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時は五月。青葉が芽吹き、きらめく風の吹く季節だった。
五月病という言葉があるが、恵は五月に限らず心を病んでいた。
原因は一つ。叶わぬ恋の苦しみと絶望である。
両親の離婚が決定し、母について家を出てからは、陰鬱な気分は加速した。
ひとり部屋で膝を抱えてうずくまる。
人生がひどくつまらなく、無価値に思えて仕方なかった。
恵にとって、生きる目的は兄しかなかった。
久松との関係がこれ以上進展しないことを考えると、自分が生きている意味がないように思えた。
あてつけのために死のうとしたわけではない。
ただ、もうこの淋しさと空虚な日々に終止符を打ちたかった。
もう一度だけ顔が見たくて久松の家に足を運んだが、案の定、深夜になっても帰ってこず、恵は待つことをやめた。
キッチンに向かい、鈍く光る愛用の包丁を眺める。
痛いのは嫌だったが、確実に死ねる量を考えて睡眠薬を飲むのも面倒だった。
首を吊ると死体が汚くなるというし、兄に迷惑をかけたくはない。
出した結論は、風呂場で手首を切ろうというものだった。
失血死は何となく意識を失って死ねる、楽な死に方だと誰かが言っていた。
風呂場に向かおうとしたとき、かちゃり、と音がしてノブが動き、ドアが開いた。
恵は包丁を持ったまま立ち尽くす。
どうして、こんなタイミングで帰ってきてしまうんだろう。
「ただいまー、って恵!?どうしたんだよ電気もつけない……で……」
言いかけた久松の視線が包丁へと動き、唇を強張らせる。
恵は哀しく微笑んで呟いた。
「ごめんね、お兄ちゃん」
「ちょっと待った」
久松は靴を脱いで上がり込むと、恵のそばに近づいてくる。
だが恵は首を振り、包丁を自分の手首に向かって滑らせようとした。
「恵。話してくれよ。何があった?」
「何も。ただ生きていくのが嫌になっちゃったんだもん」
望みもなく、生きがいもなく。誰も自分を必要とせず、自分も誰かを必要としない。
氷のような牢獄の中で、これ以上生きていくことはできないと思った。
「そんなに離婚が嫌だったなら、どうしてちゃんと父さんと義母さんに話さないんだ?そうやって死んだって、何も状況は変わらない。みんなが悲しむだけだ」
兄の正論が耳を通りすぎてゆく。
恵は目を閉じて言った。
「みんな私のことが好きだって言うよ。私のところに来て、いろんなものをくれたり、いろんなことをしてくれる。そういう状況を見て、私のことを『恵まれてる』っていう人もいる」
そうなのかもしれない。
だが――恵にとってそれは何の意味も持たなかった。




