52
髪や服についた水滴が凍りついてきた。
肌がみしみしと音を立てて冷えきってゆく。砕けば割れる薄氷のように。
分厚く硬い扉の前にうずくまり、舞は意識が急速に遠のくのを感じていた。
一体どれくらいの時間が経っただろう。
身体の感覚はとうになくなって、先ほどから小刻みな震えが止まらなくなっていた。
吸い込んだ息に喉まで凍りつく。
細い手を力なく前方へ伸ばしながら、何度も百合の名前だけを呼んでいた。
玉響に入店した一年ほど前のことが走馬灯のように思い出されてならなかった。
『あなたが、今度入ったっていう新人さん?』
『はい。小林舞と申します。よろしくお願いします』
『声が小さいわね。随分と元気がないじゃない』
『すみません』
びくりと体をすくめた舞の額を、百合の人さし指が突いた。
『なに泣きそうな顔してるの。そんなに怖がらなくても取って食ったりしないわ。ここはいいお店だし、ママもいい人だから、安心して働きなさい。分からないことがあったら、何でも私に聞くのよ?』
『ありがとうございます』
舞はおずおずと顔をあげ、はにかむような笑顔で言った。
花がほころぶように可憐な風貌に、百合は目を細める。
『あなた可愛いんだから、そうやって笑って働きなさいね。泣いても笑っても時間は過ぎるなら、笑っていた方が楽しいでしょう?』
『はい』
礼儀正しく美しい所作で舞はお辞儀をした。
『そうだ、舞。私があなたの源氏名をつけてあげるわね』
『源氏名?』
不思議そうに首を傾げた舞に、百合は『店で名乗る名前のことよ』と説明し、
『いい?今日からあなたの名前は、あやめ。初夏に瑞々しく咲く高貴な花よ。その花にふさわしい、素敵な女になりなさいね』
水辺に濃く薄く咲き乱れる紫の花弁。心に思い浮かべると、小さく胸が震えた。
『私は百合。これから宜しくお願いね、あやめ』
差し出された手を取ると、驚くほど温かかった。力強く握り返す手が心地よい。
女神のように優しく綺麗で、洗練されていて、ほんのりといい香りがした。
こんな女の人になれたら、どんなにいいだろう。
『よろしくお願いします。百合さん』
決して出口の見えない闇を照らす一条の光。
あの日から舞にとって百合は憧れで、救いだった。
「百合さん、ごめんなさい……」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。透明な哀しみだけが胸にあった。
ここで凍え死ぬのが百合の望みなら、それに従うほかないのかもしれない。
けれどもせめて、もう一度だけ会って話がしたかった。
言葉を尽くしてお礼を言いたかった。
今までしてくれた恩を、少しでも返したかった。
眩暈がするほどの後悔が心に迫りくる。




