序章・その二
「みんな見ろよ凄ぇぞ!」
釣り研究部の四人は異世界にある弥祖皇国へと召喚され、改装中の翡翠に代わって海軍に貸与された関安宅【仏法僧】の甲板から魔海を見下ろしていました。
仏法僧は竜宮船と呼ばれる空飛ぶ軍艦で、空中での静止も可能なのです。
召喚されたのは朝方でしたが、こちらではまだ日が高く、空はちょっと雲がある程度の晴天で風は弱し。
薄緑色に光る海面には、光る岩の小島が大量に顔を出していました。
「沖磯なんて初めて見たぜ!」
白衣にモスグリーンの袴を穿いて、同色のバンダナを海賊巻きにしている釣り研部長の日暮坂歩フォレーレは、初めて見る沖磯に感動しています。
しかし漁師町で生まれ育った歩が、沖磯を知らない訳がありません。
これは本物の海ではなく、その上に発生した、弥祖皇国のある異世界でしか見られない異空間【魔海】の磯なのです。
「アイスキャンデーみたいだね~」
ショッキングピンクの袴を着た稲庭風子は、艦上からの絶景に食欲をそそられていました。
「あれは食べられない鈍器だよ?」
八尋の袴はアジュールブルー。
白衣の掛襟も同色です。
「魔海って島もあるの? 陸には滅多に現れないって聞いたけど……」
前回の魔海は市街地に現れましたが、あれは埋め立て地だったからで特殊な例のはず。
通常はいま目の前にある魔海のように、本物の海面より上に発生するものですが、今回は光る海面に巨大な岩がたくさん突き出ていました。
「魔海は主に神気が極度に薄れた海域に発生いたしますので、海と陸の神気が鬩ぎ合う海岸線に発生するのは珍しくありません」
八尋の疑問に、魔海対策局神官長にして弥祖皇国第一皇女、玉網媛が答えました。
薔薇色のアクセントが入った豪奢な白い神官服や装飾品の隙間から、黒い尻尾とネコミミがはみ出して、ゆらゆらぴくぴくと絶え間なく動いています。
「砂浜沿いなら、その延長にある砂底を持つ魔海が、磯場なら磯の魔海が現れる傾向があります。海面上に幻の陸地が現れる例もあると、前の神官長から聞いておりましたが……」
魔海の正体は弥祖皇国でも解明されていません。
玉網媛は広範囲の神気を気象レーダーのように捉える能力を持ち、神気図を作って魔海発生の兆しを捉えますが、なぜ発生するのかは誰も知りません。
異世界の人間である八尋たちが、神力の及ばない魔海の中で、なぜ釣力と呼ばれる異能を揮えるのかも不明です。
ただし消滅させる方法だけはわかっています。
魔海の中に棲息する【悪樓】と呼ばれる巨大魚を、全て釣り上げればいいのです。
そのための能力を持っているのが、蕃神と呼ばれる異世界人でした。
「磯釣りだ磯釣り! 早いとこおっ始めようぜ!」
異世界では初めての磯釣りに、歩は心を躍らせています。
「あの沖磯って当たり判定あるんだよな⁉ 飛び移って楔……は打てねぇけど、釣りはできるんだよな⁉」
蕃神は魔海に落ちても浮いて泳げますが、装備品は素通りして落下します。
宝珠の魚なら、魔海の中に現れる幻の暗礁や海藻に触れられるので、蕃神が沖磯の上に立っても大丈夫なはず、というのが歩の予想でした。
「記録には立てると書いておりましたが……」
自信なさげな玉網媛。
「あのような魔海は、わたくしも初めてでして……」
魔海は稀に定石を外れたものが出現する、常識の通用しない異空間なので、絶対などとは口が裂けてもいえません。
「ちょ……待っ……うっぷ、魔海の下がどうなって……下の海が……」
ブルーグレーの袴で、長い黒髪を後ろで束ねた渕沼小夜理が、飲んだばかりのお茶をバケツにキラキラさせつつ、歩の袖を引きました。
小夜理は遊漁船(釣り船)を持つ船宿の娘なのに、船酔いが酷いのです。
「魔海の下に本物の沖磯がないか、とおっしゃりたいのですね?」と玉網媛。
小夜理はバケツを抱えながら、うんうんと頷きました。
魔海には暗礁もあるので、着地に失敗すると命の危険が伴います。
八尋たち蕃神は、魔海に落ちても八尋以外は浮けますし、八尋以外は泳げます。
しかし、落ちた先に本物の沖磯や魔海の暗礁があると、衝突して怪我をしたり、下手をすれば死んでしまうかもしれません。
異空間といえども海は海。
僅かな油断で命取りになるのは、本物の海と一緒なのです。
「宝利、海図室から図面を持ってきてください」
玉網媛は、金糸銀糸の刺繍で彩られた黒い陣羽織を着た大男に指示を出しました。
魔海対策局長にして弥祖皇国第三皇子、宝利命。
立派すぎる体格と、クセのある漆黒の長髪から【黒龍子】の異名を持つ、玉網媛と両親を同じくする実の弟です。
局長の権限こそ玉網媛に握られている傀儡ですが、蕃神たちの悪樓釣りをサポートし、艦の指揮を行う重要な役割も担っています。
実際、それで八尋は何度も命を救われました。
「地図と海図なら吾輩が確認した。魔海は海岸線から少し離れた海域に現れ、下の海には島や沖磯が存在せぬ。水深も十分にあるな」
宝利は自慢の大胸筋をムキムキムッキリさせながら答えます。
デスクワークの苦手な宝利ですが、仏法僧の姉妹艦である【翡翠】の艦長さんを始めとする乗組員さんたちに鍛え上げられ、一流の航法技術を叩き込まれていました。
皇族にあるまじき頑強な肉体と技能は、いずれ海軍士官になって自分の艦を持つ夢のため。
身分のせいで、普通に軍に入っても安全な本部務めに回されてしまうので、実績を作るために傀儡局長を引き受けて、いまは壮大な回り道の真っ最中。
チャンスがあれば、いずれ局長兼艦長の座をでっち上げる腹積もりでした。
いまは仏法僧で仮の艦長を務めている翡翠の艦長さんは、とっくに定年を超えているので遠慮は無用です。
「うわあ……今日もキレてるね宝利」
夏の日差しでテカテカと汗を煌めかせる屈強な大胸筋を見て、八尋は興奮で目を輝かせていました。
「う、うむ……鍛えとるからな」
宝利の顔が真っ赤に染まります。
異世界に召喚されると女の子になってしまう八尋ですが、中身は歴とした男の子です。
前回、ヒラメ悪樓を釣り上げた夜にそれを知った宝利ですが、だからといって、あっさり恋心が消えてしまうほど薄情な気質は持ち合わせていません。
そもそも八尋は性別に関係なく可愛らしいのです。
とても高校生とは思えない小柄でか細い体躯、シュークリームのような亜麻色の髪、子供っぽい仕草、楽天家のくせに臆病で引っ込み思案な性格。
前の学校で女子一同に賜った【ゴールデンハムスター】の異名は伊達ではありません。
「やっぱりニキ×ショタのカプは最高だね~。もう結婚しちゃえばいいのに~」
風子はウットリしていました。
顔も体格も八尋とほぼ同じで、髪は栗毛のロングヘア―。
ただし弟大好きっ子で、BL趣味という腐治の病を患っています。
「せっかく吐き終わったのに今度は砂を吐かせる気ですか、あのご両人は」
風子と同様に腐りきっている小夜理が復活していました。
小夜理は胃袋の中身を全部吐き出すと、船酔いがスッキリと抜けるのです。
「要は着地に失敗しなきゃいいんだろ? とにかく釣りだ! 俺はまだワラサビの悪樓を釣った事ねぇんだ!」
ワラサビはイシガキダイ(イシダイの仲間)の地方名です。
「やっぱ悪樓でも大物はクチジロになったりすんのかな? いやワラサビもいいけどイシガキイシダイもレアでいいなぁ!」
釣りに関しては安全第一な歩が、珍しく浮かれていました。
イシガキダイは老成すると体色が黒く染まり、口吻が白く染まります。
イシガキイシダイは、イシダイとワラサビの天然交雑個体、つまり雑種で、人工的な交雑個体はキンダイと呼び分けられています。
「別にワラサビでなくてもいいじゃない。きっとアイゴやオニカサゴだっていますよ」
興奮する歩を窘める小夜理。
「あいつらヒレに毒あっからなぁ……」
毒魚の名前を出されて冷静さを取り戻す歩。
アイゴはもオニカサゴも、全身のヒレに毒トゲを持つ怖い魚です。
沖釣りではイズカサゴといったフサカサゴ科の総称として【オニカサゴ】の名称が使われ、誤解の元になっていますが、標準和名のオニカサゴとは別種の魚で、トゲの毒はプラシーボ効果しかありません(諸説アリ)。
もちろん小夜理のいうオニカサゴは、猛毒を持っている方です。
「まあ釣っても触れたり食べたりする訳ではありませんし、毒の有無は関係ありませんけどね」
悪樓は魔海から引き離すと、消滅して小さな宝珠を残します。
「う~ん、でも今回はなぁ……」
歩は前檣楼と伝馬船用格納庫の間に設けられた飛行甲板を見渡しました。
仏法僧は翡翠の姉妹艦で、近代日本の装甲帯巡洋艦と航空巡洋艦の中間に位置しますが、翡翠と違って左右に広がる巨大な飛行甲板を装備していません。
艦上構造物の間に、伝馬船を離着艦させるための狭い飛行甲板があるだけです。
「いいじゃないですか、今日は玉網さんもいますし」
玉網媛は蕃神たちの召喚儀式や魔海の予知だけでなく、引き上げた悪樓を、祝詞と神楽舞で強制的に宝珠へと変える能力を持っています。
小物の悪樓は水揚げすると、すぐ宝珠に変わってしまいますが、サイズが大きいほど耐久時間が長いので、前回のヒラメ悪樓みたいな大物悪樓を取り込むには、玉網媛の支援が欠かせません。
「配置は私と歩が沖磯で、風子さんと八尋くんは甲板ですね」
「宝珠はなに使うの~?」
作戦会議に飽きた風子が質問しました。
捕えた悪樓が残す宝珠は、蕃神が持つ釣り竿もとい神楽杖に装着すると、中の魚が飛び出してルアーのように操れるのです。
ただし百倍スケールの悪樓と違って、宝珠の魚は十倍。
悪樓に噛み砕かれて死んでしまった宝珠も存在します。
「まずは偵察……と行きてぇとこだが、今回は万能兵器を用意した」
「…………まさかジャリメ?」
虫エサが苦手な八尋は不安でいっぱいです。
「これだ!」
ベルトポーチから灰色の宝珠を取り出しました。
ところどころにピンクのアクセントが入っています。
「サルエビ! クルマエビの近縁種だ!」
「おお~っ! それはおいしそうだね~!」
風子は手を叩いて大喜び。
「フライにするんだね~?」
「……フライ? 海面でエビを跳ねさせるのか?」
食べる事しか考えていない風子と違って、歩はフライフィッシングに使う、羽虫に似せた疑似餌(毛鉤)を想像していました。
「はいはい漫才はそこまで。さっさと釣りを始めましょう!」
磯釣りの興奮で調子が狂っている歩に代わって、小夜理が現場を仕切ります。
「各自配置についてください。風子さんは右舷、八尋くんは左舷でお願いします」
「そんじゃお先っ!」
歩が洋式のブーツで甲板を蹴り、神力でポーンと跳躍し、何十メートルも離れた魔海の沖磯へと無事に着地しました。
蕃神や弥祖の皇族が持つ特殊能力の一つ、通称神力ジャンプです。
「では私も」
小夜理はしばらく歩の様子を見て、沖磯が足場として十分に機能するのを確かめてから、反対側の沖磯へと跳躍しました。
「よっしゃ~、わたしもいっくよ~!」
風子も覚えたてのジャンプで甲板を跳ねながら移動します。
「よし、ぼくも……あれ?」
先々週は玉網媛を軽々と抱えて跳躍できたのに、いまの八尋は跳び方をすっかり忘れていました。
「ええと、あの時はどうやって……たしかヒラさんがいて……」
行動がかなり積極的になっていた気がします。
「そっか……ぼく、ヒラさんのサポートがないと跳べないんだ」
ヒラシュモクザメさえいれば魔海の沖磯にだって行けそうな気がしますが、いまは甲板から離れられそうにありません。
「仕方ない、走ろう」
ジャンプの練習は、また今度。