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「忘れられなかったんだ」
じれったいほどの長い時が流れて、ようやく久松は言った。
百合は目線だけで話を促し、辛抱強く聞く体勢を保っている。
「最初は時間がかかってもいい、どんな手を使ってでもあの子を振り向かせようと思った。だけど事情が変わったんだ。リミットができた。それまでに成功するか諦めるか、決着をつけなきゃならなくなったんだ」
リミットという言葉に、百合はぴくりと眉を動かす。
「何があったの?」
久松は皮肉な笑みを浮かべた。
「三年ほどアメリカに行くことになってね。出世の大チャンスなんだ、断る理由はなかった。同期にはさんざん羨ましがられたよ」
輝かしいばかりの栄光を掴み、大きな権力と責任を与えられ、成功への階を駆け上がる姿とは裏腹に、百合は久松が憐れでならなかった。
誰も彼の苦悩を理解することなどできないだろう。
久松なら、世界中のどこにいても女に不自由することはない。
日本の女がプロポーズされたら二つ返事でついていくだろうし、そうでなかったとしても、向こうに行けばアメリカの女も口説き放題だろう――と、誰もが思っているに違いなかった。
人は成功者をねたみはしても、その影にどのような努力が隠されているか、どれほどの苦労を乗り越えてきたか想像したりはしない。
「良かったわね」
百合は残酷だと分かっていながら言い切った。
「あなたはそれで、あやめではなく仕事を選んだんでしょう?私もその選択は正しいと思うわ」
久松は、誰もが喉から手が出るほど欲しがる地位にいる。
その上で全てを求めようとするのは贅沢な話なのだろう。
「だから俺は諦めるために、忘れるために、もう一度あの子に告白した。拒絶されると分かっていて、想いをぶつけたんだ。結果は見てのとおりだよ」
久松は両手を広げて肩をすくめ、力なく笑う。




