挿話1
◇◇◇
「オルベルト・ガーランド……です」
「は、初めまして。アトレイア・ファレルです」
13の年。私はガーランド家主催の茶会で、初めてオルベルトと顔を合わせた。そのとき、すでに両家の間では婚約の話が持ち上がっていて、私たちは事情を知る大人たちの、見守るような生ぬるい視線に晒されていた。
自分の人生を左右しかねない重要なイベントであるはずだった。しかしながら、当事者であるはずの私には、その瞬間に至るまで自分に婚約者候補がいるなんて話、伝わってすらいなかった。
突然未来の旦那様になるかもしれない少年の前に立たされた私は、訳も分からず当たり障りのない挨拶をして、視線を足元に固定した。とにかく恥ずかしくて、オルベルトの顔なんてまともに直視できなかった。
——お母様の嘘つき。
後ろで友人たちとご機嫌な笑い声を響かせる母を、私は恨んだ。
数日前、最近お勉強を頑張っているからドレスと靴を買ってあげる、と急に街へ連れ出された。今日は突然お友達のお宅で楽しいお茶会があるからあなたも買った服を着て来なさいと、ガーランド邸まで引きずられた。
妙に強引だなとは思っていたけれど、まさかすべて、自分のお見合いもどきのために仕組まれていたことだったなんて。
何が楽しいお茶会か。悪魔集会の方がまだマシだった。
「この子たちったら、照れちゃって。初々しいわぁ」
「美男と美女で絵になるわね。とってもお似合いよ」
茶会の参加者は妙齢をとうに過ぎたご婦人ばかり。皆こちらの事情を一瞬で察して、即席仲人トークを展開しつつ、照れる若人2人を肴にニヤニヤしながら紅茶を啜っていた。
そう。確かに私は照れていた。
当時、師匠の下で修行する傍ら魔術学校にも通っていたけれど、周囲にいる男の子は良くも悪くも性別を感じさせないもやしっ子ばかり。皆、頭を動かすことに忙しすぎて体を動かす暇などなかったのだ。だから自分と、同年代の少年達の間に、「ついているかいないか」以上の大きな差はないものと私は勝手に思い込んでいた。
しかし目の前の婚約者候補は、年齢が1つ違いとは思えないほど背が高く、がっしりとしていて、声は低い。頰や袖口から覗く腕には、生傷なんてものまであった。
彼の精悍な佇まいに、「男の子」に対するこれまでの認識を覆されて、私は衝撃を受けた。そして、その頼り甲斐のありそうな姿に不覚にもドギマギしていた。
「こら、オルベルト。いつまでも黙っているんじゃありません」
挨拶したきり貝のように黙りこくる息子を、ガーランド夫人が突いた。
母も夫人に続いて、私に小言を漏らす。
「貴女も、俯いていないで前を向きなさい。失礼でしょう」
それでも一向に口を開かず硬直する私たちを眺めて、茶会の女性たちはころころと笑った。
「私たちみたいなおばさんがいるから、緊張してお喋りできないのよ」
「あらやだ、私たちったらお邪魔虫ね。いけないわ」
「そうよ。ここは若者同士、2人っきりにしてあげるべきだわ」
——え!?
自分たちを取り囲む会話が不穏な方向に流れ始めて、私もオルベルトも顔を上げた。
しかし周囲を見回しても、ご婦人方の微笑みが返ってくるばかり。助け舟を出そうとしてくれる人物など、1人もいなかった。
「確かに、あまり大勢で囲んではゆっくりお話もできないわね。オルベルト、アトレイアさんをお連れして、ちょっとお散歩してきなさい」
ガーランド夫人が優雅に、しかし有無を言わさぬ口調で言った。
茶会の長たる彼女の決定に、オルベルトも私も、異を唱えることなどできなかった。
◇
おろしたての靴がぎゅうぎゅう締め付けてきて、両足のあちこちが痛かった。
それでも、オルベルトがむすっとした表情で勝手に庭をぐいぐい進むので、私は必死に彼を追った。
ガーランド夫人ご自慢の藤棚や、庭を彩る見事な彫像の数々を気にもとめず横切るオルベルトの背中は、怒っているようにも見えた。
私のことが気に入らなくて、腹を立てたのだろうか。でも、私だって何も知らされていなかったのだ。機嫌を悪くされる謂れなどない——そんな、不安と不満が胸を渦巻いた。
いっそこのまま彼だけ先に行かせて、自分は茶会の会場に戻ってしまおうか、とさえ思った。
でも、そんなことをすれば、彼が叱られてしまうかも、なんて妙なところに気を回して、結局私は痛む足を前へ前へと動かした。
「まったく、最悪だ」
「え?」
突然悪態を耳にした私は、全身を強張らせた。
立ち止まってしまった私に気づき、オルベルトが振り向く。動かぬ私を怪訝そうに見たけれど、やがて私の表情に気がつき、彼は慌てて首を振った。
「あ——。き、君のことじゃない。さっきの、茶会のことだ」
「茶会?」
「ああ。大事な用があるからと急に呼び出されてみたら、あんな大勢の前で婚約がどうだと言われて……。それまで、君のことなんて全く知らなかったんだ。母上ときたら、悪ふざけが過ぎる」
「……」
なんだ、彼も自分と同じ境遇だったのか。思いもよらぬ仲間を見つけて、私は心が軽くなるのを感じた。見た目よりも年相応なオルベルトの口ぶりに、少しほっとしたりもした。
確かに最悪だった。婚約の話を仄めかしたら私が逃げると考えて、母は茶会で婚約者候補と引きあわせるという荒業に踏み切ったのだろうけれど、こちらとしては迷惑甚だしい。
ご婦人だらけの茶会に1人引き込まれた挙句、私と同じように不意打ちを食らったオルベルトは、もっと窮屈で苦々しい思いをしたことだろう。
「……私も、です。お母様にお茶会があるからといきなり連れて来られて。自分に婚約のお話があったなんて、知りもしませんでした」
「そうか」
「……」
「……」
話すことがなくなって、二人とも立ちん坊のまま沈黙した。
何も話さないものだから、草木が風に揺れる音がよく聞こえた。それに混じって、婦人たちの愉快そうな笑い声もわずかに聞こえた。
「……足、痛むのか」
「えっ」
どうして、足が痛いだなんて分かるのだろう。
不思議でオルベルトの顔をじっと見たら、彼は少しだけ顔を赤らめて私から視線を逸らした。そして、気まずそうに話す。
「足を庇うようにしているから。気づかなくて、すまない……」
「い、いえ。慣れない靴を履いてきた私が悪いんです」
「とにかく、座った方がいい」
オルベルトはきょろきょろと周囲を見回し、生垣に囲まれた小さな噴水の近くに目を留めた。
「あそこなら腰を下ろせる」
彼が指し示したのは、鉄製の白いベンチだった。噴水を眺めるために置かれているらしい。
オルベルトはベンチに駆け寄り、その上に落ちた木の葉を手で払った。それから少し躊躇い気味に、上着を脱いでベンチに被せた。
「わ! そこまでしなくていいです! 私、普通に座れます」
「別に、いい。女性にはこうするように、教わっているから」
私が慌てて広げられた上着を持ち上げようとすると、オルベルトは馬鹿正直にそう答えた。そういうことは黙っておいた方が、確実にポイントは稼げる——と、細かい点までは教えてもらえなかったらしい。
しかし14歳の彼が持ちうる紳士性を総動員したのは紛れもない真実で。それまで男の子にレディ扱いされたことがなかったうぶな私は何も言えなくなり、勧められるがままベンチに腰掛けた。
「……」
「……」
「……あの。貴方は座らないのですか」
「え」
腰掛けたはいいものの、その様を無言で見下ろしてくる異様な影に耐えかねて私が訊ねると、オルベルトが間抜けな声を漏らした。
「いや。俺は別に、足は痛くないし……」
「でも……。私だけ座っているのも、変ですし……」
ずっと見下ろされているのも、色々辛かった。
言外に滲む私の恥じらいを察したオルベルトは、あわあわと誤魔化すように視線をあちらこちらへと漂わせた。しかし最終的にはこのままじゃ気まずいだけだと気付いたらしく、恐る恐るといった様子で、私の横に腰を下ろした。
「……」
「……」
ベンチに並んで座る、私たち。
何を話せば良いのかわからず、そうこうしている内に、沈黙を破るタイミングを完全に逃してしまった。
それから、陽が傾き、茶会はもうお開きだと使用人が声をかけにくるまで。
私たちは無言のまま、噴水が描く水の線をひたすら眺めたのだった。