来訪
そしてスミノさんは私に眠りの魔法をかけた。魔法を解く方法はただ一つ。
私が、心の底から「目覚めたい」と願うこと。
それ以来、私は夢の中にいる。六歳までの私の記憶と、スミノさんから学んだ知識、加えて、私の身体が感じているもので構成された世界。いつからか、私は夢の中にいながら眠っているはずの身体が感じていることを知覚できるようになっていた。例えば天気。風が吹き、陽射しが頬を暖め、雨の匂いが立ち上る。鳥の鳴き声なんかも聞き取れる。スミノさんによると、それは私が半ば目覚め掛かっている証らしい。
「でも私、目覚めたいと願った覚えはありません。」
「だから、中途半端に目覚めちゃってるのよ。“心の底から”願っている訳ではないから・・・飽きちゃったんじゃないかしらねぇ。眠り続けていることに。」
「飽きてもいません・・・ここにいればスミノさんが色んなことを教えて下さって・・・それで充分です。」
「私から色々聞いて、実際に外の世界を見たい、とは思わないの?」
「・・・外の世界のことなら覚えてますもん。」
灰色に染まり、ガヤガヤと煩く、無味無臭で寒々とした世界。あんな世界に戻りたいとは思えない。けれどもそう答えた時のスミノさんは少し苦しげで、寂しそうな顔をしており、もっと違う返事をすべきだったかとも思った。
今は夢の中。暖かく、バラの香りが微かに鼻をくすぐる。スミノさんは、私の身体は王城の裏庭にある離れに寝かされていると言っていた。
「あの、スミノさん。」
今日は薬草の授業だ。夢の中にいるはずのスミノさんはどこからともなく図鑑や標本を取り出して広げる。ちゃんと触れるし、匂いもする。
「どうかしました?」
「もし、私の身体が傷を負ったらどうなるのでしょうか?」
「・・・傷の度合いにもよるけど、身体は傷を治そうとするでしょうね。痛みから逃れたいというこころの意思も強ければ、目が覚めるのではないかしら。怪我なんてどうでもいいから眠りたい、と願うなら、眠り続けると思うけど。」
「・・・あまり痛かったら起きることにします。でも、そういう目覚め方は嫌ですね。そうでもしないと起きられないかもしれませんけど。」
葉の尖った薬草を一つ手に取る。親指の腹で軽く触れただけで、チクリと痛みが走る。
「ユメ。今日は集中力がありませんね。勉強は止めにしますか。」
スミノさんが本を閉じ、机の上を片付けていく。
「ごめんなさい。そんなつもりはなかったのですが。」
「いいえ、あなたにとって大切なのは、自分の心を育てること。怪我のことでも何でも、気になったことは存分に考えなさい。私に聞きたいことがあるのでしたら、また呼んで下さい。すぐに現れますので。」
スミノさんの影が、白い光の中に呑まれていく。こうもあっさり消えてしまうということは、やはり私は勉強をする気がないらしい。
(私が今、大けがを負ったら死んでしまうのかしら)
さっき薬草の葉で挿した親指からは、もう痛みが消えてしまっている。
痛いのは嫌だ。死ぬのは嫌だ。でも、痛くないというのも、どこか淋しい。
ふと、耳慣れない音が聞こえた気がした。集中し、耳に入ってくる音を一つ一つ聞き分けていく。鳥の声、風の吹く音・・・それらに混じり、ざっざっと規則正しい音が徐々に大きく―近づいてきている。
(これは・・・足音?)
やがて、足音と共に人の息づかいと話し声が聞こえてきた。
(誰?何?何か喋ってる・・・)
足音が止まった。会話をしているような気がするが、何人いるのだろうか。
また足音が近づいてきて、止まった。やはり何か喋っているようだが聞き取れない。
むん、と何かが近づく気配があった、と思った次の瞬間、唇にじっとりと、生温い感触があった――――――
「いやあああああああああ!!!!」
まず、額を盛大に打ち付けた。真っ白な視界の中、向かって左に人影が見えた。
「ふざけないで、このっこのっー!」
考えるよりも先に右手が出ていたらしい。右手が痺れる、と思ったら、目の前に頬を抑えてふらつく男がいた。両手を寝台につくと、今度は確実に狙いを定める。
「くたばれや!この糞野郎!」
腹に蹴りを入れると、男は盛大に吹っ飛んで壁にぶち当たった。その拍子に頭を打ったのか、ずるとくずれ落ちる。