#7光の届かぬ暗闇で
[私は一日のノルマをサボりました]
排水用水道の通路はもはやどこから光が漏れていて何が光っているのかもわからぬほど暗い。うっかり足を滑らせてしまえば真横を流れている水に落ちてしまいそうな足場の悪い下水に男は来ていた。
古く様々な城には下水から敵に入り込まれ攻められないように地下通路に鰐を放ったそうだと云う、男は噂を思い出しながら身震いし、物音立てずに慎重に歩みを進めていく。
左手に感じるひんやりと凍り付きそうなほど冷たく濡れた壁と右から聞こえる水の流れる音。男はそれだけを頼りに入口から入ってから通路の曲がる数を、右と左工合に数えながら数回目の曲がり角に差し掛かる。
あと少しだと自らに言いかける。目当てのものが手には入るのだと、男は暗闇で頬と薄くひび割れた唇をゆがませた。
男はあれと出会った時のことを思い出す。ちょうど七日だ。ちょうど七日前の記憶を、まるで今目の前で起きていることのように鮮明に瞼の裏に映せるほど、あれは鮮烈な記憶として焼き付いていた。
この六日間の記憶がほとんどない代わりに、それだけは確かな記録として脳の中枢に溶け込んでいる。
しかし男は立ち止まる。この角を曲がれば目当てのものが手に入るというのに男は歩みを止めた。話し声が聞こえたから。自分のほかに誰か客がいるのは珍しく、いつもと違った状況に急に若干の理性が戻ってきたのだった。
耳を澄ましてみるとそれは誰かとの会話ではなく独り言のようだった。男は曲がり角から顔を覗かせて声の主を見ようと目を見開く。
声の主は油の入った手提げの灯りを携えているものだ。頭には頭巾を被り、前身は外套にくるまれていて、体型すら読み取れないので男か女かさえわからない者だ。そしてその者の近くにはもう一人誰かが立っている。会話ではなく独り言ではあったのだが、別の人間がいたのも事実だった。
男は灯りを持った者の外套を見て「そういえばあんな奴だった」と七日前初めてこの水路に来たことを思い出す。
男はほっと息をつく。初めて”あれ”をもらった時に七日後にまたおいでと言われたのは何かの冗談かと半信半疑だったから、同じ人間がいたことに安堵したのだ。
今すぐ出て行って声をかけてもよかったが、ほかの客がいるんだったら順番待ちをしていた方がいいのかと思い、頭を掻いて我慢した。男は身分がの低い者で、身を清めると云うことを覚えず育ち、頭が揺れるたびにふけが肩に落ちた。
しかし灯りを持った者の話はなかなか終わらない。男が短気なだけか実際長かったのかはこの時間の感覚すら狂わせる闇の中ではわからないが、男はしびれを切らせてついに角から出て外套を着た者に近づこうとする。がしかし、その気も一瞬で失せる出来事を男は偶然にも目撃した。
灯りを持っていない、男が先客だと思った人間の身体が見る見るうちに肥大化してゆく。それに伴い反対側の壁に映された影が人間のものからおよそ影だけでも人とは思えない異形の化け物に変わっていったのである。
男はもう一度角に身を隠して様子を見ることを選んだ。それもそうだ。問題は灯りを持った人間の方だ。目の前で人が長いかぎづめを持った化け物に変わってゆくのも姿勢も変えずに見ているなど、まるで、外套の者が怪物にしたかのようではないか。
外套の者はまた一言二言口にする。何かを喋ったというのは、ここが狭い通路で、音が反響して自分のもとに聞こえるからであって、話の内容まで聞こえるど自分の耳がいいというわけではなかったので、内容まではわからなかった。
しばらくすると怪物は振り向くとこちらに歩みを進め始めた。
その瞬間男の心臓は跳ね上がった。まさか自分の存在がばれた?
いやまさかとは言ったが、一見売り手と買い手の商談に見える場に怪物が出てくるとは思っても見なかった男は、身を隠そうなどと思っていなかったし何なら一度角から身を出している。見つかっても当たり前だ。
今さら隠れても遅いとは思いながらも、しかし、男は濡れた地面にしゃがんで頭を抱えながら、生まれて神に身の安全を神に願った。
「神は、すぐそこに居られますよ?」
頭のすぐ上で声がした。男は悲鳴を出す事さえ忘れ、見上げる。
そこには先ほどまで通路の向こう側にいたはずの黒い外套の人物が立ってこちらを見下ろしていた。その代わりにすぐ近くにいたはずの全長が通路の天井ぎりぎりの高さまである怪物は忽然と姿を消していた。
「あ、あえ?」
呂律の周らない舌で困惑を口にする。すると外套から覗くものは静かに微笑み、
「あなた、二回目のお客様ですよね?お目当てのものはこれですか?」
そういって外套に手を入れると一つの瓶を取り出した。どこかでは見たことのある実験に使われそうな細長い瓶。男は腰が抜けて力の入らない体に無理を言いつけてその瓶を両手で恭しく受け取る。
七日前にもらったものと同じだ。暗闇でも仄明るく光る青天の色をさらに薄めた白群の液体。この地下水路に足を踏み入れる前から欲しくてたまらなかった物だ。
だが今となってはこれを手に取った理由というのは理性から出る渇望ではない。頭巾の中の、左目に眼帯を付けた隻眼の人の、紅の右の瞳の「受け取らなければ殺す」という脅迫じみた眼力に、怪物よりも強く恐怖を感じただけだった。
自分が客ではなくただの目撃者になっていたら、おそらく今、隣を流れる汚泥に命を捨てていたと、男は思った。
**********
ある昼下がり、書庫にて。今日は剣戟も聞こえずいつもに増して静かなこの場所に私は本を読みに来ていた。書庫の扉を物音一つたてずに入り、先日読み残した本を探して棚の間をすり抜け両壁に視線を巡らせる。
すると一つ向こうの棚から話し声が聞こえることに気付いた。別段聞き耳を立てるわけでもないが、書庫の静謐ゆえに私の耳にも届いてきた。
「またですか…?」
「はい。姿を消したのは第二区域の鼠捕りの男です。通報してきたのはその娘ですね」
「わかりました。では即席にはなりますが捜索隊を組んで捜索に当たらせます。この類の事件が最近増えてきているので人を集められるかわかりませんが、何とかなるでしょう」
「そうですよね。ただでさえ城内に待機している人員が少なくなっていると云うのに、無理を言って申し訳ありません」
「人命優先ですから。それよりも、門番が捕らえた物売りは本当にこの事件とは無関係だったんですか?」
「ええっと」
そこにいたのは男と女の二人のようだ。男の質問に対して女が戸惑いながら、手に持っているのだろうか、紙の擦れる音の後に返答する。
「はい。彼自身はそう証言しています」
「そうですか。彼を捕えてからも行方不明者は減らないとなると、関係性は薄いのでしょうか。それとも…」
男は舌打ちが聞こえそうな声でそう言った。
「彼」と呼ばれた人物には覚えがある。何せ、数日前に私と白髭殿が牢屋まで担いで持って行った上に、彼の身分、名前、どこから来たのか等々を聴いたのは私で、おそらく女が持っている紙も私から提出された報告書だ。
ほぼ白紙である。
この報告書を貰った側も大変困惑するだろうと多少の罪悪感が無いわけでもない。しかし、本当に無いのか、それともただ言わないだけかはわからないが、名前も言わず、ここの国から来たという決まった住処があるわけでもなく、ローラシアが管轄するどの村にも籍の登録がされてなかった男だったのだ。
上に「もう少しなにか引き出せ」と言われても拷問かなにかでなければあれの口を割らせる方法が思いつかない私であった。
「なんらからの手違いでうちに記録が無いだけで無害であるという可能性もありますが…」
「いいや、もうしばらくは拘束しているのがいいでしょう。貴女が言う可能性もありますが、その逆もある」
「かしこまりました。ではそのように」
「お願いします」
そこで二人の会話を終わった。
私はその話の途中に目当ての本を見つけ机に着いて聞いていたので、本棚から二人が姿を現したとき男の方がなぜかぎょっとしたように体を震わせた。聞いていた限りやましいことは何も言ってもしてもなかったはずなのだが、単に私が意図せず静かにしすぎていたのが原因かもしれない。
そこまで憶病で騎士が務まるのかと問いたい気を抑え込んで、さも今まで二人がいたことなど知りませんでしたと言うように前髪で視線を隠しながら無反応のまま本を読むふりを決め込む。話かけられないのなら眼も合わせずにいたかったのだけれど、そうもいかないのが切ない。
「エリス、居たのか」
「おや、ごきげんよう。私以外に先客がいたとは気が付きませんでした」
彼の名前を忘れてしまった私は一番当たり障りのないあいさつをした。確か私の上の階級だったはずなので私は自然と使いなれない敬語を引き出す。
が、立ちあがる気は無かったので座ったままの挨拶をした。
「ちょうど君が捕まえたあの男の話をしてたのだ。あれから何度か地下牢へ足を運んでいるようだが、何か聞き出せたことはあるかね?」
「いいえまだ何も」
「それは残念だ。しかしいつまでも彼を地下に留置して訳にもいかないのだからな」
「心得ております。もしも事件に関与している可能性があれば拷問でもなんでも致します。お任せください」
私がそういうと男は顎をしゃくり、手元に持っていた紙に目を落とす。
先ほど、今彼の後ろから顔を覗かせている女性から受け取った、私の書いた報告書だ。
「ほう、そうか。それは頼もしい。だが君の提出した報告書には、彼と、昨今、国内で頻発する失踪事件は無関係だと書いてある」
「よくお読みになってくださいませ。関係性が薄いと書いたのです。事実、その可能性が高いと私は考えています。彼を捕らえた後も行方不明者は減らない、ばかりか行方不明者の捜索依頼の件数は増えている。彼が人々を隠す首謀者ならばその傾向はおかしい」
「共犯者がいるかもしれない」
「仲間が牢に縛られてから行動が増える共犯者というのはいささか妙では?」
「それこそが彼を容疑者から外す作戦だとしたらどうだ」
「考えましたがあまり現実的ではないと思います。人を拐うというのはそれだけで犯人にとっては現場に痕跡を残す危険のある行為なはず。我々の捜査を誘導するために件数を増やすのは不自然です。それにしても先程から貴殿は私を試しているようだ。報告書があまり内容が薄いゆえに私が報告せずに隠していることがあるのではないかと疑っているのなら検討違いです」
「…ふっ。はっはっは。まさか。卿は騎士となった年は浅くとも我が同士だ。疑うなどあるはずもないさ」
男は軽快に笑う。他人に興味がない私とて、それが嘘だとぐらいわかる掌返しである。
「今起きている事件と同時期に捕まえた不審者が必ずしも関係しているわけでもありませんし、刑を執行するのも軽率でしょう。これからも彼の尋問は続けますし、何かわかり次第上への報告は欠きませんので、ご安心ください」
「うむ、頼むよ」
「はい」
それだけ言い残して男は書庫から出て行った。後ろにくっついていた女も男の背中追って出て行った。
私は二人が出て行ったのを見届けると本を机の上に置いて背もたれに浅く座り背もたれに体重をかけ、天井を見上げる。
報告書に書き損じたこと。あるに決まっている。ただし、それはあくまで私情がからむ内容だったからであり、書き記す必要の無い内容だったからだ。故に私をああも疑いの目で見るというのはこちらとしては釈然としないものである。
その内容というのは別段彼の名前でも身分でもない。いわば信用とか信頼とか、そういった類いのものだった。
*****
「…こういった居心地の悪い穴倉は慣れちゃいるが、その目つきは慣れちゃいないんだ。控えてくれると助かる」
「取って食いはしない」
「そんなこと言われなくてもわかる。…そんな状態で俺が目を覚ます前からいたってのか。俺が殴られて記憶違いを起こしてなければあんたは門番だったはずだけど」
「日中は非番でな。手持無沙汰で本を読んでいたらお前を捕まえたからと云った理由で尋問役にあてがわれた」
「取調べには専門の係がいるんじゃないのか。人員不足?」
「そうだといえばそうだが、騎士の人数自体が少ないわけではない。無駄口を叩くな」
石壁とかびの香り、そしてさびた鉄格子と来ればここはローラシア騎士団の地下牢である。地上の音が一切届かない深さの地下には言わずもがな風が吹かず、静かに石畳の上に積もったほこりは私の嘆息でさえ舞い上がるほど乾いて軽い。
灯りは天井から吊るされた皿に入った火の着いた油だけで、我々の影を動かしている。
「はいはい分かりましたとも。それで何の用?拷問じゃなくて尋問ってところに優しさを感じて、ある程度の質問なら聞くよ?」
「拷問に変わるのはお前の態度次第だがな」
私は手元に持った先ほど上官から渡された報告書を見下ろす。そこには懇切丁寧に名前と罪状と身分やらを書く欄がそれぞれ分けられていた。私はその欄を埋められるように男から情報を引き出すだけの単純な作業だ。
もっとも、内容自体は単純明快で一言で他人に頼めるものだが、それは彼が口の軽い人間だった時の話である。
「名はなんていう」
「黙秘」
若干期待はしていたが、即答によってその願望は崩れ去る。
「だろうな」
「他の質問にしな。自分のことはしゃべらない主義なんだ。そうだな、寝ていても落ちにくい野宿に適した木の選び方とかどうだ?」
「出身はどこだ」
「…聞いてたか?」
「それ以外に聞き出せと命じられていることが無い。もちろん私個人としての興味もな」
「だったらせっかくだから世間話でもしようじゃないか」
「余所の国の諜報員かもわからぬ奴に世間の話をか。考えておこう」
「固いねぇ」
なぜだろう。昨夜しのぎを削っていたはずの我々が、寝て覚めてみればこんなにも冷めきった、まるで知人と交わす軽口のような距離感である。
私のせいか。私が仕事だと思ってこの場にいるのが気の抜ける原因か。それともまたもや読書の邪魔が入った理不尽に腹を立てて投げやりになっているのか。どちらにせよ、私は直接彼と接触して情報を聞き出すという今の状況に、間違いなく気乗りしていないのは自分がよくわかっている。
「それにしても、」
私がぶつぶつと自分にしか聞こえない音量で愚痴を溢していると、彼は突然口を開いた。
「静かなもんだ。この国の治安は知っているが、こうも咎人がいないとはね。どんな時代だろうと、手癖の悪い奴はいるものと思っていたよ」
「なんの話だ?」
「この地下牢には俺しかいないのだなと思ってさ」
そう云われて私はあたりの牢を見回した。騎士団の牢は全部で三階に渡って地下に続いていて、ここは地下の一階だ。大罪を犯さない限り罪人は上の牢から順に入れられて行くという決まりだが、ここは一階で、この階には我々しかいない。つまり投獄されているのは彼だけだ。
人気も無ければ最近人がいた形跡も無い。荒削りの天井から舞い落ちた新雪のごとき砂埃も階の入り口からここまでに続く私の足跡しか付いていない。鉄格子もすっかり錆びてしまって、多少力を使えば根元から外れてしまいそうだ。例えば私の目の前で茣蓙の上で胡坐をかいて呑気にあくびをしながら埃でせき込んでる彼ならば、私に打ち込んだ拳ならこの鉄格子は耐えられないだろう。
それでも今のところはこの薄暗い空間でも大人しくしている。
「確かに長らく使われていないそうだ。この国は誰も法を破ろうなどという気は無いのだからな。盗みも、まして殺しも。以前はいくらでもあったそうだが、今ではこの通りだ」
「だとしたら妙だ。俺は何度かこの城を出入りして街の構造は頭に入っているし、警備の薄いところを縫って歩いていたはずなんだが、なぜ昨日はあんたらの配置が換わっていたんだ。治安がいいならその必要も無いだろう?」
愉快なことにどうやら彼はなに食わぬ顔でいるとはいえ、自分が捕まった理由が解せないようだった。
幾度となく無断で城に入り、誰にも気づかれることなく出ていけることに何処か自尊的なあったのだろうけれど、昨夜、この国の警備網に引っ掛かった挙げ句私と白髭の老人に捕らえられてしまったのだから当たり前と言えば当たり前である。
それはまるで、遊戯に負けた無邪気な子供のようにも見えるのだった。
「さあな。お前を追っていたのは軍の人間だ。」
「おいおい。白々しいにも程があるぜ。いくら騎士と国防軍が別組織だからってなんにも知らないってことは無いだろう?」
「ああ。なんなら我々も同じ役目を担っていたりするからな。だがお前に教えてやる義理はない。さっきも言ったが、どこの馬の骨ともわからないお前に、国の内情を知らせる訳にはいかぬのだ」
「なるほど。じゃあ交渉はどうだ。お前が話してくれたら俺は知っていること、知りたがられていることを話す。どうだ?」
「交渉を持ちかけられる立場か。だがなぜそんな物が気になる?」
私がそう言うと男は胡座をかいていた脚をほどいて伸ばす。それが力を抜いて脱力仕切った姿勢かと思ったがむしろその瞳は笑みを失い、私は呼吸を忘れてすくんでしまった。昨夜見た瞳。狩人の眼だ。
しかしその眼を向けられていても私が臨戦態勢をとらずに済んだのはまだ童顔の彼の口角が片方持ち上がっていて、いつも通りにへらと笑っていたからだった。
「恥ずかしながら、俺は負けず嫌いなんだよ。一度やられたら逃げたくないし逃げられない。できると踏んだ計画が覆ると不愉快だ。俺からしたら自分の庭同然のこの城で追っかけ回されることになったのはどうも綽然としなくてね」
男はそういって苦笑する。
その表情から察するに、彼は自身の矜持が悪癖か厄介な病気か何かのように感じているようであった。しかし、彼がもしそういう人間ならば、昨日私と対峙した時にさっさと背中向けて逃げ出さなかったのも道理と言える。
男が大真面目な表情でいるのに対して、私は失笑してしまう。
「賊の癖にご立派な性だな」
「賊と呼ばれるのは不本意なんだけど」
「事実だ」
「ただの物売り。行商だよ。前からそう言っている」
「ならその商品はどこに置いてきた。お前は売春婦でもないだろうに、いったい何を売るつもりだった?」
「逃げるときに城内に隠してきた。追いかけられても、それぐらいの余裕はあったからな。ちなみに場所は言わないぞ」
「もう一つの質問に答えてもらおうか。中身はなんだ」
「別に、大したものじゃない」
「その中身を知れれば拘束を解くことができるのだが、それでも教えないか?」
「どういうことだ」
私がしばしの沈黙の後、数秒前の彼の問いに答える。
「身分が証明できないやら、名が名簿に残っていないなどと云うのはお前を捕まえてから発覚したことだ。見回りが増えた理由じゃない。だから最悪、お前の無害であることが証明できれば無名だろうが拘束は解くことはできる。二度と城の中には入れないかもしれないがな。しかし、お前が売っていた商品の中を確認しない限りには一生このままだ」
「俺が売っていたものが重要で、あの警備の理由だと?」
「そういうことだ」
「なるほど…。行商っつったら怪しまれずに済むと思ったのにな。あだになったか」
「何か言ったか?」
「いいな何も。そういわれても俺が売っているものなんて干し肉と灯りに使う油と、あと酒ぐらいなものだ。怪しいものは持ってきちゃいない」
酒と聞いて私の中では手に入らなくなった葡萄酒が頭に浮かぶ。確かあれはすでに生産すら止まっているのだと聞いていて、その正体が一体何なのか気にはなったが話を逸らすのは今ではないと、問いたくなる気を抑えた。
「なら場所を吐いても良いのでは?」
「私物も入ってるからな。今は城の中で商品を売り買いして、その金で食料を賄っていたりするけど主に生活してるのは荒野か森でさ。そのために必要なものもあるし、触れてほしくないのよ」
「なら貴様は一生このままか」
「居心地が悪くなれば出ていくんで、大した問題じゃないね」
間髪を入れずに言い切る男の表情は自信に満ちていた。いや、それはもう尋問を任された者にとっては自信ではなく一種の脅迫とも取れる声色だ。
「お前にできるのか?」
「ああ。簡単にね」
男との間に沈黙が流れる。灯りで照らされた通路に座る私と光の届かない鉄格子の向こう側の彼。呼吸すら聞こえない男の存在はすでに失われていて、私が見つめているのは誰もいない虚空なのではないかと錯覚しそうになる静寂が、私を見つめていた。
だが「話を戻すけど」と口火を切ってその静寂を破るのもまた彼だった。
「で、俺が売っていたら悪いもののことまだ聞いてないんだけど」
私ははっとして改めて彼を見やる。ころころと見え方を変える彼の顔はもとに戻っていた。
「もう一度聞くが本当に何も知らないのだな?」
「知らないことを証明するのは難しい。嘘だと言われれば言い返す言葉は無いからね。けど、俺は確かに見に覚えがない」
取調べをするときは容疑者が自白するまで罪状は言わないものだと以前誰かが話していたのを思い出して、私はそれを口にするのを少し躊躇った。
しかし「言え」と「言わない」のいたちごっこでは埒が開かないとも分かっていたため、私は一呼吸置いてから彼が捕まった訳を話始める。
「最近、妙な品が第三区に流れてる。これぐらいの小瓶に入ってる液体らしいんだが、知らないか?」
私は懐から細長い三寸ばかりの小瓶を取り出す。表面は若干削れてくすんでいて中は見えずらいが空だ。
男は口をへの字に曲げて首を傾げる。
「見たことないな」
その表情を見る限り。眉間の皺、口角、視線を見ても嘘はついているようには見えなかったでの話を続ける。
「お前にかけられている容疑は十四人の連続無差別誘拐事件に関わっている可能性があること。消えた人間たちの職業も性別も、消えた時間帯も共通点は無い。しかし、消えた人々の部屋からは決まってこれが見つかった。中を確かめたが毒物が付着いるということもなく一体何に使われていたのかすらわからず、犯人の目的も誘拐した手段も特定し損ねているという状態だ」
「なるほど。共通点が無いからこそそんな小瓶一つが必ず転がっているというのが不可思議というわけか。貸してもらっても?」
「…まあいいだろう」
私は鉄格子の間からそれを手渡した。たとえ彼がそれを壊しても代わりはあるからだ。この小瓶は十四件ある事件のうち十四本も見つかっていて、どれも表面に傷があるだけで破損しているものが無かった。瓶の素材はさほど固いものではなかったはずだが、そのすべてが割れずに残っている。調査書の内容を人伝に聞いた限りだとそのようだったはず。
中に入っていたものが何なのかは定かではないが、恐らく自主的に内容物を呑んで事件に巻き込まれたと推測されていているが、はたして十四人の無作為な人間に決まって小瓶の中身を経口摂取させると云うのは現実的だろうかと疑問が残っている。
彼はその小瓶を興味深そうに観察した。灯りに翳したり、鼻を近付けたり。指を入れたり、はたまた瓶の内に突っ込んだ指を舌に当てたり、だ。
「無臭、内壁に粘着性は無し。味も無し。なるほど。確かこれは手がかりとは言えないね」
「中身に覚えはあるか?」
「いいや。俺の商品じゃないからなんとも。ただ検討はつく」
彼は飄々とそう言った。
「と言っても具体的な名前とかを知ってるわけではなくって、こういうのを持った人間とあったことがあるってだけだけど」
「?!そいつはどこにいる」
「さあ?見たところ決まった家があるようには見えなかったしどこかにはいるだろう」
「誤魔化すな」
「誤魔化してない。俺がこの城の全員と仲良しこよしだと思うか?」
「ならどこで見たのかぐらいは教えろ」
「...場所ぐらいは教えてやってもいいか。見たのは第三区と第二区の間の大門の外側に並んだ長屋の間の何処かだ。服装は襤褸だったから特徴は無い。無精髭が伸びて髪もぼさぼさ、かなーり憔悴しきった様子だったし、見つけた頃にはうじの温床かもだけど、探してみる価値はあるんじゃない?」
「へえ。さすが、城内をかけずり回った鼠は視点が違うな」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味だ」
「ああそうかよ。いいさ鼠でも。じゃ、捕まった理由も聞いたし満足はした。今日は寝る」
男は不貞腐れてすっと跳ねるように立つと寝台の上に寝転んで、片腕を枕にして、それから身動き一つ付かなくなった。
まさか彼が調査を進展させるとは思っても見なかった。私は門番で、今はまだ調査に直接関与しているわけではないけれど、それは喜ばしくあった。何故ならこの手の厄介事は私にも回ってくるからだ。
「あ、一つ言い忘れてた」
私がその場を離れようとした時だった。私の視界から鉄格子が消えた瞬間、寝台に横になったはずの彼は音もなく鉄格子の寸前まで移動していた。こちらを無感情の瞳で捉えて。
私はあと一歩格子に近ければ恐らく手の届いただろうという現実に大袈裟に飛び退いてしまった。が、彼はそんな怯えた私を見えていないかのように口を開いた。
「俺の見た奴が生きているのなら、もしかしたら君に害を与えるかもしれない。」
「...その心配には及ばない。消えた人間の中には戦闘の経験のある人間はいなかった。もしそいつが正気を失っていても対処は可能だ」
「...だといいけど。でもその事件、消えた人数の規模以上に、厄介かもしれないよ」
男はそれだけ言い残すと振り返ってそのままふらふらと歩くとまた元の場所に寝転んで寝息をつき始めた。
つくづく図れない男だ。一つ一つの言動が、私の思考の一つ向こうを見ているような、そんな気持ち悪さや不気味さと言うものがある。
ただ、それでも敵意だけは感じられないのが不思議だった。牢に閉じ込められ、故におとなしく振る舞っているだけなのかはさだかではないが、彼の目には人を出し抜こうという意思すらない。いや、そもそも感情すら無いのかもしれない。顔に浮かべている笑みは張り付けた他人の皮で、剥がしてしまえばその正体は無貌の怪物なのではないかと妄想まで起こさせた。
正直、尋問を任された以前に個人として興味が沸いたことは否めない。もし彼の脳をかっ開いて、知りたい事を何だろうと引き出すことが出来るのならどれだけ良いか。そう思わずにはいられなかった。
昔から未知と言うものには牽かれてしまう嫌いがあったが、彼はまさに未知そのものであった。