第三章・ピローファイト・その五
「ここはいつ見ても空が綺麗だね……」
洗い場で丁寧にかけ湯をして汚れと海水を洗い流し、石鹸で頭を洗います。
「変な臭い……ぼくじゃないよね?」
ゲ〇の臭いではありません。
「石鹸やシャンプーの香りじゃないし、それになんだかカビ臭い感じ」
浴槽に踏み込むと、ますます臭いが強くなりました。
「温泉に薬湯って変だし……あっ、お香か」
前に宝利と語り合った思い出の大石に、小さな香炉が置いてあるのを発見しました。
「あんまりいい匂いじゃないけど、なにか薬効とかあるのかも」
謎が解けて一安心。
大石に背を預け、ゆっくりと肩までお湯に沈めます。
「ふうっ……」
一息ついたら不安が蘇ってきました。
「これからぼく、どうなっちゃうんだろ……?」
前回の経験から考えると、もし帰れるなら、いつ元の世界に戻っても、召喚された瞬間の、みんなと同じ時間に行けるはず。
でも永遠に帰れないとしたら、あっちの世界にある肉体はどうなってしまうのでしょう?
こっちの世界にいる間に、再び召喚された歩たちに聞けばわかる事ですが……。
「ずっとあとになってから帰れるとしたら?」
それはそれで別の問題が生じます。
「タイムパラドックス」
古いSFの概念が頭を過りました。
八尋がいつ帰っても召喚時と同じ時刻に行けるなら、もし何カ月、何年も経ってから帰ったとしたら、来週あたりに再びやってきた歩たちは、未来の八尋と遭遇している事になります。
そして次の召喚よりも後に帰る場合、さらにその次の召喚で、未来の自分と鉢合わせする可能性が生じてしまうのです。
「それってアリなのかな?」
ありえないとはいいきれません。
「このまま帰れなかったとら、あっちの僕は死んじゃうのかな? それとも最初からいなかった事になるのかな?」
やってきた歩たちに『八尋? そんな奴ぁ知らねぇなぁ?』といわれた瞬間、八尋はどちらの世界にもいられなくなる……。
そんなたわいもない空想にゾッとしました。
「おや? きみは確か、八尋ちゃんっていったね?」
大石の反対側から声がしました。
「わあっ!」
八尋は驚いて心臓が飛び出るかと思いました。
石の反対側からチラリと見えたのは、短い粉雪のような白髪。
「支夏……さん?」
八尋は同年代の男性が苦手です。
多少は年上でしょうが、二歳三歳の差は八尋にとってじゅうぶん男性恐怖症の対象範囲内。
宝利と違ってマッチョ補正もありません。
「怖がらなくていいよ。僕は女の子との混浴に慣れているんだ」
「そっか、抄網さんがいるんだっけ」
八尋は風子のせいで、実の姉が日常的に弟の入浴を覗いたり乱入したりは当たり前と思っていました。
「えっ? あ、うん……まあそうだね」
意味がわかっているのかいないのか、支夏命は適当に答えます。
「そっかあ」
姉の横暴に耐える弟、という共通体験に感じ入るものがあったのか、八尋は支夏に対する恐怖感が徐々に薄れてきました。
「支夏さんと抄網さんって、よく似てるけど、やっぱり双子なの?」
「抄網姉は双子の姉だよ」
「そっか。ぼくも双子の姉ちゃんがいるけど、しょっちゅうお風呂場にくるんで困ってるんだ」
「はは、ぼくも似たような感じかなあ」
話しているうちに、八尋はだんだん気持ちが柔らかくなって行くのを感じます。
しばらくの沈黙と安らぎ。
そして八尋は、いまの状況を支夏に相談してみたくなりました。
「…………ぼく、帰れなくなっちゃったみたい」
「帰れなくなった? 常世にかい?」
常世とは黄泉の別名として知られていますが、異世界や神域を指す言葉でもあり、
弥祖皇国では蕃神たちの住む世界の名称として使われています。
「うん。この前はみんなより先に帰っちゃったし、本当に帰れなくなったのかは、まだわからないんだけど」
「ふうん……それで八尋くんは、これからどうしたいんだい? もちろん戻れなかったらの話だけど」
「どうしよう。ぼく、ここにくると女の子になっちゃうし、どうすればいいかなんてわかんないよ……」
「女の子? きみは男子だったのかい?」
「うん。玉網さんから聞いてない?」
「全然。僕も自分の仕事を覚えるだけで手一杯だったしね」
「そっか……」
「玉網姉は秘密にするつもりだったのかな? いや、僕たちの研修期間は翡翠の改装が終わっても、仏法僧の改装が済むまで終わらないから……」
翡翠は仏法僧用に開発された飛行甲板用の新型装備や、主砲塔を撤去して蕃神召喚に使う祭儀室の装備、伝馬船用格納庫の縮小などの改装工事で、海軍の乾船渠に入渠しています。
そのあと仏法僧の主砲塔も撤去して、翡翠と同型の祭儀室を装備する予定でした。
「……あとで教えるつもりだったのかな?」
「そうじゃない? 改装とかはよくわからないけど、ぼくの事は隠そうとしたって隠しきれるものじゃないよ」
会話を続けているうちに、なんだか打ち解けてきた気がします。
「そうだね。僕たちの研修期間は再来月までだから、どんなに秘密にしたっていずれはバレる」
「ぼくたちに隠す気がないもんね」
「そうそう。玉網姉は割とおっちょこちょいなところがあるし、ひょっとしたら忘れていたのかもしれないよ?」
「あははは…………そうかも」
それは八尋が、玉網媛に男として見られていない証拠でもありました。
「そうだ、常世に帰れないなら、僕たちの城にこないかい? 歓迎するよ?」
「えっ……ええっ⁉」
話がとんでもない方向に飛んでビックリする八尋。
「ちょっと待って、それってまさかプロポーズ……?」
「ぷろ……求愛の事かい?」
「あっ、ごめんね、違った?」
その時、支夏の目が怪しく光りました。
「いや、間違ってないよ。そう……求愛だ」
「ごめんなさいお断りします!」
「ははっ、冗談だよ」
「そ、そう? よかった……」
「というのは嘘。本気」
支夏はいつの間にか石の陰から出て、八尋の正面に移動していました。
「……あれ? 支夏さん……むね……っき……」
支夏と目が合った瞬間、八尋の全身から力が抜けて行きました。
「偶然とはいえ、甘松を焚いておいたのは正解だったね。おかげで簡単に術が効いたよ」
支夏の碧い右目と薄灰色の左目が妖しく光ります。
「なん……で……?」
八尋はだんだん意識が遠くなって……。




