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鈍く光る爪が、俺の頬を掠めた。
首を振ると視界に血が映る。同時に、胸の鼓動が僅かに早くなる。
自身の血が伝う時に感じる温かさは、俺の生命そのものだ。怪我は浅いようだが、その考え方は適切では無い。俺はこの瞬間、確かに死へと近づいたのだ。
敵の動きが再度攻撃に移るよりも早く、俺は軽くバックステップを踏んで、距離をとった。
「ふっ…………」
足の動きに合わせて息を吐き、呼吸を整える。魔法はあまり使っていないので、まだ魔力は充分にあるはずだと自信を落ち着かせるが、握りしめた手はじっとりと冷や汗をかいていた。
それも、仕方のないことだ。
たとえ、俺が闘っている敵が訓練用のものであり、自ら志願して参加しているとしても、俺は今確かに、自分の命を賭して刃を奮っているのだから。
この戦闘は、ただ強くなる為に何万回と繰り返される一つの模擬戦でしかない。眼前の敵ーー分厚い鱗に覆われた胴から伸びる8本足の魔物は、巨大な虫のような見た目をしているが、本物の虫ではない。全て城主によって生成された、戦闘狂の操り人形。
ーー違う。
たとえあの魔物が、意志を持たぬ城主の手下として生み出されたとしても、ここで繁殖し、学習して生き延びようとする1つの生命には違いない。
だから、互いの命を賭けた決闘なのだ。
「そう、……だよな」
俺の言葉が分かる訳でもないだろうが、その魔物はギラリと並んだ牙を覗かせ、臨戦態勢に入った。
本物だ。今ここで起きていることは、訓練でもなんでもない。
俺は、右手に握ったナイフを斜めに翳し、身体の前に構えた。
虫型の魔物も触覚を通じて、俺の動きを測っている。
光を遮る程の鬱蒼とした森の中に風が吹き荒れ、木の葉を激しく叩く。俺の目は、その風を捉えていた。
ーーチャンスだ。
「グギギギィ!!」
歪な音とともに、巨大な虫が前足を上げた。鈍いオレンジ色の液体が身体の隙間から俺の元まで飛んでくる。昆虫の持つ有毒な体液。触れるだけで全身に麻痺症状が現れる、恐ろしい攻撃だ。
しかし、俺はその攻撃から逃げなかった。
自分の近くまでわざと体液を吐き出させ、周りの風を使ってそれを俺から僅か数センチの距離まで集める。
「はぁっ……」
声とともに、ナイフを持っていない左手で空中に集めた体液を魔物のもとまで押しやった。オレンジの液体は宙を舞い、魔物の鱗の隙間に流れていく。ギィッ、という悲鳴に近い音。
俺の風はそこで止まない。魔物に向かって飛ばす風に乗って俺は身体を自由に動かし、異常な速度で次の攻撃に繋げる。
これは、一定数の人だけが持つ『魔法』ーーそれを使うのは『使い手』と呼ばれる。
右へ左へと動き回る俺のナイフが、虫の鱗の隙間に深く突き刺さり、巨軀を切り裂く。俺はそのまま風に乗って体を回転させ、速度のついた攻撃が鱗の下から虫の柔らかい皮膚を抉った。
「ギアアアッ‼︎」
魔物の怒りに触れたのか、鈍い叫びと共にその皮膚が膨張し、鱗が膨れ上がる。隙間からは、今度は針のようなものが四方へと飛んだ。
しかし、俺は風に乗せたステップでそれらを躱す。そのまま地面を蹴って飛び上がり、右に握りしめたナイフに力を込めて敵の急所ーー鱗の下にある心臓へと狙いを定めた。
ナイフで斬られた風は、そのまま斬撃となって膨れた皮膚と鱗の下にある心臓を切り裂き、赤い血が噴水のように噴き出した。
魔法と武器の合わせ技。魔力を使った反動で吹き荒れる地面に着地する。
最期の叫びを上げながら魔物は大きく振りかぶったが、力尽きたのかそのまま地面に沈み込んでいった。
こんな部屋の中でも、死は目の前にある。とても近くに、そして簡単にいる。
自分のナイフに付いた血を魔物の皮膚で拭き取り、俺は武器を畳んだ。脱力感に襲われたが、辛うじて座り込みはしなかった。
張り詰めていた緊張感をほぐすように目線を上げると、夕暮れが戦闘によって疲労した眼球に突き刺さる。目の奥にある痛みを抑え込みながら木々を見渡す。
視界に入る無数の葉は、夕焼けに朱く染め上げられていた。危険な夜が近づいていることに気づかなかったらしい。
「……ここは、成功か」
誰ともなしに呟くと、俺は扉に向かって歩いた。
出口の出現は訓練の終わりを指す。今回も迫る死を切り裂いて生き残った。しかし次の《ランク戦》までに戦いを何度も繰り返さなければならない。いかに技術を磨こうと、果てしなく続く日常の中で、いつかはその時は訪れるだろう。
大事なのは、俺が時の番人に見放される前に、この世界の《頂点》を討つことだ。
富や名誉が華ならば、城で一定の地位を得た後、誰も知らない街で安寧に暮らすという選択肢もあるだろう。しかしそれを顧みず、自ら訓練場で血を浴び、死線を越える事で技能と経験を積む俺は、どうしようもない戦闘狂なのかーー
または多くの仲間と同じように、自分の小くも確固たる目的のために世界を変えようなどと考えている勇者気取りか。
改めて覚悟を己の中に決め、朧げに光る扉をくぐりながら俺は、ふと右手に巻かれたブレスに手が触れた。
これは、12歳の時、妹が結んでくれたもの。
全ての過去を捨て、始まった、あの日のもの。