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「だけど私が本当に欲しいものは、誰もくれない。私が本当は何を考えているかなんて、みんな興味ない。お父さんもお母さんも友達も先生も男の子もみんな、私がかわいくて、何も悩みがなさそうにふるまっていれば、それで満足なのよ。
外見だけで決めつけて、私の内面なんて誰も知ろうともしない」
「そんなことない。お前、間違ってるよ」
「そうかな。じゃあお兄ちゃん、私が妹じゃなくなっても、家族じゃなくなっても、私のことこんなふうに大切に思ってくれる?」
唐突な質問に不意を突かれて、久松は言い淀む。
恵が家族でなくなったらという仮定など、できようがなかった。
生まれたときからそばにいる大事な妹なのだ。それ以外の存在などあり得ない。
狼狽を察したのか、恵は大きな瞳を潤ませて言った。
「ほらね。妹じゃなきゃ要らないでしょ。みんなそうだよ。私のこと勝手に好きになって、勝手に分かった気になって、勝手に失望して、要らなくなったらぽいって捨てるんだから」
愛らしい口調だったが、その瞳は嵐のように荒んで壊れそうだった。
「私はお兄ちゃんしか要らない。他は欲しくない」
重い言葉をぶつけられて、久松は大きく息をつくと、肩をすくめた。
「いつまでそうやって駄々をこねてるんだ?恵」
恵が頬をたたかれたような表情をした。
「お前が本当に俺しか要らないって言うのなら――こうすればいいさ」
気がつくと、久松の手が強く包丁の刃をつかんでいた。
その手に血が滲んでいるのを見た瞬間、恵は恐怖に総毛立った。
――殺される。
「お兄ちゃん、」
だが、予想は外れた。
久松は包丁を自分のほうに向けたまま、恵の身体を抱きしめたのだ。
ずぶり、という嫌な音がした。
久松の身体に包丁が突き刺さっていくのを感じ、恵は悲鳴をあげてそれを振りほどこうとした。
だが、無駄な努力をあざ笑うかのように、久松の腹から血が染みだしてくる。
「いやっ、嫌!お兄ちゃん、お兄ちゃん!!」
久松は膝をつき、痛みをこらえながら、少しだけ笑ってみせた。
「ほらな?」
恵は半狂乱になり、金切り声でわめき散らした。
久松が腕を伸ばして恵の頭を撫でる。
それは、昔から少しも変わらない、優しい兄のものだった。




