♯8理の裏側より
とある昼下がり、私はいつもより早く寮を出た。
”いつも”とは、普段仕事に出掛ける前、日が暮れるよりも前にという意味で、昨日は寮を出る頃は沈んでいたはずの太陽は、今のところやや傾いた場所にあるものの色は白いままだ。今から出掛ければ日の入りまでには用事が済むだろうと、私は目的地までの道のりをゆっくりと散歩でもするようにまっすぐ歩きだしていた。
目的地は第三区と第二区の間。昨日、地下牢の男に聞いた”事件の手掛かりを”探しに行くつもりだ。こういうことは本来、調査に携わっている人間に情報を渡して、自分では関わらないのが正解なのだと思う。しかし、私が聞く限りでは彼らの主な目的は犯人探しではなく行方不明者の捜索であり、対して牢獄の男が言っていたのは「すべての事件に残された手掛かりや小瓶の中身に関する情報」であるため捜索に当たっている騎士らに投げやりに情報を流すよりは自分で向かった方が良いと判断したのだ。
何らかの手掛かりが見つかればそれを上に伝えればいいと、組織の一員としての自覚を欠いた実に身勝手な考えではあるものの、彼らの手間を増やしてやるのも忍びない。
いや、実はもっと短絡的に、長引いてる事件の解決の糸口を見つけられれば大儲けなどと若干の顕示欲が働いているのかもしれないがわつぃに限ってそのような欲はないだろう。
それにしても男の証言には疑問が残る。
あの男が手掛かりを見つけたというのは理解できる。彼のように、この城の内部を自分庭かのように歩けるようになるまで散策していればそういった人間を見つけてもおかしくは無い。
問題はそこではなく、なぜ第三区の人間が第一区や第二区で起きている事件の手掛かりを持っているのかだ。それが唯一私の中で引っかかっている。
骸島の王が活動を初め、魔獣がこの世に跋扈するようになった数十年前より前は第三区の外側に城壁は存在しなかった。
数百年前、我々の城はカリーナ山脈の膝元に建てられ、その峠に差し掛かる手前の傾斜に合うように現在の第一区と第二区が上下分けられて造られた。当時は魔獣の数も少なく、いたとしても骸島からは一切出て来なかったそうだ。それゆえ壁も守備としての役割は弱く、大人の身の丈四つ分の高さしかなかった。
しかし状況はすぐに変わってしまった。我々人間は魔王を屠った後、領土や穀物を巡って同族間での戦を始めたのだった。国のあちこちで戦が始まり、村を焼かれた者、親を殺された子供などの難民が城内へと逃げ込むことは少なくなかった。彼らは戦争が終わる度に自分たちの持つ焼け野原となった土地に戻って村を再建したが、そういった気力を失い、畑を手放してでも平和を望むと云い、城周辺に住み着くものが出てきのだった。そういった人間は数を増やし、ついに第二区だけでは居住区を確保できなくなり、城壁の外側に小屋を建てて住む者がいた。”それではせっかく安全を求めて城近くまで来た民も守ることはできない“と、以前より巨大で強固な城壁を造り、新たに覆った区域を第三区と呼ぶようになったのは数代前の国王の時代だ。
近頃は人間同士の争いはめっきり無くなった。しかし入れ替わるように魔獣が人里にまで現れるようになり今でも村を捨てて城内に避難をしてくる人はいるのが実状だった。
話を戻す。第三区とは城の内部にあるのは間違っていないが、第三区と第二区の間には今だ大昔に造られた城壁が残っていて、その門を越えれば元は身寄りを亡くした人々が住んでいる。城に来たところで得られるのは命の安全だけ。畑の大部分を捨てた彼らに仕事はなく、収入も少ない。そのため必然的に貧富の差が生まれてしまい、二区と三区の間には城壁以上に強固な”壁”に隔てられ、彼らはお互いに干渉することのない生活を送ってきた。
二区以上の人間が三区の人間に手を出す道理はない。今まで行方不明者は第二区のみだったが、例外が一人増えたとなるといよいよ犯人の動機や目的が不透明だ。
「誰でも良いのか?」
そう考えるのが妥当だろうか。元から今回の事件は目的も理由もないのではないかと言われていたのだしこの可能性もあるのだ。
もしくは、彼が適当な嘘を言っているか。その可能性もあるけれど、提示してる情報が情報なだけに無下にはできない。
秋も深まり気温は日が暮れるごとに下がる一方空気は澄んで、遠く湾曲した地平線には名も知らない山の稜線がくっきりと見える。
私はその線を目でなぞりながら息をついた。私の歩いている道からの眺めはひざ元で起きる事件一つ解決できない己の矮小さを実感させるような景色だった。
間もなくして私は城塞よりも低い階まで下りていよいよ旧城門へたどり着く。今は通行の妨げとなるために門は大きく開けられたまま固定されていて、つまらなさそうな顔をした騎士の一人が見張りとして立っているだけだ。
彼とは守衛をしている関係で互いに顔は見たことがあったのだが、こちらがあまり能動的に人との会話を望む人柄でないことを知っているようで、彼も私は頭を軽く下げるのみで言葉は交わさなかった。
門を抜けてしまうと私はつい足を止めてしまった。
二区の高台から第三区を見下ろすことはあっても、日が暮れてから持ち場に向かうときに通り抜けても、昼間のこの時間にこの場所に来ることはよもや初めてだったのではないか。
時間帯が変わるとその景色の印象が変わるのは良くあることだが、日の光に照らされて見る第三区は私が今まで抱いていた印象とはまるで変わっていた。
単に、見えなかった物が見えるようになっただけなのだと思う。が、三区においてそれは致命的だった。
二区に入れず、三区の地面が露出した大通りを挟んで各地から集まった商人が市場を開いている。
細い根菜や芋類などで、品数は少ない。それでも腹をすかせた人々はなけなしの金を使ってそれらを買う。実に少ない金銭が人々の中で動いている。
二区よりも酷く、惨めな生活だ。それらはまさに、生きている静寂ではなく、生を諦め息耐えた営みと言えよう。
しかし私の今日の目的は同じ国民に感傷を抱くのではなく一人の人間を探しに来ているのだ。私は彼らを横目に泥で外壁を固められた長屋の間の路地に入っていく。
大通りと比べれば、幾分私の生き慣れた世界に近かった。高い湿度、泥の香り、日が届かず曖昧になる視界。いつも通りだ。
幸い、路地裏には乞食はおらず、人を探すのは苦労はしなさそうだと胸を撫でおろす。どんな姿であれ、人形を残していればこの暗さでも人は目立つ。
とはいえ第三区の広さは一区と二区をやや越えるほどの面積があり、その地域一帯に長屋が所狭しと敷き詰められていて、門の見張りを交代する時刻までにその全てを探すのは無謀と言うものだ。
「どうしたものか」
男の言い分には門の外壁沿いのどこかだったか。
無謀と分かっていても、理屈っぽく、目当ての人物がいそうな場所を算出するなんて私の柄でもなくて、とりあえずとばかりに真っ直ぐと更なる暗がりへ歩みを進める。
舗装されていない道は平らな場所など無く、一歩進む度に湿気った土の香りが鼻腔をくすぐる。上を見上げれば空は青いのに自分の足元と来たらミミズ一匹這いずっていても気付かない程に暗い。第二区の路地裏は昔はよく散歩したりしたものだが、あちらとは随分様子が違っている。
あちらはまだ街の中という感覚があった。地面にせよ長屋の壁にせよ、確かに人間が造り上げた空間だという安心感、そして、決してその場に身の安全を脅かす何かが潜んでいる気配など微塵も感じない不変の風景。
対してこの場所はどうだ。ふとすれば城塞の中であることを忘れてしまう。昔、父に旅の土産に聞いた遠く遠くにあると言う黒い森の中のようだ。魔獣ではない森に生きる獣が背後から、正面から、頭上から、道の曲がり角から飛び出して来るのではないかと、五感から取り入れる情報がそんな妄想を掻き立てた。多少の不安などでは身体に影響が出ることなどない。足が竦む(すくむ)だとか、呼吸が荒くなるだとか、新兵のような不安定な精神状態になることはない。しかし、城塞の中にいるにはいささか過剰に警戒しているのは否めなかった。
冬に近づくこの季節の日の入りは早い。まだ僅かな範囲しか散策していないのに空は色を変え始めている。耳を澄まして、視覚以上の情報を取り入れようとも耳鳴りが邪魔をしてなにも聞こえなければ、建物も要り組んでいて大通りの僅かな声さえもここには届かない。
空が夕に焼ける。
これから静謐の夜が来るのだと予感もしないほどに赤く、生々しく、空を染めていく。
その時、空が緑に光った気がして私は壁に挟まれて見える空を見上げた。
瞬きの間の幻覚だったのかもしれない。見たのだと確信を持って言えないがたった一瞬だけそんな気がした。
「夜だ」
それは毎日決まって、当たり前のように来る世界なのだけれど、私は意味もなくそう呟いていた。
「____」
その時だった。宙に浮いた塵一つ揺れることのない路地裏の中で異変を感じ取る。耳ではなく、地面を伝わってくる低いうめき声のようなもの。
「誰かいる」
私は次の"異変"を逃すまいと壁に手を付いてゆっくりと音の元を捜す。
ゆっくりと通路を進み、幾つかの曲がり角を曲がったとき、私はそれを見つけた。
襤褸を纏っているというよりは、その煤けた(すすけた)服と肌が同化して、一つの汚れた布切れになっているようだ。目は虚ろで焦点が定まらず、目の動きに合わせて身体も小刻みに震えている。気温はさほど低くはないところを考えれば不自然だった。
呻いて腹部を押さえて壁に体を擦りながら移動している。立ち上がろうと地面に何度も手を付いて力を込めているが体重が持ち上げる程の体力は無いようだ。
「そこの者、大丈夫か!」
私は急いで近づく。近づいて見ればその男の不自然さの原因は一目瞭然だった。男はたった一枚の布を体に巻いているのみでほとんどの全裸だったのだが、手で押さえている服がはだけた腹部を見ると黒くなった血が大量に付着していた。服だけではなく、彼が這って来たと思われる道にも点々と黒々とした斑点が付いている。
今は血は止まっているようだ。しかし、路地裏に落ちている出血量を見ると意識が、かたや動くことができているが不思議なくらいだ。
「だ、誰...」
「騎士団の者だ。すぐに医務室へ連れてゆく。だからもう少し辛抱してくれ」
「医務、室?いいやだめだ!間に合わない。俺は死ぬ、殺される!」
男は張れない声を絞って私にすがる。
要領を得ない発言に若干困惑しながら私は彼の震える肩を抱きかかえて問いかける。
「殺される?誰にだ」
「う、うう...。恐ろしい、瞳の奴だ。あいつのせいでみんな化け物になっちまった」
口から出る言葉に嘘の色は見えなかった。恐れる声も、その内容さえも、彼には既に身の危険に苛まれ言葉を偽るなどという余裕など無かったのだ。しかし、むしろ逆にその真実は私を混乱させた。
彼は私に必死に訴えかけようと私の袖を握りしめる。
「奴が来る。感じる。奴の目だ。こっちを見て...!」
男は頭を抱えて縮こまる。このまま壁の染みにでもなろうかと言うほどに矮小に。
「来た」
だが、その声だけははっきりと聞こえた。恐怖も震えも無い、嵐の前の静けさとも言う淡々とした声。
それと同時にふと目の前が黒くなる。否、背後だ。背後から何か私の知らない果てしなく深い闇が私を包み呑み込もうと視界に入ったのだ。
「おや。私以外にその方に用がある人が居ようとは、予想外でしたねぇ。そうなら急いで先回りする必要もありませんでしたか」
背後からねっとりと首筋を撫でられるような気色の悪い声がした。踞っていた男は顔を上げて私の背後の人間を見たとたん「ひい」とひきつった悲鳴を上げて後ずさる。
全身の毛が逆立った。肌に感じる気温が下がり始めているようだ。
闇夜の様に形のない、刃の様に確かな殺意が首元に触る。
私は反射的に剣を抜いた。背後の人間に声を掛けられた瞬間、私の体は縄張りを敵を見つけた野獣のように、反射で威嚇をした。そう動いた。
はずだった。
「止まりなさい」
その一言で剣を抜こうとした私の腕が動きを止めた。石膏を塗られたかのように、筋肉一筋までもが針金にでもなったように、指が柄に触れる刹那、数寸先の距離が遥か彼方に遠退いて、剣を握ることを許されず宙に留まった。首すら回すことができない。背後の人間の顔を見ることもできなくなった。
それもこれも恐ろしいからではなく、鎖で繋ぎ止められている感覚と似ている。
私は完全に静止した。
「貴方から強い恐怖を感じます。ですがご安心を。無関係な人間に手を出すのは私の主義に反します。貴方が私を恐れる必要ありません」
安心だと?ふざけるな。その溺れるような殺気出せる人間に対して安心しろだと?
しかしその強がりは喉に絡まって唾と一緒に胃に落ちる。
「私に何用か?すまないが急いでるんだ」
代わりに私はそんなことを口にしてた。体は動かなくなったといえその力は体内にまでは及んでおらず舌だけは動かすことができたのだ。
「貴方に、よりは貴方の目の前の男性に用があるのですが。…そこを退いてくれませか?」
その言葉を聞いた瞬間私の四肢に力が加わった。手足に縛り付けられた糸を操られ強制される様な力。「動くな」と言われれば動けず、「退け」と言われれば身体の静止を強制していた力は私の足を動かした。
私はそれだけはと全身に魔力を通す(とおす)。ここを退けば“彼”は取り返しの付かないことをする確信があった。
頭の中に甲高い音が響く。瞬間の魔力の消費量が一定量を超えると起きる症状だ。魔力を魂の内から引き出した瞬間にそれらを消費し切るだけの術が私にかかっているという証拠だ。
私は立ちくらみに似た感覚を覚えながらも全身の神経に絶えず魔力を流す。
「すまないがそれは出来ないな。無関係の人間に術を掛ける人間を信用しろなど無理な話だ」
「人間、ですか」
男の声が低くして繰り返す。
「そうですか。私のことが人間だと思うのなら貴方は祝福とは無縁だということ」
「祝福?何のことだ」
私は振り向いていない。だから男の表情は定かではないが私には彼の声が哀愁を帯びていたように思えた。
「ともすれば、貴方にはその男性すらもただの乞食か何かにしか見えていないと、違いますか?」
その言葉はいよいよ私を混乱させる。
私は視線を落とす。そこには私と背後の男とのやり取りを膝を抱えて聞いている襤褸を肩に掛けた痩せた男の姿が映った。いや、聞いているのかすらわからない。実はすでに失神していて、痙攣しているだけだとしても私の目には同じように映るだろう。
そう、人間だ。人間に見える。それは視覚的な感覚でも、魔術的な感覚でも同様だ。表皮で波打って安定しない魔力が男の中には視えた。私は専門家ではないがそれがごく一般的な人間の“感情”による魔力の変化であることは明確だった。特出する点はないはずだ。
「だとしたら何だ」
「その方は私にとって有益ですが、貴方にとっては有害でしかないと云うことです。…身を譲っていただけますか?」
「もし譲ったらどうするつもりだ」
「それはお話しすることはできません。貴方は祝福を受けていないのだから」
またそれか。祝福とは一体何か、私の中で無視できない疑問となって脳裏にこびり付く。
「あまり長話をするつもりはありません。貴方の抵抗もいつか限界が訪れるでしょう。いくら私の目的を阻もうと魔力は有限です。いつまで無理をなさるつもりですか?それに、それ以上の抵抗は私への敵対だと判断し処罰をしなければならなくなります。どうかおやめください」
その言葉で私は意識を身体の異常に気付いた。指先が冷えて痺れる。このまま剣を握れるかも怪しいくらいに。
魔力とは生命に宿る活力であり、使い過ぎれば身体には顕著に異常が出る。手足の痺れ、ないし悪寒。失神、最後は死に至ることもある。
これは魔力が尽き切った最悪の場合だが、既に私は意識を保っているのがやっとの状態まで魔力を減らしていた。
『こんな短時間で魔力を削がれるか』
彼の魔術の絡繰りに覚えがないわけではなかった。それは自分の魔力を物体に通してそれを擬似的な人体として扱うという魔術だ、しかしそれは魂を持たないものに限り、他人の身体を操るものでは無いはずだ。人間や動物には魔術を使わなくても魂から流れる魔力があり、それが肉体の反射のように他者から受ける魔術を撥ねる(はねる)効果があるからだ。つまり生物を操るためには対象の魔力をすべて当人の魂へ押し込みながら肉体を乗っ取る必要があるはずなのだ。
少なくとも私の知る限りそのような術を使うものはこの城の中にはいない。
魔術において未知というのは対抗もできないことを意味する。この男は使う術に対する対抗策を考えられない以上今の状態は袋小路だ。
故に私にできることは残った魔力を絞り切り、それを全身に流すことだけだ。そうすれば“何か“の抵抗が出来るのではと、そう淡い希望を抱いて。
「人間程度の魔力量で私の術に対抗できるとでも?」
その言葉は今までの中で一番冷ややかで、哀れみすら感じられる一言だった。
再び手足は動きを止めた。否、止められた。剣を握ることも、剣を振るために腰を捻ることもないし後ろを向くために足を動くことも。
「はっ、ああああああああ!!」
思わず嗚咽が漏れる。絶望を否定したくて全身が悲鳴を上げる。
力量差などという概念は存在しない世界。何故なら手合わせしているわけじゃないから。戦いの果ての敗北じゃないから。一方的な強制力でのみ立場を決めているのだから。
「愚かですね人間は。叶わぬ物にも己の命をかける。その愚かさはいつか種すら絶やすでしょう」
反発しようにも唇が震えるし、舌が動かない。もはやそれが彼の魔術か魔力の枯渇を意味するのか、単なる恐怖か分らない。意味すらない。私が、ここからできることなど神に祈ることしかありはしないのだから。
「神は、すぐ傍におられます」
私はハッとする。体は相も変わらず動かないが、その言葉によって意識が固い牢と化した身体へと戻る。
「驚きました。貴方方はとうの昔に信仰を忘れてしまったと思っていたのですが、まさか、このような形ならば姿を表すのですね。一つ学びを得られました」
心を読まれた?
口の動きから言葉を聞き取ったり、表情から相手の意図を読む技術があるとは文献に書いていあるのを見たことがあるが、それらを
まさかそんな筈は無いと思ってても、この男ならばその様な術を知っていてもおかしく無いと納得してしまう自分が既に小さな恐怖心として心の中に巣作っている。
次はなんだ。次は、その次は?一つ一つが私の力を軽く超える魔術を、言葉一つで、”残り香”も出さず扱うこの男が私は恐ろしい。
「感謝しましょう。あなたと出会たののは私にとって無駄ではなかったということですね」
その言葉で私の体を包んでいた強制力が解けて逆に浮遊感を覚え、そして膝から崩れ落ちる。
「気が変わりました。今は見逃しましょう。罪もなく罰もなく貴方を解放します。もっとも、その魔力量で無事かは分かりませんがね」
その言葉を最後に私の意識は完全に途絶えてしまう。地面が砕けて深淵に落ちるかのように崩れ落ちた時の衝撃も伝わってこないほどに早く。自分は元より人形だったと言われても信じ込みそうになるだろう。
むしろそう言われた方が幾らか気は楽だったろう。
正味、私も今の今まで自身が強いという事に驕っていたのかもしれない。幾ら他人に門番風情と罵られようと、あの女の時点の成績を収める才を持っているのだという自負を、誰にも明かさず、心の中に潜めていた本心だと後々に気付かされることになる。
結論から言うと私は一命を取り留める。しかし、この時この出来事が私の世界を変えてしまったのは言うまでもない。
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私は水の中にいた。目は開けられない、もしくは目を開けても閉じている景色と何も変わらない暗さの中で、私の肌を海流が撫でてゆく。
そういえば、海の中に入った事ってあったっけ。私は記憶を掘り起こす。父と海岸に行ったことはあったけれど、潜った記憶は生憎と見当たらない。
でもこの感覚はなんだろう。懐かしい。昔、感じたことのある記憶。
記憶?無い筈なのに。無い。私は、ない。
だけど、本物だって思ってしまう。願ってしまう?
私の過去。これはなんの(いつの)、記録なんだろう。