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ホテルを出てタクシーに乗り込むなり、千草は久松の胸倉を乱暴につかんで引き寄せた。
「どういうつもりよ。何で今さらあんなことをするの」
凶暴な上司を酷薄な目で眺め、久松はゆるく笑った。
「目的も何も。俺も本当に偶然あいつと会っただけですってば」
「信じられないわ」
唇の間から言葉が押し出された。
久松は屈託のない笑い声を立てる。
「傷つくなあ。俺ってそんなに信用ないんだ」
軽口の応酬には乗るだけ無駄だ。
千草は諦めて力なく車のシートにもたれかかった。
先ほどの数分、あるいは数十秒で、一年分疲れたように思える。
三、四年前だろうか。まさしくあのホテルのロビーで、葵が自分に別れを告げたのは。
切り出したのは彼でも、仕向けたのは自分だ。
苦々しい思いが溜息となって吐き出される。
彼の一途さが怖かった。何の見返りもなく一心不乱に注がれる愛情が恐ろしかった。心苦しく息が詰まった。
浮ついた男といる方が、残酷なほど気が休まった。
葵が真剣に愛してくれていたことは知っている。
なのに千草は、応え得るものを何ひとつ持たなかった。
誠実さも、真心も、貞節も。
倫理やルールに束縛されることを極端に嫌い、本能のまま自由奔放に生きた。
わがままだと分かっていたが、止められなかった。
葵が裏切りに気づいたのは、つき合って半年後のことだった。
それでも、よくもったほうだと千草は思う。
別れの言葉を彼の口から聞いたとき、申し訳ないほど安堵したのを覚えている。
「どうでしたか?久しぶりに会った元彼の感想は」
ぬけぬけと言う、この男が小面憎い。
「無駄口をたたかないで。気分が悪いの、静かにしてちょうだい」
「まだ自分を好きでいてくれているかもとか思ったりしました?」
「黙りなさい」
ぴしゃりと言い刺すと、久松はようやく口をつぐんだ。
だが、その瞳から残虐なからかいの色は消えることがなかった。




