第五章・魔性・その一
「八尋が帰ったぞ」
霜降雀の後部甲板に残された海水やゲ〇で汚れた浴衣の清掃を、手近な水兵さんに頼み、宝利命は玉網媛たちのいる船長室に顔を出しました。
懐にはヒラシュモクザメの白い大きな宝珠が収まっています。
「ええっ⁉ あの子は常世に戻れないんじゃなかったのかい⁉」
赤い麻縄で縛られた抄網媛が、驚愕と不満の声を上げました。
ちなみに乳掛縄と呼ばれる女性向けの縛り方です。
気絶していた支夏命は、縄と猿轡を外されて、いまは医務室の寝台で絶賛療養中。
「わたくしは気づいておりましたが……どうやら抄網が神気の探知を苦手とするというのは真だったようですね」
「うんでも悪樓の取り込みには向いてると思うよ? 召喚術だって立派にやり遂げて見せたじゃないか」
抄網媛の顔には反省の色が見えません。
「こやつ、まるで悪びれておらぬな」
反省どころか悪気がまったくないのです。
「まだ狂気に身を任せておると見える」
「正気ではないと? 確かに頭がおかしいとしか思えませんが……」
「兄上は八尋に原因があると申しておった。当人にも自覚があるらしい」
「そうでしたか……でも案ずる事はありません。あのお方がどうとでもしてくださいます」
「あのお方?」
「そりゃ誰だい?」
「そろそろ到着の頃合いです。宝利、堂々巡りは気が引けるのですが、もう一度後部甲板に向かってください」
「承知した。伝馬船の収容準備であるな?」
「おそらく不要とは存じますが……念のため」
「任せよ」
傾斜梯子を駆け上がって空を見上げると、そこには醒州海軍の艦隊に混ざって、霜降雀と同型の小早が浮いていました。
小早は包囲網の内側に進入し、霜降雀に近づいてきます。
「【帯枯葉】だと⁉」
帯枯葉は主に首相が国内での長距離移動に使っている政府専用船です。
「伯父上……首相が参れば大事になるぞ!」
主席宰相の柑子寛輔御自ら政府専用船を使っての来訪ともなれば、事件を内々に済ませられなくなります。
しかし帯枯葉の舳先に現れたのは首相ではなく、紫色の留袖を着たご婦人でした。
「伯母上⁉」
「ほうっ!」
ご婦人は舳先から飛び出すと、空中で二回転して霜降雀の後部甲板に降り立ちました。
神力を用いた跳躍で束髪が解れ、四房の白毛で縞々《しましま》になった長髪をたなびかせています。
「宝利か。久方ぶりであるな」
四十過ぎとは思えないほど若々しく、鋭い眼光を放つ美女でした。
元・魔海対策局長にして前・神官長。
首相夫人に収まってからは柑子巻網を名乗っていますが、皇籍を返上し人妻となったいまでも巻網媛と呼ばれ恐れられています。
あらゆる魔海の発生を予知し、どんな悪樓でも取り込み、あまつさえ神力自慢の寛輔をぶん殴ってハートを射止めたといわれる、弥祖皇族きっての女傑。
彼女を知る者はみな陰で【ばけもの】とか【弥祖の鬼媛】などと呼び、そう呼ぶと、どこからともなく巻網媛が現れて、ぶん殴られるといわれています。
巻網媛は残業や徹夜に励む柑子首相に、よく着換えやお弁当を持って行くのですが、夜道を歩くのに護衛を使った事がなく、また護衛を薦めた者も存在しません。
悪漢どもが一目見て逃げ出してしまうからです。
何度か頭の悪い通り魔や強盗が襲いかかった事はありますが、翌朝になって電信柱の天辺に引っかかっているのを近隣住民に発見されるのがオチでした。
まるで百舌鳥の速贄です。
そして悪党たちの間に『夜の皇都は人を喰らう美女の怪異が現れる』と噂が立ちました。
そのせいか、抄網媛が柑子家に嫁入りして以来、皇都の犯罪発生率が激減しています。
「お役目ご苦労であった」
「う……うむ。伯母上もご機嫌麗しゅう……」
宝利は一目見て『これは勝てぬ』と確信しました。
神力はもちろん、無手の勝負でも片手であしらわれそうです。
子供の頃に平手で殴られ、頸が折れそうになった事がありましたが、あれは優しく撫でようとしただけであったと、いま気づきました。
当時は訳もなく叩かれたと憤慨したり落ち込んだりしたものですが、よもや愛情表現だったとは。
「抄網姉は生きて帰れるとよいが……」
思わず性犯罪者の生還を願う宝利でした。




