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「それから俺はあの子を記憶から消そうとした。いつもしてきたように、忘れることに専念したんだ。今まで付き合ってきた子はどんなに好きになっても、二、三日もあれば切り替えて次に進むことができた」
「でも今回は違った?」
そうだ、と久松は言って、両手で頭を抱えた。
「駄目だったんだ。どんなに努力しても、舞の姿が頭から離れない。あの子が他の誰かに奪われると思うと、胸が焼けついて夜も眠れない。今まで簡単にできていたことができない。どうやったら忘れられるのか、全然分からないんだ」
助けを求めるような瞳が百合をとらえる。
百合は目を細め、久松の手に自分の手を重ねた。
「そう。あなたようやく、人の痛みを知ったのね」
百合は久松に向かって人さし指を突きつけると、
「私、あのとき言ったわよね。最後に選ぶのはあやめ自身だって」
久松は初めてこの店を訪れたときのことを思い出して、ゆっくりと頷く。
あの頃の自分が今の自分を見たら、何と言って笑うだろう。
情けないなと見下ろす瞳が容易に想像できる。
「ああ。だけど俺は、心のどこかであの子のことを甘く見てたんだと思う。素直で従順だから、いつか俺のことも許して、愛してくれるようになるだろうって」
言いながら、久松は強く恥じ入った。
自分の人生で、ここまで恥ずかしく惨めだったことはなかった。
何でもそつなくこなし、全てが順調だったからこそ、頭を打った時のショックは計り知れなかった。
「この俺が本気で好きになったんだ、上手くいかないはずがないと思ってた」
あまりにも正直な本音に、百合は呆れて肩をすくめる。
「大した思いあがりね」
久松は笑った。今度は、少しだけ柔らかい表情で。




