拝啓
「佐々木真さま。お元気ですか、と聞くのもおかしな話ですね。」
ぼうっとテレビを見ながら過ごしていた休日の午後3時。埃のかぶった本棚から、一冊の本がばさりと落ちた。なんだよと拾い上げてしまおうと本棚に向かうと、手元の本の中程からひらりと落ちた封筒。その中から出てきた手紙はそんな風に書き出されていた。
1年と少し前に出ていったっきりの元カノの、癖のある凛とした文字。今になってどうしたものかと思ったが、ここで見つけたのも何かの縁だろうと俺は中身を読み出した。
「私は今、貴方の部屋の貴方の机でこの手紙を書いてます。どうして鉛筆のひとつもないのですか。私は悲しかったです。コンビニに買いに出ることになりました。」
何分文字を書くことなどそうしないもので筆記用具の1つもこの部屋にはない。
「単刀直入に言えば、私は貴方が大好きです。愛しています。それはもう生まれて初めてなくらい。
でも、今私は貴方に残す為の最後の置き手紙を書いています。どうしてこんな事になったのか、私にも分かりません。貴方に賭けたいのです。きっと負ける賭けです。だから手紙を残します。
私は思えば、誰にも愛されてないと日々考えて生きてた人間です。私はいつ居なくなっても、死んだっていいと思ってる人間でした。貴方が1度でも私を愛したせいで、変わってしまったわけですが。
貴方と一緒に居るようになってから私は死にたいと思っても、死ぬのはダメだなと思うようになりました。なぜだか分かりますか?…分からないでしょうね」
少しまどろっこしい、遠回りでいて、どこか文学的な話し方は彼女の好きな所のひとつだった。俺には知りえない言葉も話し方も知っていて、本が大好きだった。俺は彼女ほど言葉を操るのは上手くなかったし、彼女は俺ほどストレートに伝えるのは良しとしなかった。俺は彼女の言葉を理解するのが難しかったし、彼女は俺に伝える事をとても難しく感じてるようだった。
大概俺が折れる形でいつも終わってたような気がする。
「だって、私が死んだら貴方はきっと死ぬ程後悔するって分かるから。もっと優しくすればよかった、もっと幸せにしてやればよかった、もっとちゃんと愛せればよかった。…でもそれを、生きてる今、日常の中でやって見せようとは出来ないのが貴方だと知っているから。」
彼女と話をするのは好きだった。でもいつも、何故か自分のコンプレックスのような何かをつつかれてるようで、馬鹿にされてる気分だった。だから彼女の言葉を歪めて受けとったことも沢山あった。俺がそうする度に、彼女はどこか遠くにいるように笑い方をした。それも俺には劣等感を覚えさせられた。
「私はいつでも貴方に嫌われていたような気がします。」
凛とした美しい文字が、少し震えていた。
「私の選ぶ言葉はいつでも、貴方に正しく伝わらない。貴方の自虐心を煽って苛立たせてるのが分かっていました。どれだけ考えても貴方には伝えたい事が正しく伝わらない、先走って、悲観的な、白か黒しかない答えになってしまってましたね。私は貴方に、白と黒の間には灰色の濃淡が沢山ある事を伝えたかったのに。」
彼女が使う言葉はどれも淡く、男の自分には到底作り出せない繊細なものを乗せて俺に届けようとされていた。それは分かるのに話をしようとなると、俺にはそれを壊さずに受け取る事が出来なかった。それはとても大変で、それをするのは難しいから。俺には出来ない。
「貴方は悲観的で、自信がなくて、弱くて、私によく似た人でしたね。出来ないという言葉で逃げるのが得意で、ごめんという言葉で立ち止まるのが常で、そして嘘つきでしたね。その場しのぎの言葉をどれ程多くの嘘に変えましたか?けれど、それは私も同じでした。」
彼女は正しい事を言う人だった。正しくて眩しくて、そして俺に似ていた。
「貴方は忘れっぽくもありましたね。私にくれた言葉を貴方は忘れていましたね。俺が君の人生の柱になると言った事、安心させると言った事、いつでも隣にいると言った事、覚えていましたか?
私は最近、貴方と一緒にいる時の方が、1人でいる時よりも何倍も寂しかったです。一緒に居るのに、貴方が居ない時より寂しかったです。言葉を交わせないのは、言葉が貴方を通り抜けて伝わらないのは、会えないよりもずっと悲しかった、寂しかった。お前を1人にしないよと囁いてくれたいつかの貴方の言葉が、私を何倍も苦しめました。
貴方は、覚えていますか。」
今思い出した事ばかりだ。俺は確かにそう言った、忘れてしまったのはいつだったか。
1人の孤独より、2人でいる時の孤独の方が辛いのよと、君はいつか笑ってたような気がする。
「どれだけ時を共にしても、貴方は私を信じてはくれませんでしたね。貴方に贈った惜しみない愛は全て疑いを持たれましたね。貴方はいつでも居もしない他の人の影に怯え私が何処かに行く事を恐れましたね。私の好きを疑った事もありましたね。」
「私は」
また、文字が震えた。
「色々な人を好きになってきました。
気持ち悪いと影で言われた事も、手紙を破り捨てられた事も、好意を無視された事も、皆に馬鹿にされた事もありました。私の好きにはそれ程に価値がなかったのです。
初めて愛し合えた貴方に贈る好きならば、初めて私は価値のある大切なものになるのでは無いかと思いました。
そうであって欲しいと思って惜しみなく贈りました。
けれど、どこに行っても私の好きは、その程度のものだったのですね。誰かに信じて貰えるような、大切にされるようなものではなかったのですね。
それでも貴方に受け取って貰えた事が、唯一の幸いです。
私はきっともう他の誰にも、どんな種類の好きでさえも、ふざけなければ伝えられないと思います。」
彼女を信じてなかったのではない、俺が俺を信じれなかった。
けれどそれは彼女に牙を向いて、彼女の大切なものを傷つけた。俺が俺自身を傷つけるのを避ける為に、俺は彼女を傷つけ続けた。
「それなりに頑張ってみたつもりです。貴方の為に自分を削れるだけ削りました。貴方もそうしてくれると信じていたから。そう言ってくれましたよね。
けれど、そうはならなかった。
貴方は次第に変化をしなくなって、同じ事の繰り返しになっていきましたね。疲れたのですか?
喧嘩の度に貴方は私を責めるような言葉を使うようになりました。貴方に変わって欲しかった私は、貴方に言う以上に正しくある為に削りました。でも貴方は変わらない。変わっていかない。
同じ事が繰り返されるのは変わってないって事だと、私は自分をどんどん変えました。貴方に無理をさせたくないと思いました。
でも私の形が変わっても変わっても、貴方の形は元の形のまま。」
「2人が一緒にいる未来の為に削りました。
でも、貴方はそうじゃなかった。
本気で一緒にいたいと、その為にどうしようと考えてたのは私だけですか?」
涙の落ちた跡がある。心臓の辺りが酷く疼いた。
「虚しかった。貴方は貴方らしくあるだけ、私は私でなくなって。
貴方と一緒に過ごす未来を描いて、実行に移そうとしてるのは私だけに思えました。
貴方に愛されているのか、貴方が私を支えたいと思ってくれているか、貴方がそばにいてくれるのか、全部が少しずつ分からなくなっていきました。
この恋を運命にしたいと思ったのは私だけだったのかな。
私はただひたすらに、寂しかった。」
何度も何度も彼女をに言われてきた言葉の本当の意味が、今になって少しずつ分かってきた。
つまり俺は、今まで彼女の伝えたい事を理解出来てなかった。いや、理解しようとしてなかった。
彼女がこれだけ助けを求めていたのに、俺にはそれが見えていなかった。なんて馬鹿な話だ。
「寂しいと言った時に、何でもない話を色々してくれるだけで良かった。自分でも抑えきらない悲しさや不安に対して、大丈夫だよと言ってくれるだけでよかった。喧嘩した時は、ごめんね以外の言葉を考えて伝えてくれるだけでよかった。私は貴方に考えて欲しかった。
でもそれも、もう無理だと分かってます。だからこうして手紙を書いてます。
無理なのならばもう、これ以上傷つきたくはないし傷つけたくないです。」
俺が想像していた何倍も何十倍も彼女は考えて、そして1人で戦っていた。
そして、1人にしてたのは俺だった。
「何度も言うよ、私は本当に貴方が大好きです。愛しています。貴方を運命の人にしたかった。
どうして上手くいかないんだろう。私がもっと大人だったら良かったのにな。大人じゃなかったからかな。
でももう子供でもないから、愛してるだけでは一緒に居られないの。貴方と一緒に居るには、私はあまりに削れすぎてしまいました。
貴方に最後に賭けをと言いましたね。私は貴方に、私の好きだった本が何だったか聞いてみたいと思うんです。もしも貴方が覚えてくれていたなら、私はもう少しだけ頑張ってみようと思います。
貴方に賭けています。私が愛した貴方に、貴方を愛した私に、賭けます。」
彼女が居なくなる前、そうだ、聞かれた気がする。俺はなんと答えた?彼女のその問いに、俺は。
『俺が覚えてないって分かってて聞いてる?また俺の事馬鹿にしてんの?そんなに言うなら、本が好きで記憶力も学力もある奴でも見つけたら?』
そうだ、俺は。
彼女の最後の賭けを踏みにじったんだ。思い出せなかった。彼女の好きな本を。それに勝手に苛立って、彼女に当て付けた。自信のなさを彼女に押し付けた。
彼女は1人ぼっちだった。一緒にいた気になって、もっともっと孤独を与えてたのは俺自身で。彼女をどれだけ傷つけてたかも知らないで。
「最後に、その内忘れっぽい君は私の事も忘れると思います。でもそれでいいです。私だけが覚えていればいいんです。そして、貴方は貴方の人生を歩んでください。
どれだけ傷つけられたかを話してしまいましたが、そんな事も許して一緒に居たいと思うほどに、私は貴方が好きでした。さようなら。 敬具」
彼女は最後の最後まで正しかった。そして、俺の愛した美しさのある人だった。2人でいる時にどうしてもっと近くにいってあげられなかったんだろう。体の距離じゃなくて、心の距離を求めていたのに、どうして答えてやれなかったのか。
彼女は今元気だろうか。
俺も本当に彼女を愛していた。それを伝えられなかった。傷つけてしまった。
願わくば幸せであって欲しい。
笑顔でいて欲しい。
俺ではない、誰かの隣で。
秋の香りがする。カーテンを少しだけ開けて、俺は外を眺めた。
風が吹き込み、そっと閉じられた封筒の封を開けた。
封筒の内側には、便箋に綴られたのと同じ癖のある凛とした美しい文字が並んでいる。
「追伸。
そそっかしい君はきっとこの文章に気が付かないと思います。でももし、気がついたときには。
花ヶ崎霊園、1列目の1番左端
いつか私に会いに来てください。」