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「親父やお前のせいで大切なものをいくつ壊され、奪われてきたか。数え上げるのも馬鹿馬鹿しいくらいだ。けれど俺が一番許せないのは、」
ドガッ、と激しい音がして、片桐は身をすくめた。
見ると、葵の拳が近くの壁にめりこんでいた。
「そんなくだらない企みに踊らされる、俺自身だ。惚れた女一人も守れない不甲斐ない自分だ」
葵は痛切な表情で呟いた。
誰も彼もが、葵の背負うものを知った途端、恐れをなして逃げていく。
唯一そんなことに囚われなかった千草は、風のように自由で捕まえておくことができなかった。
彼女は財産や家柄にひるんだのではなく、自分の器の狭さに耐えきれなくなったのだと分かっていた。
そして、あんなにも自分の味方でいてくれた舞もまた、葵を四菱と呼んで頭を下げた。
敬意を表すことで距離を置き、遠ざかっていった。
自分の人生に常につきまとう強大な影。
振り払っても振り払っても追いかけてくる、まるで天空に浮かぶ月のように。
普通の人が手に入れらないような恩恵を、豊かな生活を、当たり前のように享受してきた。
けれど、対価に見合う努力はずっと続けてきたつもりだ。
自立し、四菱とは関係のないところで生きていくための努力を。
だが母は、自分を妾とした父親を愛した。
囲われ、この檻の中で一生を過ごすことを選んだのだ。
人質となった母を、葵は捨てることができなかった。
進学も就職も、葵が人生の岐路に立ったとき、他の選択肢はことごとく潰され、父の意向に沿う道を常に選ばされてきた。
反発を振りかざしても、老獪なあの男には到底通用するものではなかった。
葵自身、自分がこの支配から逃れたいと思う一方で、自分が本心では何を望んでいるのかさえ分からなかった。
それほどまでに、父の威光と支配は強大なものだった。
「くそっ……くそっ!!」
咆哮しながら壁を殴り続ける葵に、片桐はしがみついて叫んだ。
「おやめください、葵様!」
掴まれた腕を乱暴に振り払うと、片桐は短い悲鳴をあげて床に倒れ伏す。
その声でわずかに正気を取り戻したのか、葵がはっと拳を止めた。




