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「ごめんなさいね。あやめは今日、ちょっと別のお客さんについていて」
店のエントランスでは、オーナーの椿が愛想笑いで久松に相対していた。
久松は内心驚きながらも、おくびにも出さず、
「そうですか。じゃあ別の人でお願いします。でもどんなお客さんなんだろう。気になるな」
「政治家の笠原修一先生よ。ご存じ?」
「もちろんですよ。へえ、彼もここへ来るんだ。すごいな」
通された席で一人座り、久松は物思いにふけっていた。
何となく釈然としない。
自分の状況が薄気味悪いものであることも手伝って、言い知れぬいらだちが募ってきた。
仕事でストレスが溜まりむしゃくしゃしているときは、舞の泣き顔を見れば疲れもふっとび、爽快な気分になれるというのに。
物騒なことを考えていると、不意に、
「失礼します」
にこやかに言って席についたのは百合だった。
「こんばんは。百合さん」
「覚えていてくださったの?嬉しいわ」
「ナンバーワンに相手してもらえるなんて光栄だな」
と言いながらも、久松は心ここにあらずといった具合で店内を見回している。
「浮かない顔ですね。あやめがいなくて寂しい?」
「まさか」
久松は切り捨てるように笑う。
だが、心なしか酒杯を空けるペースがいつもより速かった。
百合はそれを横目で眺めると、そっと白い指を久松の胸に這わせる。
「ボタン、外れかけていますよ」
久松は、久々の積極的な誘惑に思わず苦笑する。
「本当だ。悪いけど、つけてもらえるかな」
百合の手を握りしめ、その指に自らの指を絡ませる。
百合がくすくすと笑い、彼の体にしなだれかかるようにして身を預けた。
肩に手を回しながら、久松は冷酷な表情で考える。
もし、脅迫状の主が舞なのだとしたら。
あれだけやってまだ、自分に屈服していないのだとしたら。
手を打っておく必要があるだろう――早急に、徹底的に。




