第三章・ピローファイト・その四
「やっ……八尋様⁉」
第一発見者は玉網媛でした。
神気の乱れで蕃神たちの帰還を察知した玉網媛は、隠根之間の清掃と改装の手順を確認するためにやってきたのですが、そこで一人とり残された八尋を見つけたのです。
「あっ、玉網さん……」
海水と吐瀉物にまみれた八尋は、キョトンとした顔で玉網媛を見つめました。
「みんな、どうしちゃったの? 突然いなくなったんだけど?」
状況を理解していないのか、それとも理解したくないだけなのか。
玉網媛は意を決して、八尋に現実を突きつけます。
「八尋様、貴方は帰れませんでした」
「……どこに? ここ、なのりそ庵だよね?」
この世界において蕃神が帰る場所は、魔海対策本部の他にありません。
「貴女は常世……元の世界に戻れなかったのです」
「元の世界? ぼく、帰れなくなっちゃったの?」
玉網媛は屈んで八尋の肩にそっと手を置き、ゆっくりと言い聞かせるように話します。
「本来なら歩様方と共にご帰還されるはずでしたが、八尋様は初召喚の時から例外続きでいらっしゃいました」
祭儀室ではなく海中で顕現したり、悪樓釣りの途中で一人だけ帰ってしまったりと、八尋は他の蕃神たちとは違うなにかを持っています。
「いま思えば予想してしかるべきでした……」
「そんな、玉網さんのせいじゃないよ」
「八尋様なら、この先いつお帰りになられても不思議ではありませんが……わたくしにはなんとも申し上げられません」
「帰れるかもしれないけど、帰れないかもしれない……?」
「万に一つの話です。でも八尋様、お覚悟だけはお決めください」
「歩さんたちには、もう会えないかもしれないの?」
「会えます。次の魔海対策で、わたくしどもが召喚いたしますから。ですが……」
永遠に帰れないとなれば、家族やクラスメイトたちには、もう会えません。
そう玉網媛の目が語っていました。
「わからない事を、いま気に病んでも仕方がありません。まずは濡れた浴衣をお召し換えください。湯浴みの支度をいたしましょう」
玉網媛は廊下で控えていた仲居さん兼巫女さんに合図を送ると、八尋の手を取って立ち上がりました。
そのまま手を引かれ、潮表の湯に連れて行かれます。
「八尋様が湯浴みをされている合間に、お着換えを用意する手筈になっております。まずは汚れたお体をお清めくださいませ」
「玉網さんは?」
一緒に入ろうなどという不埒は考えは微塵もありませんが、誰かと一緒にいないと不安で不安で堪らないのです。
「わたくしはまだ仕事が残っております。のちほど宝利を寄越しましょう」
「そっか……じゃあ入る」
八尋は宝利の名を聞いて気力が湧いてきました。
正確には宝利の筋肉を思い出して気力が湧きました。
「宝利は廊下に立たせておきましょう」
「えっ……?」
てっきり一緒に入るものとばかり思っていたようです。
「いまの八尋様は女子です」
「あっ、そうか!」
自分の性別を忘れていた八尋でした。
「本来は殿方である八尋様には、俄かには存ぜられぬと思いますが、男性はみな狼と思われた方がよろしいかと」
「この前も宝利と一緒に入ったけど、なにもなかっ…………あれ? うわあ……っ!」
玉網媛のいわんとする事を理解して、八尋の顔はたちまち真っ赤になりました。
男女のナニはまだよくわからない八尋ですが、男同士でナニをするのかは、風子がベッドの下に隠していた薄い本で知っています。
「よろしければ女官を呼んで、お背中をお流しいたしましょう」
玉網媛はニッコリ笑いながらいいました。
「お嫌ならわたくしが……」
「いいってば一人で入るから! じゃあ玉網さん、またあとで!」
八尋は無地で藍色の暖簾を潜って脱衣場に飛び込みます。
濡れ汚れた浴衣と裾除け(腰布)を脱ぎ捨てて籠に放り込み、手拭いを拾って露天風呂へと続く引き戸を開けると、夜空には月明かりに照らされた雲が浮いていました。




