断章・その四
「宝利……ヒラメ釣りの時だけど、神力が使えなかったの? ぼくのせいで?」
八尋は遅れてやってきた【霜降雀】の後部甲板で項垂れていました。
はだけた浴衣は帯を締め直され、半纏がかけられています。
そしてその後ろには巨大なマッチョ。
「それなりには使えた。仔細ない」
宝利の法外な神力は、八尋の無効化を僅かながら上回っていました。
しかし、さすがに連続ジャンプはキツかったのか、途中で神力切れを起こして着地に失敗し、足首と背中を負傷しています。
「八尋のせいでもなかろうし、あの程度の怪我など、吾輩にはどうという事はない。終わりよければ全てよしだ」
「そうかもしれないけど……それに、さっき刺されたところ、本当に大丈夫だったの?」
「薄皮一枚といったところであるな」
宝利に大胸筋を見せてもらっても、傷口がどこにあるのか、さっぱりわかりません。
「まさに鋼の筋肉だ……」
漫画みたいな頑丈さです。
「触ってもいい?」
「むうっ⁉ い、いや……勘弁してくれ」
宝利は顔を真っ赤にして後ろを向いてしまいました。
八尋はウルル(エアーズロック)のような胸板を隠されて、ちょっと残念そうです。
「それより誘拐犯の処遇だが……」
抄網媛は霜降雀へと回収されて、いまは船長室で拘束されています。
「世羅家の対応にもよるが、おそらくは内々に処理されるであろう」
「まさか人知れず処刑とかされないよね?」
危うく手籠めにされるところだったのに、八尋は抄網媛の心配をしていました。
「刑法は適用されぬ。だが相応の罰……いや、仕置きが待っておるであろうな」
「あの人なんか様子がおかしかった。必死になにかと戦って、ぼくを助けようとしてたんだ」
「助けるどころか狼藉されておったように見えたが……」
「エッチなことをしたいのに、頑張って我慢しようとしてた」
押し寄せる劣情と戦うのは、女たらしで強欲な抄網媛には耐え難い苦行です。
「なるほど兄上もそのような事を申しておったな。玉網姉に調査と酌量を進言しておこう」
「ぼくの周りにいる人は、みんなああなるんだ。目玉がグルグル回って、正気じゃなくなっちゃう」
抱きしめられたりセクハラされたりは日常茶飯事です。
「己の力でどうにもならぬものを気に病むな」
「いつか大変な事になるって思ってたけど……本当にそうなっちゃった」
「間に合うたであろう? 八尋がこの世におる限り、吾輩がいつでも守り進ぜよう」
「守られてばっかりじゃ駄目なんだよ……」
宝利はプロポーズのつもりでいったのですが、初心な八尋には通じませんでした。
「うむうっ……だが、他者に好かれるのは八尋の力であると思うぞ?」
船べりに巨大なヒラシュモクザメが顔を出しました。
纏う光波を黄緑色から青へと変じて、生成り状態のまま霜降雀と並走しています。
「あの白和邇も八尋の力であり眷属であろう?」
霜降雀の周囲には、抄網媛と支夏命の身柄を気遣う醒州海軍の艦隊が取り囲んでいますが、サメは平然と泳ぎ回っています。
「ヒラさんは友達だよ。あの子もぼくの力だっていうの?」
八尋は気づいていました。
ヒラメ釣りの時にヒラシュモクザメが八尋の元へと馳せ参じたのは、体質かなにかが釣王に似ているせいだということに。
「釣王のお下がりだろうが、いまは八尋の友だ。和邇とて義理でつきおうておる訳でもあるまい」
「……そうだね」
ヒラシュモクザメが八尋をどう思っているのかは、感情が繋がっている八尋自身が一番よく知っています。
縁を結んだのは釣王ですが、サメと八尋の友情は本物でした。
「でも、友達に助けられてばっかりなのは、どうかと思う」
「見返りか? それは八尋の笑顔だけでじゅうぶんであろう」
宝利は片膝をついて、八尋と目線を合わせました。
「笑え。さすれば吾輩も、この命続く限り笑おう」
八尋に顔を近づけてニヤリと笑います。
「末永く吾輩の傍におれ……いや、おってくれ」
次の瞬間、宝利はたちまち頬を赤らめ俯いていました。
「……………………」
さすがの八尋も、いまの言葉がプロポーズだと気づきました。
プニプニのほっぺがみるみる桜色に染まります。
そして後ろを向くと、
「ごめんね。ぼく、やっぱり元の世界に帰りたい」
「…………そうか。ならば致し方あるまい」
プロポーズを断られたからといって、顔を顰めるような宝利命ではありませんでした。
八尋に笑えといったからには、意地でも笑顔を崩しません。
「だが如何にして戻ると申すのだ?」
「わかんない。でも帰らなきゃ」
その時、霜降雀の直上をヒラシュモクザメが追い抜きました。
「えっ? ヒラさん、なにかいった?」
サメは周囲を旋回して、また船尾の傍に戻ります。
「ヒラさんにもらった歯? あれがどうかしたの?」
バシャッ!
その瞬間、八尋の姿が消失しました。
あとには濡れた甲板と吐瀉物が残るのみ。
生成りのヒラシュモクザメも姿を消し、宝珠に戻って後部甲板を転がります。
「……相変わらず八尋は神出鬼没であるな」
八尋が元の世界に帰れなくなって、ずっと女の子のままになって、ようやくチャンスが訪れたと思ったのに、プロポーズした途端、あっさり逃げられてしまうとは。
磯鶴高校三年A組、稲庭八尋。
もうすぐ十六歳。
元は男の子なのに、なかなかの女狐ぶりです。
「そして常に吾輩の心を搔き乱す」
弥祖皇国第三皇子、宝利命。
満十六歳。
同じ相手に二度目の失恋でした。




