第一章・磯鶴高校船釣り部・その三
「そういや例のやつどうなった?」
歩はロープのついたビニール製の水汲みバケツで、汚れた手を海水で洗っていました。
「例のやつって……ヒラさんの歯?」
交代して八尋も手を洗います。
「そうそう。自力で加工したんだろ?」
異世界でヒラシュモクザメにもらった歯はナマモノで、こびりついていた肉の尿素がアンモニアに変化して悪臭を放っていました。
「ネットで調べてパイプ用洗剤に浸けたよ。それから一週間干して……」
「なに作った? キーホルダーか?」
「ううん、革紐のペンダントにした。ほら」
「UVレジンか! 考えたな!」
クリアブルーで角の丸い三角形のペンダントトップに、ヒラシュモクザメの歯が埋め込まれていました。
二液混合型のUVレジンなので、型に入れて数日間放置するだけで作れます。
「道具と材料はお父さんにもらったんだ」
「あの親父さんか……さてはルアーを手作りしようと考えてたな?」
八尋のお父さんは釣り具メーカーの社員で、かなりディープな釣りバカです。
「よくわかったね。でも型を作れなくて断念したっていってた」
「型取り用のシリコンなら、最近は百均でも扱ってるらしいぜ?」
「そうなの? じゃあ、あとで教えとくよ」
一品あたり百円なら失敗しても惜しくないので、成功するまでいくらでも挑戦できます。
「しかし八尋にしちゃワイルドなデザインだな」
「どんなの期待してたの……?」
「ファンシーなやつ。ピンクのハート型とか」
「歩さんがぼくをどんな風に見てるか、よくわかったよ」
怒りで八尋の頬がプク~ッと膨れます。
「そんな可愛い顔すっから揶揄われんだよ」
「顔を替えられるくらいなら苦労しないよ」
サメの歯を服の下の戻して、八尋は次の釣りに備えて仕掛けの準備を始めました。
そしてキャスティングをしようと竿を振り上げた、その時。
「ちょっと待て。お客さんだ」
八尋たちのいる堤防に、船が近づきつつあります。
「……あれ? こんなところにも船くるの?」
小型の漁船か遊漁船(釣り船)のようです。
「ありゃ【あさがり丸】だ」
「あさがり丸?」
全長八メートルほどの小舟で、磯鶴高校の女子がマストに取りついて、大漁旗を掲げている最中でした。
制服のリボンタイが赤いので、一年生のようです。
「今年の四月にできた船釣り部の船だ。刺し網漁船の中古で排水量は一・五容積トン」
歩は凛々《りり》しい熱血眉毛を顰めています。
「そんな部活あったんだ……」
陸っぱり(海岸からの釣り)専門の釣り研究部と、小型とはいえ遊漁船を有する船釣り部。
きっと部員の獲得競争とかで揉めているに違いありません。
「歩―っ! まだそんなところで釣ってたの⁉ いつまでも小魚ばかりで飽きないんですかねえあなたは!」
黄色い救命ベストを着たおさげの女子が、八尋たちの目の前で停船したあさがり丸の大艫(甲板の最後尾)から歩を挑発しました。
「マンガみたいな仲の悪さだ!」
予想が的中しすぎて笑うに笑えません。
「副部長で名前は綱島莞子。いっつも俺に喧嘩売ってくるタチの悪ぃ女だ」
いわゆる犬猿の仲というものです。
「俺は小魚のプルルッてアタリが好きなんだよ! 一メートル以上の獲物にゃ興味ねぇ!」
莞子の挑発に応戦する歩。
小夜理は遠くでダンマリを決め込んで、隣の風子は不思議な踊りの真っ最中。
「一メートルとは行かないけど、今日はクロブタ(イサキ)が爆釣だったわ!」
横長のクーラーボックスから、三十センチほどの魚を取り出しました。
背面が暗褐色で、タイとアジの中間みたいな魚形をしています。
「これがざっと三箱分よ!」
「そんなに釣ってどーすんだ! 食いきれねぇだろ⁉」
「おあいにくさま! 今日は男子バレー部とBBQの予定なの!」
「くっ……リア充部活めぇ!」
釣り師にあるまじき軟弱ぶりに、歩は拳を震わせます。
「歩も自分たちばっかり食べずに少しは……きゃあなにすんのよっ⁉」
「わあ八尋きゅんだー! 八尋きゅんヤッホー!」
大漁旗の掲揚作業を終えた女子たちがわらわらと集まって、その一人が莞子を押しのけ手を振りました。
「あっ、まさかあの人……」
八尋に声をかけたのは、教室で見覚えのある生徒。
「鍔黒作江だよー! 八尋きゅんまたモフらせてー!」
ショートボブでちょっと背の高い女の子でした。
「わあっ!」
転校初日にクラスで【稲庭くん七つの誓い】が制定されるに至った騒ぎの原因を作った女子で、いわゆる天敵。
一昨日、日直を口実にモフモフされたばかりです。
「キャーッ可愛いじゃん! 私にもモフらせて!」
「日暮坂さんは……いい新人入れたね……」
我も我もと八尋に注目して、船上がパニックになりかけています。
「みんないい加減にして! いまは私が宣戦布告してるとこなんだから!」
莞子が歩との口喧嘩を続けようと、他の部員たちを追い払おうとしました無理でした。
「宣戦布告なんて、いつもやってるじゃん」
「そうそうー、喧嘩なんて売るだけ無駄無駄―」
「それより……あの子モフりたい……」
船釣り部員たちは、とうとう押し競饅頭を始めてしまいました。
『みんなごめんね! 釣りの邪魔になるから、もう退くよ!』
操舵室の男子部員が外部スピーカーで歩たちに謝ります。
「いいっていいって! いつものこったけど、光ちゃんも苦労してんなぁ!」
『じゃあ歩ちゃん、またね! 叔父さんと叔母さんによろしく!』
後部甲板でワイワイ騒ぐ部員たちをよそに、あさがり丸は堤防を離れて行きました。
「釣り研なんて四人しかいないのに、なんで廃部にならないのよーっ!」
それでも莞子の遠吠えは続きます。
「受験勉強中の三年生を含めりゃ七人だ! そっちはまだ五人だし、発足早々顧問が寿退職しちまっただろ!」
「五人だから存続できますーっ! それに顧問は新任教師かきたから平気だもん!」
口論を続ける莞子と歩でしたが、そのうち船が離れて完全に声が届かなくなりました。
「歩さん、あの船長、知り合いなの?」
女子に混ざって男子一人で孤立無援。
八尋はなんだか親近感が湧いてきました。
「船釣り部の部長で、俺の従兄だ。二年で名前は相楽光蔵ラックス」
「あの人もクォーターなの?」
八尋はなんとなく事情が飲み込めてきました。
「ああ。でも最近、莞子の奴が、やたらと俺に絡むようになってなぁ」
「綱島さんって、もしかして相楽先輩の……」
「幼馴染だ。昔は俺とも仲がよかったんだが……」
操舵室にいたので光蔵の姿は見えませんでしたが、きっと日本人離れしたイケメンに違いありません。
「どうして俺を嫌うようになったのか、さっぱりわからねぇ」
八尋にはわかりました。
好きな人の近縁に金髪でおっぱいの大きな美人がいたら、敵愾心を燃やすのも当然です。
そして莞子は救命ベストの上からでもわかるほど貧……慎ましいお胸をしていました。
「歩さん鈍感すぎるよ……」