き顔が、遠く遠く思えた。
「お前が本当に欲しいのは……多分……俺じゃないよ。他に何も要らないっていうのも……嘘だ」
「う、嘘じゃない!私は、お兄ちゃんことが」
恵は兄の血にまみれた手を取って、あらん限りの声で叫ぶ。
「いつかお前が、心から愛せる人が現れるよ。その人はお前を……知ろうとしてくれる。ちゃんと分かろうとしてくれる。ちゃんと会えるから……信じていればいいんだ。今はそう思えなくても」
恵は目を見開いた。
この危機的状況も忘れ、茫然と言葉を紡ぐ。
「お兄ちゃんには……いるの?そういう人が……」
久松はかすかに笑い、ふっと瞼を閉じる。
「お兄ちゃん?……お兄ちゃん!!!!」
恵は救急車を呼ぶことも忘れ、久松を揺さぶり続けていた。




