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「うちの内定を蹴るくらいだ。よほどの企業だろうと思っていたけど……でもまさか、四菱を選ぶとはね」
穏やかな声色に非難を込めて、久松は面白げに笑う。
「てことは、あれか。君のお仕事のこと、向こうにばらしちゃってもいいのかな」
「それは、」
舞は思わず身を乗り出した。グラスの中の水面が波立つ。
久松は舞を手で制すると、
「冗談だよ。そんな手間のかかることはしない」
あなたが言うと冗談に聞こえないんです、と舞は心の中で叫んだ。
今の発言を鑑みると、手間のかかることはしないのなら、それ以外のことはするという意味にも取れる。
懐疑的な眼差しを向けた舞に、久松は言った。
「ねえ、舞ちゃん。うちへ来なよ」
心臓がゴム毬のように跳ねあがる。
冗談かと思って久松を見るが、彼の目は深く真っすぐにこちらを射抜いている。
どういうことだろう。
考えて、思い当たった答えに舞は苦笑する。
この人は適当な遊び相手が欲しいのだ。
玩具を取り上げられて駄々(だだ)をこねる子供と一緒だ。
いくらでも替えが利く、手駒のうちの一つ。
自分という存在が欲しいのではない。
「考え直したほうがいい。業界トップのうちを蹴って、四菱に行くメリットがどこにある?うちの仕事は、やりがいも規模もあそこで手がける仕事の倍以上だよ」
それをあなたが言うのか。ここまで人を踏みにじった、四井のあなたが。
舞の瞳に怒りの炎が灯るのを見て、久松は小さく目を伏せた。
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怒るのも当たり前だ。
今さら身勝手なことを言っているのは分かっている。
けれども自分は、どうしてか引きとめようとしている。ほとんど、本能的に。
――何を必死になっているんだろうな、俺は。
我ながら滑稽さに笑えてくる。
どうしてだろう。
この強い執着がどこから来ているのか、自分でもよく分からなかった。
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「うちに来るなら、『何でもする』約束はこれで終わりにしてやるよ。そうじゃないなら、」
言葉を切って、久松は舞を見つめる。
そして気づく。彼女は変わったと。
今までの舞なら、久松がこの切り札を持ち出せば、いつだって屈服した。
しかし今は違う。
透きとおった強い瞳でこちらを見つめ返してくる。
もはや気弱で大人しく、唯々諾々(いいだくだく)と翻弄されていた少女の面影はなかった。
綺麗になった。
しばらく会わないうちに、見違えるほどに。




