第一章・磯鶴高校船釣り部・その七
空が赤くなった頃にはウミタナゴの鱗落としも終わり、鰓と内蔵を取り出す作業に入っていました。
テーブルの真ん中にLEDランタンが置かれて、四人の手元を照らします。
「わあっ、また変なところで切れちゃった!」
八尋の解体作業は難航していました。
魚の鰓は根本が硬く、なかなか巧く切れません。
「うーん、八尋にゃまだ早かったみてぇだなぁ……」
歩は教え方を変えるなど工夫を凝らしまていますが、八尋の不器用さは想像を遥かに超えていました。
ウミタナゴが小さすぎるのも原因の一つです。
「こりゃ三枚おろしは無理だな。刺身は諦めて背開きにしちまおう」
「背開き?」
一部を開き干しにするとは聞いていますが、てっきりお腹から切るものと思っていた八尋は首を傾げます。
「エラもハラワタもあと回しだ。まずは背骨に沿って包丁入れて……」
皮を切ってからザクザクと身を裂きます。
「ついでだ、すずめ開きにしちまおうか」
「背開きでスズメ?」
「頭も割っちまうんだ。こう口から縦に包丁を立てて……」
頭部を真っ二つにする歩。
「それからガンバラ……腹骨(肋骨)もぶった切る。腹の皮は残しとけ」
あっという間にウミタナゴの背開きが出来上がりました。
「これならエラもワタも、あとで簡単に取り出せる」
手で掴んで、根本を包丁で切断すれば完成です。
「わあっ凄い!」
「背中の方が硬ぇから、腹開きよりビギナー向けなんだ」
切れ味の悪い包丁を使う時もお勧めです。
「よし、今度はぼくの番だね」
「タイなんかは前歯の真ん中から切るといいんだが……まあ、あるものと思ってやるのがコツだ」
存在しない歯の間を切るのは難しそうです。
「あっ入った」
ちょっと力を入れただけで簡単に包丁が食い込みました。
「カボチャみてぇに思い切って力を籠めると綺麗に割れるぞ」
「うん」
ザクッ、ザクッ……。
「これ面白いように切れるね」
「この手の魚は大抵そーゆー構造してんだ」
「そのまま背中に行くぞ。まずは背ビレに沿って皮だけ切れ」
包丁は小夜理の手入れがいいのか、弾力のある皮がサクサク切れます。
「尾柄……尻ビレの根本をきっちり切っておけよ。あとで楽ができる」
「できた!」
「よっしゃ! ここまでは上々だな」
作業に時間をかけると身が劣化しますが、いまはそんな段階ではありません。
時間をかけて覚えた方が、より早く作業の効率がよくなるものです。
「背中の身は中骨(背骨)から削ぎ取るようにな」
切ったら骨に身が残りました。
「失敗しちゃった!」
「いや、そんなでもねぇ。多少はズレても無駄にゃならねぇから気にすんな」
開きなので、最終的には全部お腹に入ってしまいます。
「お次はガンバラだ。ここは刃先を立ててザックリやれ。肉を削ぎ取るんじゃねぇ、ガンバラを中骨から切り離すんだ」
「わかった」
言われた通りにザクザク切ると、ようやく中身が見えてきました。
「ワタの中に半透明の玉っころがあるだろ?」
「ほんとだ。ちょっと綺麗だね」
「そいつは苦玉、魚の胆嚢だ。破れると身が苦くなる」
「そっか、傷つけちゃ駄目なんだ」
「売ってる切り身で緑に染まったところを見つけたら、苦玉潰した証拠だからやめとけ」
そのような身は商品にならないので、普通はアラとして投げ売りされています。
「プロでも失敗する事あるんだ……」
肋骨を切り終わり、鰓と内蔵を丁寧に取り出すと、ようやく背開きが完成しました。
「やったな八尋!」
「うん! もっと切って練習するよ!」
始めての開きを無事に成功させて、八尋はやる気が出てきました。
「もう終わりましたよ」
「ええっ⁉」
八尋がモタモタしている間に、小夜理が全部捌いてしまったのです。
「ちょっとくらい残してやりゃいいのに……」
「夜に家の手伝いがあるので、少し早めに帰りたいんです」
「それじゃ仕方ないね~」
風子は最後のウミタナゴを背開きにしています。
「…………あれ?」
魚の生臭さに混ざって、どこからともなく甘い匂いが漂ってきました。
「どこかでホットケーキでも焼いてるのかな?」
「ここは校舎から離れていますよ」
「でもいい匂い~」
「ああ……こりゃアレだな、コイ師の匂いだ」
「小石?」
「おっ、やってるやってる。これは今日も宴会かな?」
オンボロ部室小屋の影から、八尋の知らない大人の男性が現れました。
「姫路先生!」「オジサン先生!」
小夜理と歩が、同時に異なる名前で呼びます。
「オジサン?」
おじさんはおじさんなのですが、先生を見る歩の目は、釣りをしている時と同じ、真剣かつウキウキしたものでした。
「せめてコイ関係のあだ名にして欲しかったなあ……」
オジサン先生もとい姫路先生は困り顔。
「あっ……オジサンって、魚のオジサンか!」
八尋は釣り魚辞典で見た写真を思い出しました。
赤くて鯉によく似た磯場の魚です。
「そうだ! 俺たち釣り研究部の顧問、姫路潟椰先生だ! どっからどう見てもオジサンだろ⁉」
というかインスマス面、もしくは半魚人顔でした。
大きな口に円らな両目、面長で泥鰌髭まで生えています。
「コイのつもりでやってるんだけどな……」
「ひょっとして姫路先生って、コイ釣りやってるんですか?」
「甘い匂いはコイ釣りに使う練り餌のせいだ! ハチミツやサツマイモが入ってるからな!」
「手に染みついて離れないんですよ」
歩と小夜理の説明に、八尋はようやく合点が行きました。
ジャリメの匂いが染みつくのと同じ原理です。
「この子たちが噂の新入部員だね」
「こいつは稲庭風子。こっちは双子の弟で八尋だ」
「よろしくお願いします」「やっは~!」
「うん、二人ともよろしく。僕は鯉師だから海釣りはよくわからないけど、日暮坂くんや渕沼くんは熟練者だから、いう事をよく聞いていれば、卒業まで大漁続き間違いなしだよ」
「やた~!」
「そんな煽てねぇでくれよ。俺だってボウズの日はあるんだぜ?」
「魚より夢を釣らせてくれるのが、日暮坂くんのいいところだよ」
姫路先生の優しい目を見て。歩の頬が赤く染まります。
「へへっ、褒めたってなにも出やしねぇよ……?」
「どれだけ釣れても、どんな魚が相手でも、夢が釣れなきゃ釣りとはいえない。仕事でなかなか釣りに行けない僕に、それを教えてくれたのは君じゃないか」
コイ釣りはテントを張って数日粘るものですが、忙しい教職の身では、たまの日帰り釣行しかできません。
「……うぇへへへぇ……っ♡♡」
顔を赤くして悶える歩の姿に、八尋はなぜかイラッとしました。
「うわ~、あゆちゃんなんかムカつく~」
風子が代弁してくれました。
「じゃあ僕は試験の結果発表の準備があるから校舎に戻るけど、君たちもあまり遅くならないようにね」
「へぇーい」
姫路先生が背中を向けて獣道を歩くのを見送っていると……。
「あっ、これ……」
八尋たちは何度も経験した、あの眩暈に襲われました。
「おいおい、一昨日やったばっかじゃねぇか」
「玉網さんも忙しいんだね~」
「またお玉を用意してもらわなきゃ」
「この前は途中で帰っちゃったから、リベンジしないと……」
それそれがそれぞれの想いに馳せているうちに、四人の意識はプッツリと途切れました。




