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アマランサスの花  作者: 虹色写真
序幕 ~十五の夏~
4/8

#4記憶

 エリスは名前も聞けなかった男の言うことを素直に聞いて



**********



エリスは路地裏の空気を堪能してからから家まで真っ直ぐに大通りを歩いて戻った。

 外から見る我が家の灯りは無く、みんな寝てしまったか、少なくとも各自部屋に戻った様だったので安心した。しかし、開けたままだったはずの2階の窓が何故か閉まっていたのが気に止まった。


「なんだ?」


 いつもの家の凹凸の多い壁をまで行き二階の屋根まで上がると、自室の窓の前まで戻ってきた。窓には錠前を付けるところが無いので、閉まっていても引けば開いた。恐る恐る顔から中を覗き込むように家に入る。靴を脱いでから机に脚を乗せて床に足を着けた。ここまで蚊が壁に張り付くほども音はしなかった。しかし、


「エリー…?」


 どうやらそこに眠っていた人を起こしてしまったようだった。床にへたり込んで寝台にもたれかかってお義母さんが自分の部屋で待っていた。


「お義母さん…。」

「あ、おかえりなさいエリー。ごめんなさいね。お母さん寝ちゃってたみたい。」


 義母さんはゆっくりと立ち上がると、自分が頭を乗せていた場所に腰を掛けた。乱れた髪をまとめて、いつも通り一束にまとめて左肩から流し、残った髪を耳にかてる。エリスよりも薄い胡桃色の髪は一つ一つそこにあることを命じられたかのように美しく、その場所に落ち着いた。髪に隠れていいた顔は髪の跡がついていて、わずかに目の下が赤くなっているのが仄暗い寝室でも見て取れた。それともそれは錯覚だったかもしれないけど、やっぱり、確かめる術もなかったので真実は永遠にわからない。

 そんな義母さんの隣に靴を机の端にそろえて置いたエリスが座る。ここなら正面から義母さん顔を見ずにすむと考えたのだが、肩が触れそうになる距離は逆にむずがゆさが沸き立った。


「ごめん。部屋に戻っていろって言われたのに抜け出して」


 当然叱られると思って身を固くするが、義母さんから帰ってきたのはいつも通りの穏やかな声音だった。


「いいのよ。でもよかった。お母さん嫌われちゃったのかと思った。このまま帰ってこなかったらどうしようって心配したわ」

「まさか、」

「さっきはごめんなさいね。突然大きな声を出したりなんてして。」

「なんで義母さんが謝るのさ。義母さんも義父さんも悪くないでしょ」


 あの言葉に関しては嘘を言ったわけでも、相手を傷つけようと誇張した台詞だった訳でもない心からの本心であることは紛れもなく事実だったけれど、だからと言ってあの場で言わなければならない事でもなかった。

 思ったことをすぐ口にしてしまうほど幼くもないのに。


「義父さんは?」

「大丈夫よ。もう寝てると思うわ。」

「そうじゃなくて、あの後。怒ってた?」

「…ええ、そうねぇ。驚いていたみたいだったけど、怒ってはなかったみたいよ。でもお父さんなりにいろいろ考えることがあったみたい」

「そうなんだ」


 思えば彼が大なり小なり怒ったところを見たことがないなと、酔っていないときの義父を思い出す。年をとっても昔から変わらない鋭く、けれど威圧的ではない目元に、顎に蓄えた整った髭が特徴的の正義漢。笑顔はたびたび見たことがあるから想像はつくけれど、怒った顔は何故か想像しずらかった。


「いっそ叱りつけてくれた方が良かったのに」


 恩知らずが、と叱られた方が気は楽だったろうとエリスは思う。そう思うのは我儘だろうか?

 一方的に暴言を吐いて、それでいて許すと言われても釈然としない、えも言えぬモノが、胸のなかに残った。それを罪悪感と呼ぶべきか迷ったが、エリスにとってそれはやや不本意であった。

 そこに義母はゆっくりと話し始める。まるで昔読んだ本の一説を記憶の中から蘇らせるかの様に。


「ねえエリー?」

「・・・なに?」

「お母さんがあなた達と暮らしていて、一番嬉しかったことって、何だと思う?」


 義母はそんなことで口火を切った。そんなの知るわけがないと、と言うのが正直な思いだった。当たり前なことだけれど、まだ自分は親になったことはないのだから。それを正直に言うわけにもいかないので、ありきたりな答えを考えてみる。


「子供が優秀に育っているって実感できた時、かな。」


 自分が考えるに、それが最適解だ。子供を作るなら優秀な方がいい、凡骨なら作る意味が無い、そう考えた。でも、お義母さんは首を横に振った。


「ううん。違うわエリー。確かにそれはとても喜ばしい事だけれど、お母さんはね、エリーが今よりずっと悪い子でもエリーの事が好きだったと思うもの。」

「じゃあ、一体何なのさ。」

「それは、お母さんを『おかあさん』って呼んでくれたとき。」


 一つの問いの一つの答えに、ここまで綽然としない思いを抱いたのは始めてだ。呼び名がなんだって?他の呼び名は不自然で、母となる人を本名で呼ぶのは奇妙だったからその呼び名に落ち着いただけだ。だから『おかあさん』と呼んできた。ただそれだけの筈なのに、お義母さんはそれが一番嬉しいと言う。

 なぜ?


「そんなの分からないって。」当てられなかったことを悔しがるみたいに苦笑する。誰かの親になったことも無いんだから当たり前と言えば当たり前だ。


「じゃあ、エリーは始めてこの家に来た時の事をどれくらい覚えてる?」

「…うん。大体の事は覚えてる」


 ああ、あの時か。もちろん覚えてる。鮮明に、生々しくて腐り出しそうなくらいハッキリと覚えてる。その数ヵ月前があやふやだけど、その日から物語が始まったように一頁目に深く刻みこまれている。

 家から逃がされ、たった一人で国の中を這いずり回って何日間も何もの飲まず食わずで膝を抱え込んで雨に打たれていたときにこの家の家主と出会った。

 『うちに来ないか』って云うその人を、最初は子供を狙う悪人だと思っていた。遠い国では身寄りのない子供は悪い大人に捕まって奴隷になるらしいと、子供に聞かせられる範囲と言葉で教えられていたから、大人のなかには悪い奴が混じっているというのは感覚的に知っていた。しかし、別段その男を怖がる理由もなく思えて、差し出される手を無言でおとなしく取ったのだった。

 もうどうなってもいい、そんなことを子供ながらにして考えていたから。


「あんまり、思い出したくないけど」

「最初はあなたが3歳だとは思わなかったわ。目が虚ろで、どこか遠くを見ていて、生きるのに疲れた老人みたいだった。そして何より、一度も笑わなかった」


 そういえばそうだったかもしれない。

 仮に3歳までが、子供が感じられる最大の幸福を感じた3年間だったとすれば、あの数日は子供が感じられる最大の絶望を一心に受けた数日だったのだから。

 子供は純粋だ。嬉しければ笑うし、悲しければ泣く、最低を見たのならその心は最低に落ち着くものなのであった。


「その時に決めたの。私の勝手だって分かっていても『私はこの子の母親になるんだ』って。絶対にお腹は空かせない。絶対に寒い思いなんてさせない。絶対に泣かせたりしないって。だから始めておかあさんって呼んでくれたときはとても嬉しかった。」


 ここでようやく義母の心の片鱗を掴んだ気がした。

 おそらく意図はしてない。自分に限って、『この人を母親として認めよう』、なんて傲慢な考えは持たなかったはずだから、ごく自然に、初めからそうだったように『おかあさん』と呼んだ。彼女の慈母性が心の奥深くに共鳴したことで始めて生まれた言葉だ。

 だから、それはそれは、価値がある言葉として義母の中にあったのだろう。血の繋がりはないこの二人の人間が、何らかの楔で結ばれたのだろう。


「それはただ落ち着きが良くて、そう呼ぶのが都合よかったから。他人から変な目で見られるのだけは避けたかったからだと思う」


 本当だ。義母を母と呼ばなければ他人は不振に思うし、自分が処刑された貴族の子だと知られでもしたら厄介だったからだ。


「それでもいい。あなたが一番居心地のいい場所を作ってあげたかったんだもの」

「・・・二人に何かをしてあげたことは無くても?」

「それでもいい。親は我が子がすべてだもの。なんでもしてあげたいし、お返し何ていらない。いてくれるだけで十分なの」

「…今まで、両親のことを忘れられなかった」

「それでも、あなたは拾い物なんかじゃない。血が繋がっていなくても、私はあなたを守ってあげたかった。お父さんはこういうことを口にしてくれないけど、同じ気持ちのはず。」

「・・・まだ、分からないよ。なんで、」


 洒落た言いまわしで言えば「無償の愛」とでも云ったろうか。その簡素な表現がエリスには本気で理解できなかった。

 その言葉を最後に、義母との会話は途切れてしまった。

 しばらくたって義母はおやすみと言って自分の寝室へ戻っていったのだが、この後、養親が最期を迎える前に会話をしたかというと正直自信が無くなってしまっているのが『今』の自分だった。おそらくあの母子問答とでも言うべき会話が義母との最後の語らいであったんだと思うと、急に感慨と憂鬱な感情に耽ってしまう。


 思えば、最後のは少し嘘だった。


**********


 その夜は酷く現実味をおびた夢を見た。いつもはボヤけて霞んでいる視界がさえ渡り、足の裏で踏みしめる草や土の感触まで再現されて「自分はいつ目が覚めたのだろう」と錯覚してしまうほどだった。

 空が琥珀色の夕日から藍色の闇夜に、夜から玉虫色の晴天へと、まるで絹の生地を広げては巻き戻しているかのように次々に変化していて、その非現実味が唯一の夢らしさだった。


 時間が加速しているんだ。よく見れば人のようなものが自分の周りでせかせかと動いていて、数寸の残像の尾を引きながら動き回っている。一人一人が顔も見れないぐらい早く急いでいて、それはどんどん加速していく。

 倍に倍に倍に。音もなく動いている彼らを、自分はただ何かの視線として、客観的に、ローラシアの城門に続く大通りの真ん中に立ちながら眺めている。

 何度か目の昼が訪れた時から景色は変わり始めた。変わらず繰り返されていた天気は人々の動きとは真逆にゆっくりとなだらかに沸き立つ雲たちに隠れ始めた。ああ、包まれる。暗闇に包まれる。そう思った時にはすでに国の真上まで雲は迫り来ていて、それはまるで高すぎる波を連想させた。


 昔見た海、お父さんに連れて行ってもらった海。白波立ち、一つの生き物の皮膚のように脈動したり、生生しく鼓動を続けていた海が長い年月を経て国にたどり着き、我々を押し流そうとしているように見えなくもなかった。

 やがてこの世界はゴウと喉をならし降り注ぐ雲に飲み込まれた。

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