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「うちの内定を蹴るくらいだ。よほどの企業だろうと思っていたけど……でもまさか、四菱を選ぶとはね」


穏やかな声色に非難を込めて、久松は面白げに笑う。


「てことは、あれか。君のお仕事のこと、向こうにばらしちゃってもいいのかな」


「それは、」


舞は思わず身を乗り出した。グラスの中の水面が波立つ。


久松は舞を手で制すると、


「冗談だよ。そんな手間のかかることはしない」


あなたが言うと冗談に聞こえないんです、と舞は心の中で叫んだ。


今の発言をかんがみると、手間のかかることはしないのなら、それ以外のことはするという意味にも取れる。


懐疑的かいぎてきな眼差しを向けた舞に、久松は言った。


「ねえ、舞ちゃん。うちへ来なよ」


心臓がゴムまりのように跳ねあがる。


冗談かと思って久松を見るが、彼の目は深く真っすぐにこちらを射抜いている。


どういうことだろう。


考えて、思い当たった答えに舞は苦笑する。


この人は適当な遊び相手が欲しいのだ。


玩具おもちゃを取り上げられて駄々(だだ)をこねる子供と一緒だ。


いくらでも替えが利く、手駒のうちの一つ。


自分という存在が欲しいのではない。


「考え直したほうがいい。業界トップのうちを蹴って、四菱に行くメリットがどこにある?うちの仕事は、やりがいも規模もあそこで手がける仕事の倍以上だよ」


それをあなたが言うのか。ここまで人を踏みにじった、四井のあなたが。


舞の瞳に怒りの炎が灯るのを見て、久松は小さく目を伏せた。


************


怒るのも当たり前だ。


今さら身勝手なことを言っているのは分かっている。


けれども自分は、どうしてか引きとめようとしている。ほとんど、本能的に。


――何を必死になっているんだろうな、俺は。


我ながら滑稽こっけいさに笑えてくる。


どうしてだろう。


この強い執着しゅうちゃくがどこから来ているのか、自分でもよく分からなかった。


************


「うちに来るなら、『何でもする』約束はこれで終わりにしてやるよ。そうじゃないなら、」


言葉を切って、久松は舞を見つめる。


そして気づく。彼女は変わったと。


今までの舞なら、久松がこの切り札を持ち出せば、いつだって屈服くっぷくした。


しかし今は違う。


透きとおった強い瞳でこちらを見つめ返してくる。


もはや気弱で大人しく、唯々諾々(いいだくだく)と翻弄ほんろうされていた少女の面影はなかった。


綺麗になった。


しばらく会わないうちに、見違えるほどに。

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