ジェリコ
「狼は眠らない」1億PV突破御礼短編です。
「あんたをジェリコと名づける。目覚めな」
その言葉を、今でもはっきり覚えている。
といっても、その言葉の全体の意味が最初からわかったわけではないし、だいぶ人間の言葉の意味がわかるようになった今でも、きちんとその言葉の意味がわかったとはいえない。なにしろ人間と魔獣では、存在のありようも、世界を認識するやり方も、まるで異なっている。人間の言葉と魔獣の声は機能がちがう。完全な意思の疎通などできるわけもない。
それでもはっきりわかったのは、自分の名前がジェリコだということであり、その名を与えられることによって、自分はこの世に生まれ落ちたのだということだ。なぜかそのことだけは、疑いようもなくはっきりと理解していた。
目覚めてからあとに起きたことについても覚えている。
長い長い年月のなかで経験したことはあまりに多く、また、最初のうちは理解力も低かったので、みたものや聞いたことを、きちんと把握してきたとは言いがたいが、それが何であるかを言い当てられないからといって、体験の感動とその記憶が色あせるわけではない。
あの日みた光のまぶしさ。
あの日食べた果物の甘さ。
朝日だとかイェルコンテの実だとかいう言葉によって意味づけられる以前のそれらとの出会いは、それぞれ唯一無二の鮮烈で豊かな体験として、深く魂に刻まれている。
自分に名を与えてくれた存在は、自由も与えてくれた。どこに行くことも、何をすることも許された。
どのようなやり方でそれを理解させてくれたのかは覚えていないが、どこでどんなふうに生きてゆくかを、その存在は確かに選ばせてくれた。
そして自分は、その存在とともに生きることを選んだ。
すると、その存在は、自分を変身させ、長腕猿のような姿にして力を封印した。
以来、自分は、その存在とともにある。
長い時間放置されたこともあるが、そんなことはたいした問題ではない。
なぜなら、自分も、その存在も、使い切れないほどの時間をもっているのだから。
その存在は、強大だった。
自分が全力で戦ったとしても勝てるかどうかわからないほど強大だった。
それほどに強大なその存在の安全を心配しなければならない事態に出会ったことが、何度かある。
最近でいえば、レカンという人間がやってきたときがそうだった。
レカンが近づく気配に気づいたとき、てっきりその存在に敵対する何かがやって来たのだと思った。
だが、その存在は、あれは敵じゃないよ、と言った。
本当にそうだろうか。
これほど強烈な戦士の気配をただよわせる者が近づいてくるのだ。
警戒せずにはいられない。
だから戸口の前に進み出た。
ちっぽけな猿の体のままで。
この姿のままでは、充分に力がふるえない。
もしも相手が急に攻撃してきたら、殺されるかもしれない。
だが一瞬でも生き延びられたら、正体を現し、すべての能力を解き放って、敵を殺す。いつでも自分自身の意思で、封印を解くことはできるのだ。再び自らの力を封印することもできる。そうする能力が与えられている。
何もできずに殺されたとしても、その存在が敵を滅するための時間をかせぐことはできるだろう。
ならばそれでよかった。
幸いなことに、レカンは攻撃してはこなかった。
レカンという人間が本当に敵ではないと了解するには、なおしばらくの時間が必要だった。
いつも戦いの心を持ち続けている人間だったからだ。
だというのに、その存在は、なぜか当初からレカンを受け入れ、愛し、擁護し、導いた。
ならば自分もそれにならおうと思った。
レカンはその存在の新しい子になったのだ。
ということは、自分からいえば弟だ。
兄は弟を守るものだ。少なくとも、人間の世界ではそうだ。
レカンが疲れているときには、慰めの声をかけてやった。
酒を買ってきて与えたこともある。
樽を持ったまま壁を駆け上るやり方を教えてやったりもした。
不細工なことに、レカンは魔法の助けを借りなければ、同じことができなかった。
レカンは不器用だが、かわいげのあるやつだった。
エダはレカンとは全然違っていた。
レカンは、冷たく、暗く、鋭い。
エダは、温かく、明るく、柔らかだ。
最初からエダのことは好きになった。
エダはよく土産を持って帰ってくれた。
レカンは一度も土産をくれたことがない。
レカンは冷たいやつだ。
だが、どこか憎めない。
長い目でレカンをみまもることにした。
そうしているうちに段々とレカンのことが好きになり、信用するようになった。
ただしレカンという人間が危険であることは変わらない。
根っからの戦士であるレカンが暴れずにすんでいる理由は、迷宮にあるらしい。
迷宮とは何なのだろう。
よくわからないが、そこには手ごわい魔獣がいて、レカンはそこで命を削るような戦いをしているという。
迷宮とやらに行って帰ってきたとき、レカンは一回り強くなっている。一回りどころか、一足飛びに強くなったこともある。
その迷宮の冒険で戦い尽くしているから、暴れずにすむのだろう。
最初はそう思って、レカンの迷宮行きを歓迎していた。
だが、段々と、これはまずいと思うようになった。
もともとレカンは強かった。総合的な実力では自分に及ばないが、戦い方によってはその実力差を跳ね返す突破力があるように思われた。
そのレカンが、迷宮での戦いを重ねて、めきめきと力をつけてきた。
このままいけば、自分が真の姿を現し、すべての能力を解放しても、必ずしも勝てないほどの強さを得るかもしれない。
だから最近では、レカンが旅に出ると複雑な気持ちになる。
とはいえ、その存在がレカンの成長を喜んでいるのは間違いのない事実だ。
だから自分も喜んだほうがいいのだろう。
たとえレカンによって滅ぼされる未来が待っているのだとしても。
もちろん、自分や、ましてやその存在をレカンが滅ぼすとすれば、莫大な代償が必要だ。たぶんレカン自身も滅びるだろう。
しかし戦いにしか生きる意味をみつけられない戦士は、破滅が待つとわかった戦いに突き進んでいくものなのだ。
レカンは、今ではその存在を強く信頼し深く慕っている。
だがそれでもレカンは戦いを求め続けている。
強い敵を求め続けている。
その戦いへの欲求が、その存在に向けられることがないとは、レカン自身にさえ断言はできないはずだ。
たぶんエダが鍵だ。
エダの存在がレカンを変える。
レカンの戦いを渇望する心が落ち着くには、多くの時が必要だ。
その日が来るまで、レカンを押しとどめられるのはエダだ。
そう考えると、その存在のもとに、レカンだけでなくエダもやって来たことは、単なる偶然ではないのだ。
魔獣である自分には、神を信仰する心はない。
しかし、この世の摂理をつかさどる者がいて、時々人の世に働きを現すことは、疑いようのない事実だと知っている。
摂理をつかさどる者の思惑が、その存在にやさしくあれと、今は祈るほかない。
そんなことを考えていたある日、素晴らしいことが起きた。
その存在が伴侶を与えてくれたのだ。
ユリーカは、まさに自分の伴侶だった。
自分と同じような者はいないと思っていた。
ところが、その存在は、自分と同じような者を生み出してくれたのだ。
なんという偉大な力なのだろう。
ユリーカと会うことによって、自分がそれまで孤独だったのだということを知った。
孤独が癒され、日々が満ち足りることによって、それまで足りなかったものがあったのだと知ったのだ。
なんという喜びか。
なんという幸せか。
そうだ。これこそが幸せというものなのだ。
これほどの幸せを与えてくれた、その存在に、それまで以上に深い感謝の念を抱いた。
その存在が自分にとって何なのか、最近、やっとわかった。言い当てる言葉がみつかった。
母だ。
その存在は、母なのだ。
自分という存在を生み出し、無条件に愛をそそぎ庇護を与えてくれる母なのだ。
子は母を慕うものだ。
そうだ。
自分は母を慕っている。母の幸せを祈っている。
心から。