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これが四菱の、篠宮葵の会社に持っていかれると思うと、ますます惜しくてならなかった。
今さらながら、いや今だからこそ激しい感情が燃え盛って胸を焦がす。
「久松さん」
舞は静かな声で、ゆっくりと言った。
強い口調ではなかったのに、なぜか久松は口をはさめず黙りこんだ。
何を言い出すのだろう。
これまでの仕打ちへの非難かか、恨み節か、呪いの言葉か。
だが、舞が口にしたのはもっと別のことだった。
「ありがとうございました」
久松の視線を真正面から受け止め、舞は凜とした面持ちでそう言ったのだった。
耳にした言葉が信じられず、久松は唇を半開きにしたまま硬直する。
余裕の笑みさえ浮かべられなかった。
舞は久松の狼狽に気づかないのか、穏やかに言葉を重ねる。
「いろいろ言いたいことはありました。許せないとか、大嫌いとか。でもその前に、ちゃんと言っておきたかった。けじめをつけておきたかったんです」
舞はたおやかな微笑を浮かべる。
就職活動が終わったとき、真っ先に浮かんだのが久松の顔だった。
悔しかったけれど、他の誰より舞に影響を与えた人物であることは間違いなかった。
彼の暴君ぶりを一時は殺してやりたいほど憎んだけれど、それでも彼がいなければ、いつまでたっても傷つくことに怯え、引っ込み思案なまま、夢の手前で立ち止まり、たどりつくことを諦めていただろう。
「私、あなたのことを恨んでます。憎んでいます。意地悪で冷血で卑怯で、ひどいことばかりするし、傷つけられてばかりで。それを謝ろうともしないあなたが、本当に大嫌いです。
だけど……感謝しています。今まで、ありがとうございました」
早口で言ってやったら、痛快な気分だった。
なんだ、こんなに簡単なら、もっと早く言っていればよかった。
舞は満足して息をつく。
これでどんな悲惨な仕打ちが待ち受けていようとも、今回は自分も言いたいことは言わせてもらったのだから、五分五分だ。甘んじて受けよう。
それに、多分久松はもう、自分をあの約束で縛ることはないだろう。
舞が実力で内定を勝ち得た今、その脅しにあまり効果がないことも分かっているはずだ。
彼は一人の内定者を潰すために無駄な労力を割けるほど暇ではない。




