第五章・魔性・その三
「釣王に魔性あり」
船長室に入った巻網媛は、抄網媛を殴りませんでした。
もちろん殴ったら死ぬか気絶してしまうからです。
それでは話ができません。
「常世よりきたる釣王には、男女を問わず人を惹きつける魔力があったそうじゃ」
支夏の推測は的中していたようです。
「おお伯母上! そう、その通りなんだよ! あの八尋くんって子は……」
「……………………」
巻網媛は、捕縛されても口が止まらない抄網媛を一瞥すると……。
「喝ッ‼」
気を放ちました。
神気や神力を伴わない、己の気組みだけでの一喝です。
ビリビリビリビリビリビリビリビリッ!
豪気で船長室が振動し、鏡やガラスの照明がすべて粉々に砕かれました。
舷窓にも罅が入っています。
「それしきの神気に狂わされるとは、修行が足りぬわっ!」
探知能力に優れた玉網媛が白目を剥いて卒倒し、宝利が慌てて抱き支えます。
「…………伯母上? あれ? ここって蜂雀の艦長室?」
抄網媛は目を丸くして呆けていました。
「たわけ者が。ここは霜降雀の船長室じゃ」
「抄網姉……まさか、なにも覚えておらぬのか?」
「宝利? おっと宝利よ、妾の着換えはどこでしょうか? 確か浴室で蕃神様と……あれ?」
演技を思い出しても、お風呂場で八尋に会って以降の記憶は思い出せない抄網媛でした。
「参ったな。これでは話が聞けぬ」
玉網媛も巻網媛の一喝で気を失っています。
「いや、いまのでおおむね腑に落ちた。かの蕃神様はまさしく釣王の再来じゃ」
「やはりか……。しかし八尋はさきほど常世へと帰ってしもうたぞ」
「知っておる」
玉網媛ほどではありませんが、巻網媛も神気の探知に長けています。
「あちら側に目標となるものがあるのじゃろう。宝利はなにか聞いておらぬか?」
「……そういえば白和邇に歯を頂戴したと申しておったな。いまは常世にあるらしい」
「それじゃ」
「そうか、さきほど和邇も八尋に歯がどうとか申しておったようだ」
「なるほど、ならば懸念はのうなった」
次に帰れなくなった時は、もらった歯を念じればよいのです。
「問題はこやつじゃ。召喚のたびに蕃神様の魔性に惑わされるようでは話にならぬ」
「妾なら平気であるぞ?」
「まるで抵抗できぬであったろうが」
呆れる宝利。
「伯母上、平民は蕃神様と口を利いてはならぬという法度は、まさか……?」
表向きは神と人とを交わらせないための法律、という事になっています。
「皇族や貴族ならばともかく、一般市民では魔性に耐えられぬであろう。蕃神様への接近には相応の神力が必須じゃが、それだけでは足りぬ」
蕃神の地位が軽く見られると、同じ神とされる女皇の威厳が損なわれる、という陰の理由もありますが、さらに裏があったとは驚きです。
「胆力(気合)がのうては魔性に踊らされる」
抄網媛の精神力はそれなりに強靭ですが、ストレス解消のために焚いた甘松香の薬効が仇となり、心に隙を生じています。
ただし元から八尋を布団部屋にこっそり連れ込んで十八禁展開しようと企んでいたようなので、魔性に惑わされたのは、返って幸運だったかもしれません。
「抄網姉は忍耐が足りぬであったか」
「いや、こやつもそれなりに耐え凌いでおったのじゃろう」
拐かして無理矢理手籠めにしようとしてしまったからこそ、魔性に抵抗して、宝利が到着するまで耐え凌いでくれたのです。
それは同時に、女の子に乱暴をしないという抄網媛の矜持を捻じ曲げるほど、八尋の魔性が強力である事を意味していました。
「徐々《じょじょ》に魔性の浸食を受け、抗う術を失うても、まだ時間稼ぎを試みておったようじゃ」
「吾輩が止めるのを待っておったと申すのか⁉」
「いやあ、お褒めに与り恐悦至極」
抄網媛は猫を被るのも忘れて飄々《ひょうひょう》としています。
「魔性持ちは度々《たびたび》現れると聞き及んでおる。いま思えば儂の現役時代にも、それらしき蕃神様が三尊はおった」
「いま思えば……という事は、当時は気づかなんだのか?」
「此度の騒ぎを引き起こした蕃神様に比べれば、どうという事はない」
「八尋の魔性は桁違いか」
「匹敵いたすのは釣王のみであろうな。世羅家の文献によると……」
皇室に写本がない古文書が醒州に存在した件は、巻網媛(正確には柑子首相)にも報告が届いています。
「魅了の神気は……そうじゃな、あえて申すなら、艶気、妖気、色気といったところであろう。蕃神様によって仔細が異なるようじゃ」
「八尋はなんであろうか」
「会うてみねばわからぬが、抄網の所業からして邪気を招くものであろう」
人心を誑かす魔性には違いありませんが、悪意や悪戯心を伴うのが厄介です。
「釣王とは少々異なるようだな」
八尋の魔性では国盗りなんて不可能でしょう。
家臣全員にセクハラされるのが関の山です。
「かの王は老若男女を問わず惚れられる体質であったようじゃ。おそらく艶気の類であろうが、詳しくはわからぬ。常に魔性を身に纏い、民を惑わせ世を騒がせ、弥祖建国の発端になったといわれておる」
「して、八尋が釣王の再来と申される訳は?」
魔性の持ち主が八尋だけでないのなら、別の理由があるはず。
「傍におる者はみな神力を吸われる。蕃神様を除けばじゃ」
「あれか……」
「神力がのうなっては釣王に敵う者などおらぬ」
釣王に蹴られて上半身を消し飛ばされた八百年前の領主も、多少は神力が使えたはず。
「皇室の血を引く者でなくとも、神力持ちはおるといわれておるが……」
そうでなければ釣王以前の蕃神召喚が成り立ちません。
「これは勝てぬが道理であるな」
神力自慢の宝利なら八尋を抱えての跳躍も可能ですが、玉網媛は甲板への吸着すらできず、抄網媛も細剣への神力付与ができなくなっています。
「蕃神様の神力は皇族に劣る。おそらく釣王は、そこの愚か者にすら及ばぬじゃろう」
ただし接近戦なら釣王が一方的に神力を揮えます。
「しかし何故八尋が?」
「神力の及ばぬ領域……宝利にも心当たりがあるじゃろう?」
「魔海か」
「悪樓は常世よりきたるとの説もある。かの蕃神様が魔海と無縁じゃとは思えぬ」
「…………釣力」
釣力は宝珠を通し魔海の中だけで使える、蕃神独自の特殊能力です。
「ふむ、釣力は常世の力と申すか。それは興味深い推論じゃな。なるほど現世にも及ぶ釣力の余波か」
実際、八尋は神楽杖がなくてもヒラシュモクザメと通じ合えています。
特殊な例とはいえ、釣力が通常の空間にも伝わっているのは間違いありません。
「他の蕃神様に影響が及ばぬのも合点がゆく」
「しからば対策は?」
「どうにもならぬ。それに不要じゃろう」
か弱い八尋には貴重な防衛手段となるかもしれません。
「じゃが魔性であれば封じる手はある。釣王は白和邇の宝珠でどうにかしておったようじゃ」
「身につけさせればよいのか? 次があれば試してみよう」
釣王に有効なら、八尋にも通用する可能性は大です。
「文献には詳細が記されておらなんだが、おそらくそれでよいはずじゃ」
「だが八尋の事だ、次と申しても、なにが起こるかわかりはせぬ。二度と抄網姉を近づける訳には参らぬな」
「いや、そちらは儂に任せよ。この阿呆でも鍛えればどうにかなるじゃろう」
「おおっ、八尋様の話であるか? 妾も混ぜ……可愛かったなあ」
抄網媛は魅了の神気を抜かれても、昨夜の記憶を失っても八尋に夢中でした。
「本当にどうにかなると存ぜられるか?」
「ううむ、もはや手遅れやもしれぬな……」
天井の装甲板をぶち抜いて後部信号檣の天辺まで放り上げれば治るものか、真剣に考え始める巻網媛でした。
ちなみに見張り所まで殴り上げられた柑子主相は、それで恋の病が悪化しています。




