戦場へ
「ジル」
風呂から上がって部屋に戻れば、そこには虚ろな瞳をしてベッドに腰掛けているジルがいた。彼も風呂に入ったらしく、肩からはタオルがかけられており、服装もラフなものに変わっている。
「ジル?」
「あ、ああ、すまない…ボーっとしていた」
一度目の呼びかけに反応がなかったので、若干音量を上げて再度呼びかければ、はっと顔を上げる。
「大丈夫?疲れてる?」
同じようにベッドに腰掛けて、一回り大きな手に触れる。ジルの手の甲に置いた手は逆に握りこまれてしまった。目が合えばゆるく微笑まれたが、その笑みにはやはり力がないように見える。
「大丈夫だ。疲れては、いない…」
「そう?」
そう言いながら、握った楓の手の甲に口づけを落とす。
夕食の時も心ここにあらず、といった様子だったので、バレンツもフェルツも心配していた。風呂から上がったらジルの部屋に行くつもりだったので、彼が楓の部屋に来てくれて手間が省けたのかもしれない。
「…何か嫌なことがあったんだね」
ピクリと動いた眉に気付かないほど鈍感ではない。昨日の早朝、城へ呼び出されていたことに関係があるのは間違いない。
「…ついに私が戦場に行く日が来た、とか」
それは問いかけではなく最早確認だった。隠しきれずに歪められた眉に、それが真実だと確信する。
「そっか、ついにか…」
あの裁定からもう一年近くが経とうとしていた。ジルが最果ての地に着任し、街は立ち直りつつある。魔物討伐のためのギルドも軌道に乗り、滞りなく機能してきている。
「ジル、どうにかしようだなんて考えないで。これは“私の償い”なんだから」
「だが、あなたに万が一のことがあったら…!」
このまま楓が戦場に駆り出される日が来なければいいと思っていた。だが、無情にも竜王であるカイユザークの口から、聞きたくない言葉が出てきたのだ。
「傍にいれば、もしジルやフェルツに何かあったらすぐに治療することができる」
きっとお互い様なのだ。ジルとフェルツの無事を想って家にいるより、近くで待っていた方がいざという時に力になれるかもしれない。
「行かせたくないんだ…あなたを戦場になど…!」
「ありがとう、心配してくれて」
◆
「連れて来ないかと」
「そのつもりだった」
カイユザークの嫌味にむすっとした顔をして冷たく返したジルに、楓はただただ苦笑した。抗いようのない現実は受け入れるしかないというのに、ジルにはそれができなかったのだ。
「前線に放り出すわけでもなし」
「前線に出すと言っていたら、私はお前の首を切り落としていた」
「ジル!!」
いくら親友だからといって、竜王に向かってなんてことを言うのか。謀叛と疑われても仕方がない。悲鳴をあげた楓を余所に、カイユザークは気にしていないのかケラケラと笑った。
「救護所にはゼンフェイユを残らせる」
「フェイユを?」
「軍人でもない女性を戦場に連れて行くんだ。それくらいの配慮は王としてするさ」
ぽんとジルの肩を叩いたカイユザークは天幕から出て行ってしまった。士気を高めるために兵士たちを鼓舞しに回るのだろう。
「ゼンフェイユ様はとてもお強いんですよ」
背後に控えていたフェルツが、楓を安心させるようにそう言った。ゼンフェイユの剣の腕は一流なので、護衛としてはこの上ない人選だろう。
「カエデ…フェイユ自身がああ言っていたのだから、気にすることはない」
“あなたを恨むつもりはない”
ゼンフェイユの番を殺したのは楓だ。だが、彼女は夫の仇を恨むことはしないと言ってくれている。
「本当に嫌だったら、竜王の命令でも断っているはずだ」
「うん…」
心のどこかでフェルツが残ってくれればいいと思っていた。だが、フェルツにも役目がある。
「気を付けてね」
「ああ、カエデも。もし何かあったら自分の身を守ることを第一に考えてほしい」
楓の両手を握り、ジルがそう懇願する。楓は優しいから、いざという時に誰かの盾になりかねない。
「私のことを信用していないのか?」
天幕に入ってきたのはまさに話題の人物だった。長い髪が高い位置で一つに結ばれており、白い軍服がよく似合っていた。
「お前の番のことは、このゼンフェイユがきちんと守る」
この剣に誓って、と腰に佩いた剣をなぞり、ジルをまっすぐに見据える。
「ああ、私の番を頼んだ」
「気まずいだろうが、我慢してくれ」
「いえ、そんな…」
困った顔をする楓に複雑な思いを抱きながら、ジルはフェルツを連れて天幕から出て行った。