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そのとき久松はまだ、気づいていなかった。
別の席に座っていた客の1人が、彼を射るように睨みつけていたことに。
「葵さん?どうなさったんですか」
尋ねられ、葵と呼ばれた男性は持っていたグラスをあおり、中身を飲みほす。
地味なグレーのスーツに洒落っ気のない眼鏡、硬質な容貌。
軽くゆるめたネクタイや、額にかかった前髪から落ちついた色香が匂い立つ。
「いや、何でもない。少しぼうっとしていた」
「葵さんったら。私の前で他のことを考えるなんて、禁止ですよ」
鈴蘭は柔らかな笑みを浮かべて彼の背をたたく。
葵は適当に返事をしながら、冷ややかな視線を彼に向けて注いでいた。
非の打ちどころのない容姿、しなやかな体躯。
そして瞳の奥に宿る、他者を圧倒し惹きつけてやまない強い輝き。
「四井不動産の、久松か」
まさか、こんなところで会うことになるとはな。
胸の内でくすぶっていた執念の炎が、音を立てて大きく燃えあがる。
葵はいささか力のこもった動作で、手にしていたグラスをテーブルに置く。
溶けかかった氷が、澄んだ物哀しい音を立てて夜に響いていた。