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「久松爽を解雇しろ、千草をそう脅しつけたのは君?」
疑問形だが、否定の余地がないほど怜悧な声で久松は言った。
舞は立ち上がって彼から距離を取り、両手で体をかばうようにして手の甲で唇を拭う。
「何を……言ってるんですか。意味が分からない」
「誰かに知恵を借りて、俺を陥れようとしてるんだろう。誰に言われた?怒らないから言ってごらん」
陥れる?知恵を借りた?
恐怖と困惑が心を乱す。
言っている意味が全く分からない。何か、とんでもない事態が起こっていると感じた。
舞は誤解を解くことよりも、恐怖から逃げることを優先した。
久松は脇をすり抜けようとした舞の両肩をつかみ、そのまま壁にガン、と強く押しつけた。
硬いものにぶつかって跳ね返る感覚と、激しい衝撃、遅れて頭がくらりとした。
視界が朦朧とし、目を回しているのだと分かった。
「逃がさないよ」
久松は囲うように体の両脇に手をつく。それだけで舞は身動きが取れなくなった。
動転しながらも、その目が時計をちらりと見る。
次の面接まであと1時間を切っていた。移動時間を含めると、残りは40分弱しかない。
ともかくここは謝って許してもらおうと考えたとき、電話越しに聞いた千草の言葉が頭の奥を揺さぶった。
『いい?黙って言いなりになっているだけじゃだめよ。あなただって相手の弱味を握っているんだから、逆にそれを利用して脅し返してやるのよ』
そうだ。
私はもう、今までの私じゃない。立ち上がって戦うと決めたではないか。
「やめてください」
自分でも、信じられないくらい低く迫力のある声が出た。
久松がほんのわずか、驚いたように舞を見下ろす。
「こんなことをして会社の人に見つかったら、あなたの首が飛ぶんじゃないですか?
私だって……いつまでも黙って泣き寝入りしているわけじゃないですよ」
必死で恐怖をこらえ、震えだしそうな体と心を叱咤しながら、何とか言った。
勢いがついて思わず口走る。
「千草さんだって」
「千草?」
久松が目を眇める。
「そうよ。私の味方になるって言ってくれたんだから」
舞の声が尻すぼみに消えてゆく。
久松は目を細めて面白そうに、「へえ……千草さんがねえ」と呟く。
「だから?」
いきなり舞の細い両手首がきつく締め上げられた。痛みに思わずうめき声をあげる。
「そんな脅しで俺に勝ったつもり?悪いけど、こっちは人事部だ。上層部の人間の弱味も握っている。それをちらつかせれば、上を黙らせることくらい簡単なんだよ」
嘘だ。ハッタリだ。いくら何でも、そんなに都合のいいことがあるはずない。
そう思いながらも、この男ならやりかねないという不安が込み上げてくる。




